第4話 大義名分が誰かを殺す
空は相変わらずクジラの歌を歌っていた。
発電所の辺りは静かだった。人のいる気配がない。草原の中にただ発電所は存在している。それは何かを訴えているような気もする。発電所の壁に描かれた五人は相変わらず何も言わない。生前の顔だからだろう、どれもみな穏やかな顔つきで、心なしか若い。この絵の中では誰ひとりとして腐敗していない。熱い血が通い、誰もがエネルギーを持って息をしている。
彼女は発電所の周りをぐるぐると回った。僕も半歩遅れてそれに続いた。運の悪い事に、少し高い位置に窓がある。彼女が窓の鍵を壊せるか、確信は持てなかった。彼女は発電所の周りをまわっている間、壁の五人が僕らをずっと監視しているような気持ちになった。
「正面突破ね」彼女はやがて悟ったように簡潔に言った。
「それがいい」
この発電所の外観は、全て白だ。注意深く見なければそれが扉であることはわからない。彼女はその扉を腕のみならず、体全体を使って押した。僕も手伝った。随分重い。ギイギイと音がした。
発電所の中は吹き抜けになっていた。巨大な振り子が天井からぶら下がっており、部屋の真ん中でゆっくりと絶えず揺れていた。天井を見ると、一面が絵になっていた。腰布を巻いた裸の人間たちが水色の空の下で生活している。真ん中には女が赤ちゃんを抱えている。おそらくマリア様だろう。人々は彼女に視線を合わせていた。
「ダヴィンチかミケランジェロかな」と言ってみたが、僕の声だけがむなしく反響した。
発電所の中には誰もいなかった。振り子だけがゆっくりと大きく動いていた。僕たちが歩くとその度にカツンカツンと音が反響した。ここは広すぎる。建物は円形だが、部屋は一つでは無かった。このホールの周りには、五つほどの扉があった。彼女は素早い動作でこの発電所内を見て回った。まず振り子を色々な角度から見て、天井の絵を舐めるように見た。それに満足すると、彼女は何のためらいも無く奥の部屋に突入した。僕もそれに続いた。
奥の部屋には膨大な本があった。壁一面が本棚になっており、天井まで続いている。というより、本しかないみたいだ。それも電気関係やエネルギー関連の本が中心みたいだ。僕には専門外だ。彼女はそれを興味深く眺めた。
『発電所の歴史』と書かれた本を手に取り(まあまあ分厚い本だ)、中をパラパラと素早く繰った。僕は本の背表紙だけを眺めていた。僕の興味がそそりそうな本など一つも無かった。どれもこれも専門的すぎるし難しそうだ。限定された職種の人が限定された興味のために読む本。
彼女は本の一部に目を止めた。彼女の動きはストップした。
「何かあった?」
「長老」と彼女は一言だけ、短く答えた。
「長老?」
彼女は本を僕に見せてくれた。見開きの頁だ。でかでかと写真が載ってある。そこには二十人位の男の人、数人の女性が発電所の前で微笑んでいた。作業着を身に着けている者もいれば、スーツを着ている人もいる。女性はみなスーツだ。真ん中で微笑んでいる男の人を、彼女は指さした。その男は、よく見れば先ほど棺の中にいた老人に似ていた。写真の右側に小さく、全員の名前と役職が記載されている(彼はゾシマと言うらしい)。確かに真ん中に写っている人物は長老みたいだ。彼女は頷いた。
「彼はこの町か、教会か何かの長老」
「長老がなぜ発電所開発に関わっているんだ?」
彼女は何か考えるように目線を上に向けた。が、二秒ほど考えたのちに素早い動作で首を振った。
「教会は、宗教は教育においてすごく重要だってみんな言う。私の学校にも礼拝の時間がある。学校側が何か新しいことをしようとすると、決まって宗教の先生がその是非をジャッジするの。たとえどんなにくだらない事でもね。
例えば裏庭はサッカークラブとハンドボール部が反面ずつ使います、とかね。或いは、男女交際は適切かどうか、とか。そういうくだらないことを一々取り上げて、それは倫理的に正しいかどうかを彼がジャッジする。私は正直その、あまり宗教の先生のことを理解できなかった。たくさんお話を聞いたけど、私はさっぱりわからなかった。あなたは?」
「僕は昔の記憶が無いからわからないな」僕は極めて素直に答えた。
「きっと記憶はどこかにあるんだと思う。でも、僕には今のところ学者になる前の記憶が無い。もしかしたら思い出せないだけで、たくさん苦労したのかもしれない。それすらも忘れてしまった。幸いなことにそれで不自由したことは特にない」
「昔の記憶を取り戻したいと思う?」
「特に強くそう思わない」本心だった。
「今言ったように、僕自身は今の生活に特に不自由していないんだ。なぜかね。一人きりでいることに苦痛も感じないし研究さえできればそれでいい。守るべき人もいない。ただのしがない魚の解剖学者なんだ、僕は」彼女は頷いた。
「でも、単純な好奇心はある」僕は彼女の淡い瞳を真直ぐ見た。
「なんと言っても、僕には好奇心がある。知りたいと思ったことや興味のある事はとことん考える。良くも悪くも、そういう性質なんだ。君と同じように」
「私と同じように」
「そう」僕も頷いた。
「自分ではわからない」と彼女は小さく言い、素早い動作で本を自分の鞄の中に入れた。僕は彼女の堂々たる万引きを突っ込むべきかどうか迷ったが、何も言わないことにした。どうせ色々言っても、聞かないだろう。
「次の部屋に行く。あなたがまだここに興味があれば別にいいけれど」
彼女は僕の返事など待たずに隣の部屋に進んでいった。僕もそれに続いた。
不思議なことに、他の部屋に行っても誰もいなかった。誰か一人くらいいても良い気がするのだが、まったく、ここは誰が管理しているのだろう。
そこにはただ大きな水槽のような、プールのようなものがある部屋だった。地面がまるまる大きな浴槽になったようだ。よく見ると、その水面は静かに動いていた。それに所々水の色が違う。水色だったり緑色だったり青だったり灰色だったりする。水面は時々泡が立った。
「これは何かエネルギー……電気を作るのに必要なのかな?」
僕は知ったかぶりをした。彼女はただ茫然と水槽を凝視しながら立ち尽くしていた。ふと彼女の顔を見ると、まるで誰もいない深夜の自分の部屋で幽霊に出会ったかのように青ざめていた。
「お姉ちゃん」
お姉ちゃん?
僕は彼女の目線の先を追った。そこにはただ水が広がっているだけだった。
「何か見えるのか?」
彼女は黙っていた。唇がかすかに青ざめ、震えている。
「何して……」彼女の声は震えていた。手も小刻みに震えていた。彼女は水面の先に何かを見ているようだったが、僕には何も見えなかった。ただ大きな水槽があるだけだ。全く訳が分からなかった。
「おい、何を言って
「やめて!!!!!」彼女が大声で叫んだ。僕は思わず体が震えた。
「どうしたんだ?一体、
「やめなさいよおおおおおおおおお」
彼女は叫んだと同時に鞄のポケットに手を突っ込み、非常食を素早く取り出した。それを殆ど反射的に水面に向かって投げた。僕には訳が分からなかった。
「その手を!!!薄汚い手を!!!離せって!!!!言っているのよ!!!!早く!!!聞けよ!!!!!その手を!!!離せ!!!!」
彼女は取り乱していた。水面に向かって彼女は必死に罵倒していた。幻覚を見ているのだろうか? 訳が分からなかった。彼女は水面に向かって走り出そうとしたので、僕は必死になって止めた。彼女を後ろから羽交い絞めにした。それでも彼女は罵倒をやめず、水面に向かって今にも走り出そうとしていた。僕の手を何度も振りほどこうと必死に力を入れた。でもこの巨大な水槽には底が見えない。この中に入ったが最後、確実に彼女は生きて帰れない。溺れるのがオチだ。
「人殺し!!!!人殺し!!!!!この野郎、その手を!!!汚い手を!!!!離しなさいよ!!!!やめろって!!!言っているだろうが!!!!」
僕は彼女を抑えるのに必死だった。そのような力比べが十分ほど続いた。正直僕の腕ははちきれそうだった。僕はその間、早く彼女が正気に戻って欲しいと切に願っていた。ある時彼女は突如諦めたように涙を流し始めた。
「やめてって……言った……のに……屑野郎……」
腕にかかっていた彼女の力は次第に失われていった。暴れ疲れたのだろうか、それとも声を荒げても意味はないと悟ったからだろうか。彼女は手を緩め、床に座り込んだ。ぺたんと彼女が座る姿は、しおれた秋の花を思い起こさせた。彼女は下を向いたまましくしく泣き始めた。
「ひと殺し……ひと殺し……」彼女は涙を拭かず、ただただ座り込んで泣き始めた。次第にその声は大きくなり、しゃっくりを上げ始めた。
「何が見えたんだ?」彼女はしくしくとただ泣くばかりだった。
「君は何を見ている?」彼女は泣きながら首を横に振った。上手く喋れないみたいだ。
「お姉ちゃんがっ」と彼女は震える声で言った。
「お母さんが、うっ、殺、され……た」彼女は途切れ途切れに言う。
「二人とも、生贄にっ、された。大義……名分の、もとに、」
「大義名分?」
「これっ、からの、未来の、ために、これからの、生活のために、みんなの……ために犠牲になった。しな、くても、良い、犠牲を」
僕は彼女の背を撫でた。
「二人は、いや、五人は、犠牲に、なった。殺される必要は、無かった。でも殺さないと、皆、納得しなかった。だから殺された」
「みんなが納得しない? 彼らを殺さないと納得しない?」僕が聞く。彼女は頷く。
「みんなが納得するためだけに殺された。象徴として」彼女は流れる涙をそのままに泣いていた。
「それは見せしめみたいなものなのか?」彼女は頷いた。出てくる涙を拭こうとしなかった。僕は彼女の目の下の涙を指で拭った。
「彼女たちは私を守った。そして犠牲になった。そうすれば皆は納得するから。そして多くの記憶を飲み込んで消えてしまった」
「二人は記憶を持っていた?」
「おそらく」と彼女は語気を強めた。
「棺の中にいた五人は、多くの、記憶を、持っていた。膨大な。良い記憶も、悪い記憶も……。母と姉は、或いは父は、その一部を私に託した。とても巧妙に。誰にも気づかれないように。私が大きくなったときに、いつか真実に辿り着いてくれるように。父親はそれをおそらく知っていたから、ここにはいられなくなった。今の私の母は、私を監視している。記憶が蘇らないように。記憶によって真実にたどり着かないように。そのためには、
そこで彼女の言葉は途切れた。大きな地響きがどどどどと鳴った。
「地震か?」
僕は立ち上がった。確かに地面は揺れていた。次第に音は大きくなってきている。
「立てるか? 逃げるよ」僕は走る用意をしながら彼女の方を振り返った。彼女は素早く顔を拭い、リュックを背負って立ち上がった。
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