第3話 『なぜ生きるか』を知っている者は、殆どあらゆる『いかに生きるか』に耐える
山への道のりは思ったほど過酷ではなかった。しかし教会に着くには一時間ほど歩かねばならなかった。そのせいで、僕はすっかり汗だくになってしまった。教会が見えたところで僕は一息つき、地べたに腰を下ろした。
十五分ほどそのままじっとしていた。単に疲れてしまったせいもあるし、教会を見ていたかったというのもある。その建物は全くの白でできていて、二階建て、それほど大きくはなかった。建てられてからどれだけの年月が経っているのか、僕には全く検討もつかない。百年と言えば百年にも見えるし、十年と言われれば十年にも見える。とにかく白い建物だ。屋根のてっぺんには十字架がある。銀色の十字架だ。僕にはそれが何を意味するのかよくわからない。
僕はおもむろに立ち上がり、意を決して教会の中に入った。扉は重く、身体全体で負重をかけなければ開かなかった。教会の中で歩くと、こつ、こつと僕の足音が部屋いっぱいに響いた。教会の中は暗く、空気が少し冷たかった。汗だくだった僕の身体が少し冷える。そこはステージと長椅子が並べてあるだけで、他に目立ったものは無かった。ステージの後ろの窓は大きなステンドグラスがあった。マリア様と思われる女が赤子を抱き、母親独特の慈愛に満ちた表情で微笑んでいた。
僕はステージに近づいた。誰もいなかった。自分の足音がこつこつと響く。隣の家の女の子はどこだろう、もうここを去ったのだろうか。あたりを見回すと、ステージの脇に小さな扉を発見した。どこか別の部屋に繋がっているみたいだ。僕は迷わずにそこに飛び込んだ。暗い通路だった。相変わらずこつこつ、といやに自分の足音が響いた。通路を抜けるとそこから茶色の木造の建物に変わった。足音はすうっすうっという音に変わった。
僕は彼女を見つけた。彼女は紺色の長いワンピースを着ていたから、一見するとここのシスターにも見えた。跪き、両手を組んでお祈りしていた。僕はじっとその姿を見ていた。彼女にはどこか声をかけづらい雰囲気があったのだ。彼女はひたすら何かを祈っていた。よく見れば、彼女の脚元に黒い棺があった。僕が彼女に一歩近づくと、彼女は僕に気付いて振り返った。そして僕をじっと見た。目が合った。僕は何も言えなかった。彼女の目は何かを語っていた。何を言えばいいのかさっぱりわからなかった。
「やあ」と僕は言った。何度目の挨拶だろう、声が裏がっているように聞こえた。この建物は音を反射させすぎるみたいだ。
「やはり君だったんだ」
彼女は僕の言葉には何も反応しなかった。少しだけ悲しそうな顔をして、斜め下に視線をずらした。
「五つある」と彼女は言いながら、指さした。よく見ると、彼女の目の前、その奥に五つの棺があった。僕は近づいて棺の中を覗き込んだ。そこにはしわくちゃに干からびた老人がいた。水分が失われ、殆ど骨と皮だけになっており、おまけに近くによると悪臭がした。何匹かのコバエが彼の足の周りを飛んでもいた。足は青緑に変色しており、唇も青い。
「彼は……」彼の顔に何となく見覚えがあったが、僕は思い出せなかった。何かの本で彼のことを見たような気がする。
「お祈り、しよう」
彼女は小さな声で言った。僕は彼女の真似をして手を組んでみた。でも何を祈ればいいのか、全くわからなかった。第一、この男と僕は知り合いでもなんでもない。
しかし彼女は神妙な顔つきで僕と棺を見つめていた。本当に悲しそうな顔で。彼女は彼を知っているのだろうか? 僕はよくわからないまま目をつむった。お祈りの作法は何も知らなかったので、思いつくままの言葉を言ってみた。
「『なぜ生きるか』を知っている者は、殆どあらゆる『いかに生きるか』に耐えるのだ。安らかに眠れ」
ほとんど何も考えず反射的に頭に浮かんだ言葉だった。いつか空に書いてあった言葉だ。彼女は眼を開き、きょとんとして僕を見た。
「深い意味なんて無い」と僕は照れ臭くなっていった。
「すごくいいと思う」と彼女は言った。声が先ほどよりも大きい。
「ありがとう」
僕は改めて棺の中で眠る彼を見た。年は七十か八十、それくらいだろう。死体が腐敗しているせいで、更けて見えているかもしれない。それでも髪は白く皺が多い事から、若くはないとわかる。
「彼を知っているのか?」と僕が聞くと彼女は唇を結んだ。考え込んでいるようだ。
僕は諦めて奥にまだある棺を覗き込んだ。中には女性が入っていた。髪の長い女性だ。年は三十か四十かそこら。彼女は腹の上で手を組んで眠っていた。目にはクマがある。長い髪を一つにまとめ、それを肩の下に垂らしていた。彼女もまた、痩せこけて、腐敗していた。四肢の末端が青緑だ。僕は目を瞑った。棺は全部で五つあり、その中の全ての死体が腐敗していた。五つ目の棺は小さな女の子だった。年は十代前半くらいだろう。僕はその骨のような手足を見つめていた。その子を見ていると、それにたかる蝿も、カビが生えたように青緑色に変色した皮膚も、抜け落ちた髪も、何もかも目に焼き付けたいと思った。
「お姉ちゃん」と彼女は言った。優しく、ゆっくりとため息をついて、笑った。僕はその時初めて気づいた。今までどうして気づかなかったのだろう。ここにいる五人は紛れもなく、発電所の壁に描かれている五人だった。
「祈って」と彼女は言った。
「一人一人に」僕は先ほどの老人に向けた言葉を、他の四人にも向けた。一人一人に、静かに。ゆっくり。でも確実に。
彼女は姉の死体の手を取った。手を取り、自分の頬にそれを触れさせた。手の甲に優しくキスもした。僕はそれを見て、不思議と何も感じなかった。食後に歯を磨くようなすごく自然な感覚でそれは行われた。
「君のお姉さんなんだ」
「そう。私のお姉さん、コーデリア」と彼女は言った。
「いい名前だ。少し悲しい響きもする」
「私はたまに夢を見る」
「どんな?」
「彼女の夢。だからわかる」
「うん」
「私の記憶の一部は、おそらく私の頭の中にある。一部は、箱の中にある。だから私は、お姉ちゃんのことを覚えている」
「素敵なことだと思う」
「おそらく、お姉さんかお父さんが意図的に記憶を一部残したんだと思う」
「なぜわかる?」
「なんとなく。きっと理由があって」
「きっと理由があって」僕は彼女の言葉を繰り返した。全ての物事にはきっと隠された意味がある、と僕は頭の中で言う。
「私は家を出る。もう少し調べなくてはならない」
「家を出る?」
「そう」
「もう家には帰らないという事か?」
「そうなると思う。結果的に」彼女は短く、きっぱり言った。
「それで」と僕は言った。聞いても仕方ない事だが、聞かないわけにはいかないのだ。
「君の母親はなんて?」
「母には言わない」思った通りだ。
「なぜ?」
「彼女は私を好きだけど愛していない」彼女は淡々と言った。
「母には言わない方が良い」
「そんなことないと思うけどな」と僕は言った。一般論だ。というより、僕の希望だ。彼女の言葉が、思春期によくありがちの一般論であって欲しかったが、彼女の口ぶりからそんな風にも思えなかった。
「あなたにはまだわからないと思う」と彼女は言った。
「私の母は私の記憶を隠している。或いは奪っている。どこかに。それを父が怖れて私の記憶を箱に詰めた」
「なぜわかるんだ?」
「記憶から推測した」彼女は強い確信を持たない限り、自分の意見を口にしない。きっと彼女が彼女自身の意見を貫くだけの理由があるのだろう。
「確かに私の母は少しだけ心配するかもしれない」と彼女は言った。
「でもそれは、世間体の心配みたいなものだと思う。私を本気で心配する訳では無いと思う」
「なんでそんな風にわかるんだ?母親の気持なんか
「あの人は本当の私の母ではない」彼女はまたも簡潔に、素早く答えた。
「もちろんそれを母は……、あの人は隠している。父も隠している。それを口にしてはいけないみたい。母は私に優しくしてくれるし、普通の子供として私を見てくれている。でも何かがおかしい。何かが著しく欠けている。私にはそれが何かはわからない。でも何かが違う……、決定的に」
僕は何も言えなかった。ただ彼女の言葉を聞いているしかなかった。
「過ごした時間で言えば、今の母との時間が圧倒的に多い。美味しい料理も作ってくれるし、学校に行けって言ってくれる。私みたいなろくでもない子供に、ね(彼女は少し笑った)。でも、私にはわかる。私たちは空っぽで、ただ契約で結ばれた親子であることが」
「契約?」
「私の今の母は、おそらく、確信は持てないけど、本当の母の友達か幼馴染か、或いは双子の妹だと思う。とにかく、母と密接なかかわりを持った人。そして何かしらの形で私の本物の母は死に、彼女が私を引き取った。何か、考えがあって」
「考え?」
「普通の人は、他人の子供を引き取って十五年以上面倒を見たりしない。それも、たいして好きでもない子を。きっと何かしらの理由があって、私を育てているんだと思う」
「考えとは?」
「わからない」彼女はゆっくり言った。
「これから探す。きっとお姉ちゃんは、そして私の母は……」
そこで彼女の言葉は止まった。
「君の父はまだ生きているんだね?」
「生きていると思う、おそらく。理由があって、何かしらの理由があって家を出ている。そんな気がする。或いは、今の母に近づけないのかもしれない」
「君の父親は自分の記憶を持っているのかな?」
「それもわからない。でも箱のことを教えてくれたのは父だから、少なからず大事な記憶は用心深く持っていると思う」
「教えてくれたのはいつ?」
「私が三歳のころ」僕はため息をついた。
十四年前。
「それで、君はこれからどこに行くんだ? 母親なるものに連絡も無しに。僕にも何も言わないつもりか?」
「行くところはたくさんある」と彼女は言った。
「発電所と図書館、そして父を探す」
「発電所の中に行くのか?」
「そう」
「どうやって?」彼女は鞄の中からトンカチを取り出し、徐にジェスチャーでトンカチを振って、窓の鍵を開けるふりをした。
「悪い子だなあ」
彼女は澄ましていた。そんなのどうとでもなるでしょ、とでも言うように。
納得いかない様子で彼女は腕を組み、やがておもむろに歩き出した。側にあった黒のどでかいリュックサックも背負った。登山用なのだろうか、とてもしっかりしたものだ。
「一人で行くのか?」
「あなたが来なければ」
「なるほど」この子は元々僕が付いてくると思っていたのだろうか。
「僕は君、もっと素直になっても良いと思うけどな」
「私、嘘はつかない」
そんなわけで、僕たちは発電所に向かって歩き出した。
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