第12話 見方が変われば重心も変わる
馬車は警察署かどこかに着いた。何処かはわからない。もしかしたら刑務所かもしれない。いずれにせよそういう施設だ。僕らは別々の場所で拘束された。僕は屈強な男に、グロリオサは女性職員に連れられて何処かに行ってしまった。
洗面所とベッドしかない狭い部屋に僕は入れられた。生活用品はトイレットペーパーくらいしかないが、さりとて不自由はない。もともと僕はあまり趣味の無い人間だ。魚さえあればそれで良い。幸い、まだいくつかの魚は服の中に隠してある。しかしナイフは先ほど職員に取られてしまった。思わず唇をかみたくなるが、まあいい、ナイフが無くても出来ることはある。ここに拘束されている間は腕立てでもして過ごせばいいだろう。とりあえず一旦ベッドで横になりたい。
しかしそんな暇はもちろん訪れなかった。すぐに看守がやってきて、「出ろ」と言った。僕は外に出るや否や、両手に手錠を掛けられた。そのまま職員が歩き出したので僕は転びそうになったが、なんとか彼の歩みについて行った。彼はどうやら、何も言わずに他人を行動させようとする人間らしい。僕は何も考えまいと思いながら歩いた。僕はある部屋に通された。そこにはイスとテーブルしかなかった。それ以外に何もない。蝋燭も無いし窓も無い。
僕は手錠を繋がれたままその部屋に入った。一人の男が入って来た。頬に大きな傷がある、背の高い男だった。彼は部屋の椅子に座った。男は僕の隣にいる男に手で「座れ」と命令した。僕と僕の隣にいる男が二人掛けのソファに座った。
「この男を知っているか?」
目の前の背の高い、頬に傷のある男はスーツの内ポケットから写真を取り出しながら言った。その写真には、グロリオサの父が写っていた。僕たちが彼を探すときに使った、発電所の本に載っているものと全く同じだった。
「知っています、僕はその人を探しています」
「この人物と最後に会ったのはいつですか?」
「会ったことはありません」僕は正直に答えた。
「知人の父です、彼はもう何年も前に蒸発していまして」
「知人?」
「ええ、お隣に住む家族です。お隣さんは母と娘の二人暮らしです。父は十何年、全く姿を消しているんですよ」
「なるほど」と彼は顎の前で両手を組んだ。二度、軽く頷きもした。
「一度も会ったことは無いか?」
「はい」
「十二年前にも?」
「十二年前?」
「例えば、の話だ。或いはその前でも良い。何か思い出せないか?」
「十二年前……」その数字には何かひっかかるものがあった。
「僕が学者になり始めたのは十二年前です」僕は語り始めた。
「僕には学者になるそれより以前の記憶が一切ない。申し訳ないとは思うけど。名前も住所もわからないので、一時期施設で保護されていました。僕は何も記憶が無かった。けれど日常の動作に問題は特にありませんでしたし、僕みたいに記憶のない人間はごまんといました。だから特に僕は、自分を不思議な存在だとか、変わっているとは思わなかった。知っていますでしょう? そこで皆さん、各々の職業を選択していくんですよ。施設の人と相談してハンコをもらって……。僕はたまたま、ひどく魚に興味があった。魚を見ると解剖をしたくて仕方なくなったし、実際に僕はした。だから施設の人に聞いてみた、魚の学者になりたいって。僕は運が良かった。それならば空きがあると言われた。枠は少ないが、ちょうど人が足りなかったみたいだ。取りたてて僕のように情熱のある人間もいなかった。そんなわけで僕は学者になった。
やってみると、僕は割と学者に向いていたみたいだ。一人で何かをすることに苦痛を感じない。やりたいと思った頃は確実にやる。おかげで友人はできなかったが、特に不自由も無い。年に二回、研究費をもらうために審査が入る。しかし論文を書いていれば、特に問題は無い。僕は毎年コンスタントに論文を出している。
だからという訳じゃないけど、申し訳ないが十二年前のことはよくわからない。答えになっていなかったら申し訳ない。僕は彼にもしかしたら会ったことがあるのかもしれないが、僕自身はそれについて何も言えない」
男はじっと僕の話を聞いていた。数秒の沈黙が訪れた。僕がまた語り始めることを待ってくれているのかもしれない、しかし僕にはもう話すべきことなどない。或いは男は、頭の中で僕の行ったことを反芻し、まとめ、自分なりの解釈を構築しているのかもしれない。
「いや、構わない」と彼は言った。
「事情は分かった。確認のためなんだが、君の指紋を取っても構わないか?」
「構いませんよ」
「それとサインも」
彼が右手をひらひらさせると、部屋に一人の若い男性が入って来た。小柄で何となく気弱そうだ。細身で童顔。大学を出たばかりのような顔をしている。その男が朱肉と万年筆、羊皮紙を持ってきた。
「こちらにサインを。それと拇印を押してください。親指が良いでしょうね」
僕は言われた通りにサインをし、拇印をその紙に押した。
「良いですか?」と僕は聞いた。気の弱そうな男がそれを受け取った。それとほぼ同時に、彼は僕の額に自分の人差し指を当てた。咄嗟のことだった。相手の動きは尋常ではないほど早かった。並の動きではない。幼いころから日々、決められた訓練を行っている者の動きだ。僕は咄嗟にそれをかわした。殆ど考えず、反射的にそれを避けてしまった。
「すみません」と彼は申し訳なさそうに言った。
「貴方の前髪にゴミがついていたのです」と彼は言った。
「有難う、でも次はもっとましな嘘をついた方が良いですよ」僕がそう言っても相手は表情を崩さなかった。落ち着きすぎている。間違いなく彼はプロなのだ。
「驚かせてすみません」と彼は申し訳なさそうに言った。しかしそれは口調だけだ。実際はそんなこと、微塵も思っちゃいない。
「それにしても、随分な反射神経ですね」と、傷のある男が言った。
「何か運動でもやられていたのですか?」
「わかりません」と僕は言った。
「先ほど話したように、僕には僕自身がわからないのです、残念ながら」
「しかし身体は覚えている」と、長身の男は言った。ゆっくりと。低い声がよく通る声で。
「わかりません」
「部屋にお戻りください」と傷のある男は言った。僕は手錠を職員に繋がれたまま立ち上がり、部屋に戻った。
その日の夜は豪勢な魚料理が出て来た。鯛に鮪に雲丹、アワビ、それにイクラ。海老もついてきた。その突然の待遇の変わりように違和感を覚えたが、料理に罪は無い。たとえこれが最後の晩餐だろうと、僕は受け入れるしかない。僕は進んでそれらを平らげた。毒が入っている可能性もあったが、それとて僕は受け入れるしかないのだ。
僕には怖いことなどなかった。元々友人も家族もいないのだから気楽だ。グロリオサのことは気がかりだが、サクラ先生は依頼を確実にやり遂げるだろう。彼女に任せておけば心配はない。だから僕としては、いつ僕が死のうが、それが明日だったとしても、さほど悔いはないのだ。この部屋の看守は僕の食べっぷりに関して、何の反応も示さなかった。訓練されているのか、馬鹿にされているのかはわからなかったが、何にせよそれは僕にとってありがたかった。
洗った魚の骨で歯を磨き、部屋のベッドで寝た。思ったより、そのベッドの布団は柔らかかった。
翌日に看守が僕のもとへやって来た。朝食も昨日の夕食と同じくらい豪華だった。活きの良い魚を使った海鮮丼だった。
「今日は貴方に会いたいと仰る方がいる。これを着てください」彼は相変わらず無表情で僕に衣服を渡して来た。しかし驚いたことに、その衣服は素人目に見ても上質なものだった。白いスーツ。腕に星柄の模様が入っている。正直白いスーツなんか着たくなかったが(だって馬鹿みたいじゃないか)、今の僕に決定権は無かった。ついでに歯ブラシと整髪料も与えられた。僕はそれらを使って丁寧に歯を磨き、髪を整えた。
「こちらをお履きください」最後に黒い靴が与えられた。それもまた貴族のボンボンが履くような代物だったが、僕は何も言わずに受け入れた。僕はあらゆることを受け入れなくてはならない。看守が僕の後ろに回り、何やら整髪料を使って僕の頭を整えようとしてくれたが、さすがに恥ずかしいので自分で整えた。
看守に両腕を拘束されたまま、昨日と同じ部屋に移動した。昨日とは違って、その部屋にはデスクランプが備え付けられ、テーブルにはちょっとした花も飾られていた。僕と看守は無言のまま、その部屋で待機した。
三分くらい沈黙が訪れた。しかしそれは不意に破られた。昨日、この部屋で面談をした頬に傷のある男がいきなり、しかし乱暴では無い様子で入って来たからだ。
「教皇がお見えです」と彼は言った。
教皇?
教皇と言えば、事実上、この町のトップだ。具体的な政治の実権は別にあるが、人々の心の拠り所は教皇にある。そんな人物がなぜ僕のもとを訊ねるのだろう? 全く訳が分からなかった。
「はい」と僕は何となく返事をした。頭がまだ追いついていない。
「どうぞ」と、長身の男が言った。それを皮切りに、部屋に四人の男と一人の女性が入って来た。黒いスーツの男が三人、おそらくこれはボディガードだ(全員筋肉質で脂肪が無い)、秘書のような女性が一人(彼女は眼鏡をかけ髪を一つにしていた)、それと温厚そうな中年の男性が一人。まさしくこの方が教皇である。僕は何を話すべきなのか全くわからなかった。どんな言葉をかけるべきなのか、一文字も思いつけない。
「探しておりました」と彼は言った。
「間違いありませんか?」と、頬に傷のある男が言った。
「愚問です」と、教皇は答えた。
「殿下」
教皇の言葉が、部屋に響き、僕の耳に残った。この世界の重心が、わずかに変わった。
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