第14話 好奇心は時に猫を殺すがあなたを救いたい
私を脱獄させる?
彼女は複雑な物事を頭の中で処理することは得意な方だが、それにしても今回ばかりは情報が不明確すぎて結論が出せなかった。彼女は男の言葉の続きを待った。
「貴方をここから救い出したい」再び男はきっぱりと言い、グロリオサの目をしっかりと見た。
「何、簡単です、あなたの力を以てすればね。あなたは髪を洗いたいと喚くのです。出来れば隣の部屋の者に聞かれるくらい。あなたは賢く、気高く、勇気もある。きっとできるはずです。実際にあなたは髪を洗いたくて仕方ないでしょうしね。私があなたに水をかけてあげます。大量の水をね。そうすれば少なくともここを出ることできます。あなたの持って生まれたそのままの力で、ね」
グロリオサは黙っていた。男の言葉の続きを待った。男も彼女の反応を待った。両者は黙ったまま、お互いを見ていた。
「悪くない提案だと思いませんか?」男は待ちかねて言葉を発した。
「貴方のメリットと目的がわからない」彼女は初めて、淀みない口調で言葉を発した。
「メリットは、」男は視線を上に向けて考えた。腕汲みもした。
「考えてみれば特に無いかもしれません。危険が多すぎるし、かといって私が死後に英雄呼ばわりされ、銅像を建てられるようになるとも考えにくい。しいて言うならば……そうですね、興味です。興味、好奇心。そうです(男の声は一段高くなった)、好奇心です。
好奇心は時として、残酷なものです。あらゆるものが、好奇心の前では意味をなさない時があります。また、時として、好奇心の前では、生き物を殺すことさえ正当化されます。本当ですよ、これ。他人や世界を救うためなどと言っておきながら、その実、みんななぜ簡単に他人を犠牲にできるのでしょうね? とても不思議です。答えは単純です、それは好奇心が強いからです。やってみないことには気が済まない、あらゆる物事を確かめなければ生きていけない、その為には多少の犠牲にも盲目的になれる。そういう種類の人がこの世には存在します。あなたもわかるでしょう? ああ、クローバー殿下もそうですね。あの人の好奇心もなかなかです。一度私もお話してみたい。要はそうだな、そういう好奇心が私にはあるのです。あなたが今後どう行動するのかを私は見てみたいのです」彼はひと息で淀みなくスラスラ喋った。いささか興奮しているようだ。
「あなたはここの職員でしょう? あなたはクローバー(彼女がクローバーを呼び捨てにすると男は一瞬顔を震わせた)を擁護する立場なんじゃないの? たとえ私がここを抜け出しても、私は父の敵討ちを彼にするかもしれないわよ」
「それはあなたの問題であって、私の問題では、無い」彼は驚くほどあっさりと答えた。
「殿下には敬意を表しています。また、彼のことは個人的に好きです。一度お話したいほどに。でもだからと言って、あなたが殿下を抱きしめようが殺そうが、私の知ったこっちゃない。ただ私に言えることは、今夜が一回限りのチャンスであること、私はあなたにチャンスを与えること、その二点だけです。後はあなた次第です」
「既に決まっているわ」
「貴方の決断の早さはとても好きです」男は口元をわずかに上げて笑った。
それから数時間経ったその日の真夜中。彼女は部屋の壁を蹴り続けた。数十分は蹴り続けていただろう。彼女の隣の部屋で拘束さている女が、グロリオサの部屋に向かって壁を蹴り返した。拘束されて間もない新入りが真夜中に壁を蹴り続けるのだから、周りの人間は口々にグロリオサを罵り始めた。騒ぎはやがて、個々の職員たちの耳にも届いた。先ほどグロリオサの部屋を訊ねた痩せた男が、いの一番に彼女たちの許へ駆けつけた。
「どうしました」と彼はグロリオサに尋ねた。彼は極めて事務的に彼女に接した。周りの部屋の女たちも口々にこの男に話しかけたが(それらはすべてグロリオサに対する罵詈雑言だった)、男はハナからグロリオサの言葉しか耳に入っていないようだ。
「髪を洗いたいのよ、一刻も早く」彼女は声を荒げて言った。できるだけ周りの人間にも聞こえるように。
「あなたはまだここで『仕事』をこなしていません」と男は職務を全うしているとでも言いたげに、周りにも聞こえるほど大声で言った。
「きっと明日から『仕事』に取り掛かるでしょう。明日のあなたの努力次第で、シャワーに入ることが出来るかもしれませんよ?」
「今洗いたいのよ」と彼女は言った。周りの女たちはまだ騒いでいた。
「明日の仕事は倍でも構わないから」
「倍、良い度胸ですね。約束しましょうか?」
「そうしてくれると有り難いわ」
「こちらとしても、こんな真夜中に騒がれちゃあ溜まったものじゃありませんからね。あなたが大人しくなればそれでいいです。ただし、明日の仕事は倍ですよ、いいですね、レイディ?」
「わかったから早くして」
「今すぐにあなたをシャワー室に連れて行きます。ただし手錠をかけます」
「構わない」
彼はグロリオサに手錠をかけ、部屋の外に連れ出した。二人は無言のままシャワー室へ向かった。
「いくつか聞きたいことがあるわ」と彼女は周りに人間がいないことを確認してから、素早く小声で男に語りかけた。
「はい、なんなりと」男極めて冷静に答えた。
「私はあの状態になると、最早自分でも制御不可能よ。場合によってはあなたを殺す可能性もあるけれど、大丈夫?」
「気を付けます。私は曲がりなりにも武道を日々稽古しているので、うまくやれるとは思います。しかし万一に私の命に危険が及ぼされたら、私もあなたに対して何をするかわかりません。それに関してはお互い目をつぶりましょう」
「構わない」彼女は淡々と答えた。
「もう一つ」彼女は一呼吸置いた。男は何も言わなかった。
「貴方は何者なの?」
「ここの職員ですよ」
「なんで私のことを知っているの?」
「十二年前に、たまたまあの場に居合わせていただけです。私は小さかったので、運よく生き延びた。ただそれだけのことです。私は皆の目を盗んで林の中に逃げることが出来ました。あの時、あなたの父は殿下しか眼中にありませんでしたし。しかしあなたの父は相当凄かったですよ、殿下をかなり追い詰めましたね。正直なことを言うと、あれ以来あなたの父に惚れこんでおります」
「なぜ私が、あの人の娘だとわかったの?」
「あの日、見ていたからですよ。何もかもなくなったあの場所で、あなたの父が、負傷した身体を引きずってあなたのもとへ行き、自分よりも遥かに大きな貴方を体いっぱいで強く抱きしめたところをね。貴方も貴方で、あんなにも私たちを殺したのに、あの男には危害を加えなかった。だからわかったのです、彼らは親子であると。ただそれだけのことです」
「そう」彼女は声を低くして言った。
「そうです、不思議な光景でしたよ。シュールでもありましたし、泣けましたし、ちぐはぐだった。でも今でもその光景はしっかりと覚えています。その奇妙な愛の場面をね。あなたは本能のままにただ動いていた。まさしく獣のように。でも不思議なことに、あなたは父を襲わなかった。それどころか、あの時すでに死んでいた五人にはあなたは、見向きもしませんでした。
ここからは私の推測ですが、あなたはあの時少し本能的になり過ぎていただけで、完全に我を失っているわけじゃなかったのでは?」
「わからないわ。もう何も覚えていないもの」
「そうですか」
「血を出している父が……」彼女の言葉はそこで途切れた。二人は歩いていた。周りには誰もいない。シャワー室に着いた。
「私からも質問をしてよろしいですか?」
「いいわよ」彼女は淡々と答えた。
「あなたはこれから、どうなさるのですか?」
「さあ」と彼女は淡々と言った。
「私にもわからないわ」
「でもここを出るのですね」
「悪い?」
「いえ、素敵で真っ当な判断だと思います」男はシャワー室を開けた。彼女はその中に入った。
「あなたの名前は?」とグロリオサが聞いた。
「センブリです。変わった名前でしょう」
「外国人なの?」
「わかりません。そうだと思います。何しろ私には両親がいないのです」
「そう」
「あの日、あそこにいた人の多くは私と同じような境遇の人でした」
「ごめんなさいね、私が……」
「謝る事はありません」センブリは穏やかな口調で言う。
「それよりも、これからうまくいくことを願っています」
「有難う」グロリオサも笑った。少し悲しそうに。二人は黙った。
「良いですか?」センブリが聞いた。
「いつでも」グロリオサが答えた。
男はナイフを差し出した。彼女はそれで自分の手を切り、血を出した。男がその血を使い、彼女の額に何か文字を書いた。書き終わると、彼はシャワー室の水を出し、急いでその場を離れた。その間、彼は何も考えず、呼吸する暇さえなかった。
「ご達者で……」
その夜、シャワー室から突如、一匹のサメが現れた。
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