第5話 美しい破壊、眠れない夜の長さ
「安全な所に逃げる」僕は手短に言った。
「ここは天井が高い。振り子も落ちてきたら危険だ。外に逃げるしかない。歩けるか?」
「大丈夫」彼女はもう泣き止んでいた。
どどどどど、とそれは聞こえる。地震なのか雷なのか。とにかくわかることは一つだけ。ここは危険だ。
僕らは外に向かった。しかし、扉はびくともしない。
「やばいな、この地震で扉の形が変形したのか? 扉が開かない」
彼女と二人がかりで僕は扉を押した。うんともすんとも言わない。彼女は扉を引いてみた。それでも開かなかった。僕は頭を舁いた。
「仕方ない」
僕は十徳ナイフを後ろの少し高い所にある窓に向けて思い切り投げた。窓にはステンドグラスによる装飾が施されていた。マリア様がイエスを抱いている。
「下がって」
彼女は僕に言われた通りに後ずさった。ナイフはマリア様の顔に当たり、ステンドグラスは割れ、破片が方々に散った。
「少し上に狙いすぎたな」
破片が一通り下に落ちたのを確認し、我々は窓から外に出た。
外に出て見ると、地震の揺れは収まった。かすかな揺れを感じる。僕らはとにかく走った。息すらできないほど。心拍は人生で最大値を示しただろう。林の中に入ったところで僕らは走るのをやめ、休憩した。汗が全身から出ていた。手も上手く握れないほどだった。僕らは話すことも出来ず、ただただ出来るだけ多くの酸素を吸うことに努めた。いくら酸素を吸い込んでも足りなかった。
ふと後ろを振り返ると、発電所は揺れていた。地響きのような音が聞こえた。ガラガラと音がし、発電所の塔の部分が崩れ始めた。芸術的と言っても良い最期だった。地面に描かれる発電所の影にヒビが入り、大きな音がした。ヒビはだんだんと葉を伝う露のごとく党全体を流れてゆき、やがて中心からぼろぼろと石となって崩れ落ち、塔のてっぺんをも粉々になり地面に落下していった。その崩れ方はどこか僕の胸を打った。彼女はじっと発電所を見つめていた。
僕らの呼吸が次第に整う中、何も言わず、ただただ美しい物が美しく崩れていく様子を眺めていた。息を呑む。僕はその言葉の意味をこの時、身体で理解できた。
程なくして、ズズン……と腹に来るような音がした。発電所は見る影も無くぺしゃんこになった。あんなにきれいに堂々とそびえたっていたものがたった一瞬にして消えてしまった。
「なくなっちゃった」悲しいことに、そんな感想しか出てこない。
「誰かがわざと壊した」と彼女は言った。
「絶対わざとだ。私たちに秘密がばれるとわかったから、壊したんだ」
「誰かって?」
「わかんない」彼女は首を振る。
「でも場合によっちゃあ、僕たちは殺されていたよな」僕はため息をついた。彼女は頷いた。
「実際に誰かが私たちを殺そうとしていたと思う」
「そうか」
「そう」
「そうか」
僕たちは黙って発電所を見ていた。いや、発電所だったものを。もうそれは只の瓦礫でしかない。
「これからどうする?」いずれにせよ、もう発電所は無くなった。ここに長居していても意味はない。
「もう家には帰れなくなった」彼女はきっぱりとした口調で言った。
「図書館かどこかに行く」
「どこで寝るつもりだ?」
「寝袋を持ってきた」
「野宿でもするのか?」彼女はきょとんと僕を見た。真直ぐ僕の目を見つめてくる。なぜそんなことを聞くのか、とでも言いたげに。
「そんなことはしない方が良い」
「家にいる方が危ない」彼女ははっきりとした口調で言う。目は相変わらず僕を見つめている。僕らはきっかり三秒ほど見つめ合った。
「わかったよ。僕の家に来ればいい。魚しかないし、薬品の匂いが染みついている。それでも良ければ」
「構わない」彼女はあっさりと言った。
「でも私としては、外で寝たい。あなたが良ければ」
「何日もずっとそうするつもりか?」
「いつかはお父さんを探さなければならない」
「そうか」
「それにあなたの家は、私の家の隣だから、危険が無いとは言えない」
「なぜ?」
「私のお母さんは、私をおそらく探している」僕は拳を自分の顎にあてながら、考えた。
「君の母親は君を血眼になって探しているんだね?」
「そう」
「それは、君の持つ『記憶』が何かしら不都合なものだからかい?」
「そう」
「君の母親は何者なんだ?」
がさ、と音がした。見ると、壊れた発電所の奥の林の中から、一人の人間の人影が見えた。背は高い。恰幅がいい。体格からして男の可能性もある。
「走る」
彼女は手短に宣言し、文字通り人影を背にして走った。僕もそれに続いた。後ろから、誰かが小走りで走ってくる音がした。草をかき分け、僕らを追っている足音だ。途中で僕は彼女を追い越しながら言った。
「走るコースを変えるんだ。右か左か、どちらかに曲がるんだ。でないと、もしあの男が僕らを追っているのだとしたら、一生僕らは逃げられない。いや、一生逃げ続けることになる」
「なるべく遠くに行きたい」と彼女は息の多い声で言った。
「私の町からなるべく遠く」
「わかった」
僕は左に曲がった。草の倒れ方から僕らがこの道を通ったことは容易にわかってしまうだろうから、僕はその辺の丸太の上を歩いた。歩き終わった丸太を転がし、辺り一面を撫でらかにした。彼女も僕の真似をして丸太を足で蹴り飛ばした。幸いなことに、近くにはウサギもいた。僕らの足跡を完全に隠すことは出来ないが、彼らの足跡の上をなるべく歩くようにした。
ずいぶん遠くまで来た。ここはどこだろう。一時間は歩いた気がする。もう人の気配はない。
「どうしたものかね」僕はさすがに息が切れていた。限界だった。
「しばらくは寝袋で寝る」
「馬鹿を言え」
「父を探すためにはやむを得ない」
「宿を探すぞ。人気のある方向に行けば何かあるだろう、ホテルでも何でも」
「他人は信用できない」彼女は一歩も動かずに言った。
「なぜ?」
「記憶を作り変えるから」彼女の発言には何処か凄みがあった。言葉に自信が満ち溢れていた。
「じゃあ僕はどうだ?」僕は多少彼女の決意に圧倒されていたが、それを悟られまいと彼女に語り掛けた。
「僕のことは信用できるのか?」
「今のところ」僕は笑った。
「なぜ? 僕は嘘をついているかもしれない」
僕は自分の発言に自信が無かったが、それを隠すように声を大きくした。
「第一にあなたが私を殺すチャンスは今までいくらでもあった。第二に、発電所が壊れた時、あなたは私と一緒にいた。あなたの命も私同様に誰かに狙われている。第三に、私と一緒に今走って来た」
「君の考えは確かに一応の筋は通っている。僕が君のスパイや詐欺師じゃなければね。まあ幸いなことに、僕は実際にそのどちらでもない。僕は只の解剖学者だ。しかも誰にも相手にされないね」
「それは良かった」彼女は無表情で答える。
「本当に気を付けなきゃだめだよ」僕は歩き出した。彼女もゆっくりとついてきた。
その日、僕らはとうとう町にはたどり着けなかった。仕方なく僕らは彼女の希望通り寝袋で寝ることにした。地面はざらざらとしていて、寝心地は最悪だった。体の節々が痛いし、寒いし、何やら動物の足音も聞こえる。
僕らは交代で寝ることにした。しかし彼女がいったん眠りに落ちると、僕は彼女を起こす気持ちにはなれなかった。彼女は疲れていたのだろう、まるで死人のように眠った。その寝顔は、昼に見た五人の死体を思い起こさせた。
僕は彼女の寝顔を見ながら、これまでのことをぼうっと振り返った。出来ることならば、僕が小さかった時の記憶も思い出してみようとした。しかしそれは無謀な挑戦だった。いくら頑張ってみても、僕の一番古い記憶は、雑誌に自分の論文が出された時の記憶だった。でもそんなことは現実には、理論上起こりえないはずだ。わからない。わからないことだらけだった。
そのうち考えることをやめ、代わりに昼間に見た五人の死体と、発電所が美しく壊れていく姿を思い出した。何度も何度もその映像が頭に浮かび、離れなかった。同じ夢を何度も見ているみたいに。そしてそのまま僕らは朝を迎えた。眠れない夜は長い。
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