第一章4話 またねっっ♪

(※季見歌の一人称)

 ダンスホールに響いていた軽快なダンスミュージックはいつの間にか、声楽のバラードに変わっていた。ちなみにバラードを歌っているのは私の声楽の先生である。ゆったりとしたメロディは祝宴のエンディングみたいなものだ。時刻が十時半を回り、パーティーで知り合った相手にお別れを言う時間が迫っていることを示している。


 私が立っている上階の貴賓席からは、ホールで楽しそうに踊るゲスト達が見える。私は彼らに混じってお話しすることを許されていない。貴賓席は、このホールで唯一つまらない場所だ。


 私がいつも上階に居るのは、下階に降りることが許されていないからだ。もし、ダンスホールの絨毯を一歩でも踏めば、教育係の津毛直子さんが厳しい罰を与える。津毛さんは教育係として、未婚の私が若い異性や同級生と話すことでに染まることを激しく嫌っている。

 会話することが許されている相手は数人に限られている。両親と津毛さんを始めとした女性のお手伝いさん、および貴賓席に招かれた賓客ゲストだけ。

 その中で新しい出会いと呼べるのは賓客に限られる。

 上階に来る賓客の中からお友達を見つけられればいいのだけれど、貴賓席に呼ばれる可能性があるのは政治家や経営者など、社会で際立って高い地位に立つ者だけだ。それも、日本有数の財閥である父親に利するほどができるほどでなければならない。自然、そのほとんどが白髪が生えた男性となる。もちろん、白奈やクレマンスみたいな同級生の女の子がこの席に来たことなど一度たりともない。


 貴賓席のお父様は、主賓の大村益美知事とお辞儀し合いながら何度も何度も握手を交わしていた。あれ、意味があるのかしら。

 お母様は友人である夏目さんとハグして、お互いの頬にお別れのキスをしていた。


 いつもだったら、私もあの中に混じって、軽くお辞儀してからニッコリ笑い、頬にキスを受ける。津毛さんから教わったとおりに。

 でも、今の私は忙しくてそれどころではない。白奈やクレマンスともういちど会うために、次のダンスパーティーの招待状を手に入れなければいけないのだから。


 そう。今の私は招待状泥棒なのである。


 抜き足、さし足、忍び足――。

 

 誰にも話しかけられないように存在感を消して、両親と賓客が居る上階ホールの壁沿いを通り抜けようとした。

 バレてない。バレてない。気分はさながらスパイである。やってることはスパイというより窃盗犯だけど……。

 存在感を消したまま、お父様と知事が立っている席の後ろを通り過ぎようとすると……


「――季見歌、何をしていたのだね?」


 ギクッ――


 声を掛けてきたのは、お父様だった。

 お父様――金沢滋生かなさわしげおは総社員六万人を数える金沢グループという企業連合の会長を務めている、北陸で一番の権力者。とってもすごい人らしいけれど、他に比較する相手が居ないので本当なのかはわからない。

 ともかく、私は何かうまい言い訳を探さなくてはならない。何をしていたと訊かれて、新しく出来た友達とお話していたと言えば、私は自室に閉じ込められるだろうから。今まで、規則違反するたびに足首を鎖で繋がれて自室に閉じ込められてきた。ダンスホールに閉じ込められるだけで辛いのに、ダンスホールの一室から何日も出られない苦痛は本当に死にたくなるほどのものだ。

 もっとも、お父様は私を罰するほど私に関心はないから、罰を与えるのはお父様ではなく津毛さんだけれど。この人にとっての私は、ただの政治道具だ。


「お手洗いに行っておりました、お父様。お腹の調子が悪くて」

「今日は益美おじさんともっと喋りたいと言っていただろう?」


 もちろん、そんなことを言った記憶はない。

 益美おじさんとは、お父様の隣でにっこり笑っている知事のことである。私が物心ついた頃から知事で、なんの目的があるのかわからないけれど、このダンスホールを度々訪れる。

 私はこの人が苦手。いつも女性の容姿の話をしているし、私やお母様と話すときには非常に距離が近い。事あるごとに髪や肩を触ってくるのも虫唾が走る。私は会いたくないとお父様にお願いしたこともある。もちろんその願いはすげなく断られ、ひどく叱られた。「これはお友達付き合いなどではなく政治だ。金沢グループの一員としての自覚が足りていない」と。


 知事ともっと喋りたいなんて私が言うわけがないのだけれど、お父さんは知事の機嫌を取りたいからそんな嘘八百を言うのだ。私にも口裏を合わせて欲しいのだろう。いつもそうするように。

 知事は私に懐かれていると知ってご気分がよろしくなった様子で、その白い歯を出して私に微笑みかけた。


(もう。時間が無いのにこんな茶番に付き合わなきゃいけないなんて……!)


 私の経験上、ほとんどの政治家は話し始めるといつまで経っても終わらない。ここで知事と円満に会話が始まれば、長話が始まるのは火を見るより明らかだ。白奈やクレマンスをお手洗いで待たせたまま十五分も話させる展開は、何としても避けなければならない。

 だから、私はあえて知事に嫌われる作戦に打って出ることにした。


「いいえ……」


 その言葉を口にすると、知事の表情がニッコリとしたまま氷河期の地球みたいに凍った。お父様の眉間には深い皺が寄って明らかに動揺し、恨み言を言いたそうにしているが、知事の眼前でそうすることもできない。

 私は場の主導権を握るため、そのまま間を置く。沈黙はおそらく二秒にも満たなかったに違いないが、緊迫した二秒だったため、まるで永遠のように感じられた。二人は私の次の発言を見守っている。私は自分の言葉にかつてないほどの注意が向けられていると感じながら、再び口を開いた。


「――いえ……その。益美おじさまはお忙しいでしょうから、私なんかとのお話に貴重な時間を取らせてしまうのは恐れ多いので……甘えさせていただくことなどできません」


 緊迫の数秒のあと、私に嫌われていないと知った知事は、すっかり満面の笑みを浮かべた。


「あっはっはっは。そんなことは気にしないでおくれよ。季見歌くんみたいに素敵な女性とお話する時間はいつだって楽しいものだ」


 と、表面的には紳士的なことを言いながらも、表情は若干引き攣っていた。私が最初に冷たく放った言葉がボディブローのように効いているのだろう。これで長話を避けてくれればいいのだけど……。


「すっかりお母様に似て美しく成長して。男達で取り合いになったら戦争でも起こりそうだよ。楽しみだねぇ。将来どんなお婿さんを捕まえるのか。はっはっはっは――」


 気の利いたことを言えたとでも思ったのか、知事は唾を飛ばして笑いながら私の頭を撫でた。不愉快で、粟肌が立つ。「触らないで!」と叫んで振り払いたいくらい。

 もちろん、時間は限られているから、その選択肢はない。旋毛の上を乾いた掌がたっぷり二往復するまで、じっと耐えた。


「美しいだなんて身に余るお言葉です。――益美おじさま。私はここで失礼させていただきます。どうぞ、素敵な夜をお過ごしください」


 私はそう言って、ドレスの裾を持ち、軽く会釈した。



     ★✴︎✳︎*✳︎✴︎☆✴︎✳︎*✳︎✴︎★✴︎✳︎*✳︎✴︎☆✴︎✳︎*✳︎✴︎★



 貴賓席をなんとか通り抜けて、奥の衣装室(ドレッシングルーム)に入った。ここで着替えをするのは、私とお母さんだけ。だから、この部屋にはお母さんの財布や靴のコレクションなど、重要な物が置かれている。


 クレマンスの推理通りなら、この部屋のどこかに招待状があるはず……!


 大急ぎで引き出しという引き出しを開け、中に入っている紙や化粧道具をひっくり返すけれど、それらしきものは見つからない。


(どこ? お母さんだったら、私に見られたくないものをどこに置く?)


 今まで、招待状がまとめて置かれているところを見たことがない。

 私が見たことないということは、この部屋で私の目につかない場所にあるということだ。この部屋でお母さんだけが使うところ……。それは……。


「ウォークインクローゼットの中ね……‼」


 ウォークインクローゼットとは、その名の通り一つの小部屋のようになっているクローゼットである。

 香水の匂いがするウォークインクローゼットに踏み入り、豪華絢爛なドレスが吊るされたドレスを避けながら、荷物を漁った。


「見つけたっ――‼」


 床に置かれた箱の中で山盛りになっていたのは、眩いばかりの金色で縁取られた便箋だった。趣味が悪い。

 山盛りになった便箋から無造作に二枚を抜き出した。

 しばしの達成感に浸る。


 ……さて、どうやって持ち帰ろう。


 招待状は金ピカに光っていて、手に持っていると目立ちすぎる。このまま再び上階ホールを通り抜けるわけにはいかない。間違いなくお母様かお父様に見つかって、大目玉を食らうだろう。

 ポケットに隠せればいいのだけれど、機能性を全て捨てて審美性に重きを置いた赤いドレスにそんな贅沢品は付いていない。丸めて手袋の中に入れようとしたけれど、便箋の形が嵩張かさばって目立ってしまう。

 結局、ドレスのスカート裏の生地を破いて即席のポケットを作り、その中に隠した。お気に入りのドレスだったけれど、他に方法が無いのだから仕方がない。


 招待状を隠すと、駆け足で衣装室(ドレッシングルーム)を出る。

 白奈とクレマンスが潜伏して待っているから、なるべく急いでお手洗いに戻らなければならない。


 しかし、一つ障害があった。貴賓席にはまだお父様と知事が残っていたのだ。早くどこかへ行って欲しいのに!


 私は急がないといけない。

 一般ゲストである白奈たちが賓客用化粧室に居るのが見つかれば、彼女たちがどんなにひどい罰を受けるか分からないからだ。


 どうやってここから両親のいる貴賓席の向こうにある化粧室に戻ろうか。白奈達が待っている化粧室に辿り着くためには、お父様や知事の横をもう一度通り過ぎなければいけない。ふたたびお父様に話しかけられれば大きなタイムロスになる。

 知事が過去の功績を話し始めたら、十五分は止まらないだろう。自慢話に足を取られているうちに、化粧室に隠れている白奈たちが見つかってしまうかもしれない。


 そこで私は大きな賭けに出ることにした。一度、階段から下階のダンスホールに降り、ダンスホールを突っ切って反対側の階段から化粧室に向かう。そうすれば、最短時間で辿り着けるだろう。

 しかし、この作戦には一つ大きな問題がある。先ほど言及したとおり、私は下階に降りることを許されていないのだ。教育係の津毛さんは、同年代の子や若い男性も居るダンスホールに降りることを激しく禁じている。


 下階に降りたことが見つかれば、教育係による苛烈な罰が待っている。


 以前に一度だけ、ダンスホールに降りたことがある。そのときは、五日間も鎖に繋がれて自室に閉じ込められた。その上、一日に何度も自室にやってきては胸ぐらを掴まれ、激しくなじられた。津毛さんが怒ることは頻繁にあるけど、あれ以上激しく怒っている津毛さんを見たことはない。


 もし再び見つかれば、こんどはもっと酷い罰が待っているだろう。

 津毛さんの金切り声を思い出すと、自然と足が震えた。まるで、見えない津毛さんが真後ろに立っていて、私の一挙手一投足を観察しているような錯覚に陥る。


 それでも、急がないと。白奈とクレマンスが危険を承知で待っているんだから!


「五日監禁されても、来週のダンスパーティーには間に合う。三日監禁されても二人には会える……! 行けるよ。行こう!」


 私は独り言で自分を鼓舞すると、螺旋階段を駆け下りて、下階のダンスホールに出た。

 走りやすいようにドレスの裾を掴み、たくさんの紳士淑女たちが別れの挨拶を交わす大広間を駆け抜ける。

 私は今、明確に規則違反をしている。

 反対側の壁を目指すときの私は、ほとんど全力疾走だった。

 たくさんの人影を避けながらホールの反対側の階段までたどり着き、螺旋階段を駆け上がった。上階に辿り着くと息が切れ、視界がクラクラした。ハイヒールのままで走ったせいで、まるでつま先をヤスリで削られたみたいにつま先が痛い。


 それでも、二人が待っていると思うと、足が止まらなかった。


(待ってて。白奈。クレマンス。もうすぐだよ!)


 階段から上階の廊下へ続く扉を開く。二人が隠れて待っている化粧室は、もう目前だ。

 その扉の前に、誰かが立っていた。暗くてよく見えないが、女性のお手伝いさんが着るメイド服を着ている。


 ――宮原さんであって!


 母の執事である白髪に赤いメガネを掛けた宮原さんは、私に唯一優しくしてくれるお手伝いさん。彼女なら、下階に降りてはいけないという規則を破ってもきっと見逃してくれる。


 そんな私の淡い期待は、振り向きざまに見えた相貌に打ち砕かれた。


 墨汁に漬けたように黒い髪を後ろに束ねた、蜥蜴(とかげ)のように鋭い眼光の中年女性――津毛直子さんだった。この超高層ビルと天空のダンスホールの警備総長であり、私の教育係である。

 私の教育係に就く前はニューヨーク州で警官をやっていたという津毛さんの二の腕は、野生動物のように筋骨隆々として、袖は窮屈そうに張っている。彼女は実際に、多くの凶悪犯をその両腕で組み伏せてきたそうだ。私の腕の骨程度なら、握るだけで折れてしまうだろう。

 その上、彼女は非常に気性が荒い。彼女は失敗した部下を怒鳴りつけて、厳しい罰を与えるため、何人もの部下を退職に追い込んできた。その中には者もいるという。

 彼女を本気で怒らせることは、このダンスホールで一番やってはいけないことである。


 怖かった。背中は汗で湿り、心臓は口から飛び出そうなほど激しく鼓動していた。津毛さんと話すときにはいつもこうなる。物心ついて以来、私は長い時間を教育係の津毛さんと過ごす間、罰と称して、数え切れないほど叱られ、ときには叩かれてきた。その回数は、それこそ今まで食べてきたパンの数よりも多い。

 津毛さんは凶悪な殺人犯にも隙を突かれることがない鷹のような眼で、私の一挙手一投足を常に監視している。その口元は、私が言いつけを守らなかったときいつもそうなるように、への字に固定されていた。


「ごきげんよう、お嬢様。下階で何をなさっていたのです?」


 しゃがれた低い声で言った。丁寧だが、咎めるような口調だ。


「すみません……。お手洗いに行くために、回り道をしました」

「なぜです?」

「……すでに知事に別れの挨拶を済ませたので、もう一度会うのは気まずいと思ったためです」

「……お嬢様。こちらへおいでなさい」


 津毛さんはそう言って、私の腕を掴むと、ブルドーザーのような腕力で化粧室の中へ引きずり込んだ。――何度も起こってきたことが繰り返される……。怖い……。両脚はブルブルと震えて、立っているのがやっとなほどだった。


「何度も申し付けたはずです。下階に行ってはいけないと」


 しんとした化粧室の中で、津毛さんは静かに言った。


おっしゃるとおりでございます。大変申し訳ございません……」


 私は壁際まで後ずさった。津毛さんはそれに合わせて、一歩を踏み出してくる。

 壁際まで追い詰められた私は、もう引き下がることが出来ない。津毛さんは、鼻がぶつかりそうなほど近くまで顔を寄せてきた。鷹のような鋭い眼で私を覗き込んでくる。


「お嬢様」

「……はい」

「もし上村知事と会うのが気まずかったのなら、去るまで待つべきでしたよね?」

「そのとおりでございます。津毛さん」

「散々申し上げてきたはずですよね。下階に下りてはならないと」

「……そのとおりです」


「な ら ど う し て 下 り た――‼」


 心臓を握り潰すような金切り声が、化粧室内に響いた。津毛さんは私の顎を掴み、壁に押し付ける。後頭部を勢いよく壁にぶつけた衝撃で、視界がチカチカと光った。その痛みで、目頭にじんわりと熱いものが伝うのを感じる。


「下 に は 子 供 や 男 が い る ん だ よ⁉ 自 分 が や っ た こ と を 分 か っ て るの⁉」


 津毛さんの顔が般若のように歪んでいる。その唇は怒りのあまりぷるぷると震えていた。

 私の顎を掴む右腕に力を入れ、壁に押し付けられたせいで、後頭部が壁にぶつかる。

 掴まれた顎の骨が痛かった。壁に打った後頭部がジンジンと疼く。


(どうしてそんなことするの? 下階に降りただけじゃない。)


 やがて、視界がものすごい量の涙で歪んだ。


「……申し訳……ありません」

「申し訳ありませんじゃないでしょ‼ もし男が近寄ったらどうするの⁉︎ もしあんたぐらいの子供が寄ってきてくだらないことを教えたらどうする⁉︎ 取り返しがつかないよ⁉︎ あなたは金沢家唯一の跡継ぎなんだよ。立場を弁えてるの⁉」

「すみません。……二度と繰り返しません」

「二度と? 二度とですって⁉︎ 前と同じことを言えば誤魔化せるとでも――」


 ――パキッ


 津毛さんが再び捲し立てようとすると同時に、奥の個室の中から物音が響いた。何かが固いものが折れるような音だ。

 あの中に白奈とクレマンスが隠れているんだ‼

 津毛さんがチラリとそちらを見遣った。


(だめだよ出てこないで……二人がここにいるのがバレたらもっと大変なことになる‼ 怒鳴られるだけじゃ済まない、もっと恐ろしいことに……)


 この化粧室に不法侵入していることが露見すれば、二人はおそらく鋼鉄の部屋という名の拷問室に連れて行かれる。この高層ビルの四〇〇メートル部分にある、関係者以外には極秘の部屋だ。

 鋼鉄の部屋に収監された者は、日本の法律では許されていない方法で取り調べを受けることになるという。死者すら出たことがあるというが、私のお父様にはそれを揉み消すだけの力がある。

 

 津毛さんは物音がした個室をじっと睨んでいたが、何も変わったことが無いと分かると、私に向き直った。

 二人が見つからずに済んで安心した。九死に一生という感だ。


「前回、散々「二度としない」と聞きました。それでこの結果でしょう? あんたみたいな大嘘つきの言葉、誰が信じると――」


 ――バチャーーンッッッ


 個室から、水が派手に弾ける音が聞こえた。ふたたび津毛さんの注意が個室に向く。


(白奈! クレマンス! 出てきちゃダメだって! 隠れていて!)


 奥から二番目の個室の床から、たくさんの水が流れてきた。水漏れだろうか。

 あれ? あそこは白奈やクレマンスが隠れている隣の個室だ……。どういうこと?


 誰かが個室に居ると分かって、さすがの津毛さんも発狂に近かった怒鳴り声を抑えた。取り乱している姿を、ゲストに聞かれてはまずいと思っているのだろう。


「んっ……ゴホン。どなたかイらっしゃるの?」


 津毛さんの声はかすれていた。大声を出したせいで声帯を傷付けたのだろう。私は声楽を習っているけど、喉を温める前に大声を出すと声帯が傷つくから、叫び声を上げるのは厳しく禁じられている。津毛さんの声がいつもややしゃがれているのは、こうやって長年怒鳴りつづけたからだと思う。


 津毛さんは個室から返事がないことをいぶかしんだのか、ゆっくりと近づいた。


 不思議なことに、白奈達がいるはずの一番奥の個室以外にも、四つある全ての個室の扉が閉まっていた。そして、奥から二番目だけに鍵が掛かっている。

 つまり二人は、奥から二番目の個室に隠れているのだろう。だからこの状況は大変まずい。二人が津毛さんに見つかってしまう……。


 津毛さんは奥から二番目の個室の前に立って、ノックした。


「失礼致します。中にいるのはどなた様です? 特にお変わりはございませんか?」


 津毛さんが掠れた声で呼びかけるが、応答は無い。確認するようにもう一度ノックしたが、結果は同じだった。


 流石に中を覗いたりはしないでしょう……。

 そうたかくくっていると、津毛さんは思わぬ行動に出た。なんと、床にかがみ込んで、扉の下から中を覗き込んだのだ。どこからどうみても覗き魔である。


(まずい、脚が見えちゃう。隠れて‼)


 そんなテレパシーが伝わるはずもなく、二人の脚が見つかってしまうと思っていると――


「……誰もいない。――おかしいですね。とっても」


 何も見えなかったらしい。

 ふぅ……。うまく隠れてくれたようだ。

 私はほっと胸を撫で下ろす。


「水が漏れてくるなんて、便器が壊れているのかしら。――季見歌様は自室に戻っていなさい。私は水道の技師を呼んだあとで、早急に向かいます」


 津毛さんはそう言うと、早足でトイレから出ていった。



     ★✴︎✳︎*✳︎✴︎☆✴︎✳︎*✳︎✴︎★✴︎✳︎*✳︎✴︎☆✴︎✳︎*✳︎✴︎★



「し……白奈〜? クレマンス〜? いるのー?」


 津毛さんが技師を呼ぶために去ってから、個室の中に呼びかけた。


「もちろん!」


 一番奥の個室から、白奈とクレマンスの声がした。

 二人とも同じ個室に隠れていたみたいだ。


「ねえ、どうやって隠れていたの?」

「二人で便座の上に立ってたんだ〜。お行儀が悪くてごめんね?」

「本当にお行儀が悪いわね……」


 鍵が掛かっていない一番奥の個室の扉が開いた。

 個室から出てきた白奈の目には、大粒の涙が溜まっていた。


 どうして泣いているのだろうか。心当たりがなかった。


「白奈……。どうしたの?」

「ごめん。私、涙もろくって……」

「そういうことじゃなくてっ」

「ほんと、なんで怒られた季見歌じゃなくて白奈が泣いてるんだよ」


 クレマンスも呆れ顔をしている。


「季見歌は悪くないよ。あんな人がいるんじゃあ逃げ出したくもなるよね」


 白奈はそう言って私を抱きしめた。


「季見歌……。身体……すごい震えてるよ……」


 そう言って、さらに激しくしゃくり上げた。もしかすると、優しい白奈は怒られている私に同情して悲しくなったのかもしれない。

 なぜか私が白奈の背中をさすってあやしてあげた。クレマンスはその様子を三流映画を見るような目で見ていた。


「二人が見つからなくてよかったわ。――そういえば、さっきの音は? 隣の便器が壊れたの?」

「ああ、これだよ」


 白奈が持っていたのは、金色の立派なトロフィーだった。弁論大会とやらで優勝したときのものだろう。――よく見ると、上部が欠けている。


「それって……。」

「このトロフィーを壊して、破片を隣の個室のトイレにぶん投げたんだ」

「そんなことしなくても……!」

「あの津毛?とやらの注意を引いて、理不尽な説教を中断させかったの。そしたら思ったより上手くいったねー」

「ねー♪」


 クレマンスも同調する。


「そんな……トロフィーは二人にとって大事なものなのに! なにも壊さないでも……!」

「このまま投げ込もうと思ったんだけどさぁ、基部に『弁論大会』ってデカデカと書いてあったから、壊さないわけにはいかなかったんだ」

「そういうことじゃなくて‼ 大事な記念品なのよ? 二人が一生取っておくべきモノでしょう? トイレに投げ込んだりしちゃダメじゃない」

「いいよ。季見歌のほうが大事だし、優勝した事実は変わらないもん♪」

「もうっ……。バカなの?」

「天才でしょ?」


 私のために大きな犠牲を払ってくれたことが嬉しくて、欠けたトロフィーを持った白奈にハグをした。


「ああそうだ。招待状は?」

「見つけたわ!」

「泥棒っ!」

「頼んだのは貴方たちでしょ!」


 私はスカートの裏に差し込んでおいた金色の便箋を取り出して、二人に渡した。


「スカートの中に隠してたのー? お行儀悪~い」

「便器の上に立つよりはお行儀悪くないわよ」


 私が反論すると、二人は笑った。


 不思議なことに、壁に打った後頭部の痛みがいつの間にか和らいでいた。胸倉を掴んで怒鳴られた直後なのに、足の震えも止まっている。こんなの初めてのことだ。白奈にハグしてもらったからかもしれない。


「じゃあ、私たちは行かなくちゃ。また絶対会いに来るね!」

「うん。招待状はあるし、また来週このトイレで会お」


 二人は足早に化粧室を去ろうとした。でも、私はお別れを言えなかった。


「……待って。私も一緒に行きたい」

「え――?」

「私も二人が住む富山に行きたいの」

「もちろん。いつか一緒に行こうね♪」

「いつかじゃなくて、今日行きたいの……。無理を言っているのは分かっているけど」


 これから、私は自室で鎖に繋がれる地獄のような日々が待っている。二人は私があてにできる唯一の人だったから、藁にも縋る思いで言ってしまったけれど……クレマンスは申し訳なさそうに俯いた。


「残念だけど、それは難しいよ。人がたくさんいるし、二階から一歩も降りることができないんでしょ? また会いに来るからさ」


 クレマンスが申し訳なさそうな顔で、もっともなことを言った。


「だって、わたし……もう一分一秒だってこんなところに居たくない。あなた達と遊びたいのに……‼」

「うん……。季見歌の言い分はわかるよ。けど……警備が厳重すぎる。紛れ込むのは不可能だよ。このマンションの職員はみんな季見歌の顔を知っているみたいだし」


 白奈の返事も、芳しく無い。


「そうだよね。今日知り合ったばかりなのに、そんなことできないよね……」


 私が目を伏せると、白奈が驚くべきことを提案した。


「――だからさ、今日じゃなくて、来週、ここから逃げよ?」

「いいの⁉︎」

「待って、白奈。季見歌。正気⁉︎」

「いつもよりずっと正気だよ。だって、季見歌が辛い思いしてるのに、助けようとしないほうが正気じゃないもん! ――決定ね! 次のダンスパーティーで季見歌を連れて富山に逃げよう! いい作戦を考えておくからさっ。――いいよね、クレマンス?」

「そんな作戦思い付くのか?」

「クレマンスも考えるんだよっ」

「えっ……私かよ!」

「あったりまえでしょ! あんたの頭が一番よく回るんだから。――じゃあ季見歌、覚悟はいい?」

「もちろん。……ここから逃げられるなら、命だって投げ出せるわ」

「よく言った♪ じゃあも人生賭けて季見歌を逃がすよ! いいよねー? クレマンス?」

「逃げてやるよ」


 クレマンスは「もうどうにでもなれ」、とでも言いたげだった。


「さすが我が親友♪」


 白奈の言葉に、クレマンスはそっぽを向く。


「……そういえば季見歌って、ここの外に出たことないんだよね?」

「……十年は出ていないわ」

「じゃあ、『地上でやりたいことリスト』作っておいてよ!」

「やりたいことリスト……?」

「いくつ書いてもいいんだよ? それ全部叶えようっ! あっ……ちなみに高校生の私にも可能なのにしてね? 地球一周とかユーラシア大陸横断とかはさすがに無理だから」


 ――この二ヶ月後、私たちはを目指すことになるんだけど……

 それはともかく。


「今すぐ、たくさん思いつくわ。――学校に通いたい。学校の帰り道にマクドナルドに寄りたい。水泳が好きだけど室内プールでしか泳いだことないから、本物の海で泳いでみたい。バイクを運転して風になってみたい。あと、川辺でバーベキューしてみたい……」

「意外と俗っぽいね」

「……変かしら」

「全然平気だよ。全部叶えよっ!」


 どれも、このまま天空のダンスホールに閉じ込められていたら死ぬまで出来ないかもしれないけど……。


「こんなに夢を見ていいのかしら……」

「夢っていうか権利だよ。私だって全部やったことあるんだもん。来週から忙しくなるね♪」

「私たちは急いでここを出ないと。 来週逃げるために今日は目をつけられるわけにはいかないからね」

「うん」

「じゃあ来週のパーティーでは、夜の九時二十分にここのトイレ集合ね。入場口で人の出入りが一番少ない時間帯だから。そのときに脱出計画の詳細を教える」


 乗り気じゃないように見えたクレマンスが、早口でそうまくし立てた。


「わかった。――ありがとう。クレマンス」

「クレマンスの言うことは信じて平気だよ。この子、意外とすごいから♪」

「意外とって何だよ」

「信じてるわよ。白奈のこともね」

「うん、信じて♪ 私、もう季見歌を一人にしないって誓うから。地上に下りてから季見歌のことたくさん笑わせてあげるからね」

「うん」

「それで、いつか季見歌を苦しめた人たちを苦しめ返してみせるから。期待してて?」

「白奈って意外に性格悪いのね」

「悪いよ。悪い?」

「悪い。でも嬉しいっ」


 このとき初めて、一緒に笑ってくれるのと同じくらい、一緒に怒ってくれることが嬉しいんだって知った。

 私も白奈とクレマンスのためにたくさん怒ってあげようと決意する――もちろん、その必要があったらだけれど。


 最後に二人それぞれと力いっぱい抱き合って、一週間ぶんのエネルギーを充填する。


「じゃあね! 白奈、クレマンス!」

「“またね”、でしょっ!」

「うん、そうだね。またねっっ!」


 走って逃げていく二人を見送って、半身を失ったような喪失感を覚えながら、私は自分の部屋に戻った。これから罰を受けるというのに、口角を見えない糸で引っ張られているように口元が綻んだ。

 こんな幸せなことはない。

 もし七日後に彼女たち二人が戻ってくることがなかったとしたら、私は絶望して窓から飛び降りていただろう。――なんて思いもよらなかったけれど……。



     ★✴︎✳︎*✳︎✴︎☆✴︎✳︎*✳︎✴︎★✴︎✳︎*✳︎✴︎☆✴︎✳︎*✳︎✴︎★



 目を覚ますと、自室の壁にもたれ掛かっていた。

 脚を動かそうとすると、思わぬ抵抗を受ける。まるで自分の脚じゃないみたいに重かった。足首を見ると、まるでアメリカ史の本で読んだ奴隷みたいな状況になっていた。両足首が鎖が繋がれていた。


 その重みと共に、記憶が蘇ってくる。


 私は白奈たちと別れたあと、自室に戻ると、津毛さんがやってきたんだ。

 再び胸倉を掴まれて激しく怒鳴られ、頬を叩かれ、抵抗できなくなるくらい泣いたあと、足首に枷を嵌められたんだ。

 下階に降りた罰として、私は数日間この自室に閉じ込められる。


「お嬢様」


 私の自室に、津毛さんがノックもせず入ってきた。


「心苦しいですが、お嬢様を守るためにはこうせざるをえません」


 嘘つけ。

 心苦しいなんて思っていないくせに。


 津毛さんが持っていたのは鎖の付いた手錠だった。これを付けられるのは二回目だ。

 この手錠で、部屋の手すりに括り付けられて、身動きが取れなくなる。


「分かっているとは思いますが、お食事、入浴、お手洗い以外の移動は禁止されています」


 禁止されていますって、禁止したのは貴方だけどね。


「くれぐれも動こうなどと試みないように」

「もちろんです。津毛さん」


 でも、平気。来週になれば、白奈とクレマンスがここから助け出してくれるんだから、今はどんな苦痛にだって耐えられる。耐えてみせる。来週のダンスパーティーにさえ出ることができれば、この苦しい日々は全部終わる……!


「津毛さん」

「なんでしょう」

「大変申し上げにくいのですが……」

「続けなさい」

「鎖が解かれるまでの期間をお尋ねしてもよろしいですか?」

「もちろん、反省なさるまで、です」

「……反省するまでに必要な日数は、おおよそどれくらいだとお考えでしょう」

「前回は初めてだったこともあって、五日ほどに設定したと記憶しておりますが……今回は二度目なのでそう甘やかすことはできません」

「……と、仰いますと?」

「十日ほどを予定しております」


(え……?)


「十日……ですか?」

「二度目ということを考えれば、適切な期間設定だと思いますが」

「謹慎しているあいだ、来週のダンスパーティーはどうなりますか?」


 白奈とクレマンスが助けに来るのは七日後。十日も監禁されていたら、二人が来るまでに間に合わない……‼︎


「もちろん、規則違反があったばかりなのでお控え頂きます」

「……そんな」

「何かご不満な点でも?」

「い、いえ。滅相もございません……。」

「では、私が三十分ごとに伺いますので、お手洗いが必要なときにはお申し付けください」

「……わかりました」


 そんな……。一週間後のダンスパーティーに間に合わない……。私はこの部屋に監禁されて、助けに来てくれる二人に会うこともできないなんて……!

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