第3話 金沢季見歌

「ごきげんよう、金沢家次期当主の金沢季見歌かなさわきみかと申します」

「ご、ごきげんよう」

「先ほどダンスホールの隅にいらっしゃったお二人ですよね。お名前を伺ってもよろしいですか?」


 赤いドレスの女の子――金沢季見歌は、目も赤かった。

 手袋は、涙で湿って暗い色に変わっていた。


 やっぱり、個室の中で泣いていたんだ。


 そして、季見歌がダンスホールに居る私たちの存在に気付いていたということに驚いた。

 ダンスパーティーの会場に同年代の子はほとんど居なかった。私たちは目立って若かったから印象に残ったのだろうか。


「私は組木くみき家次期当主の白奈しろなだよ。こっちはシャスター家のクレマンス。どうしたの? なにか辛いことがあった?」


 赤いドレスの少女は首を横に振った。しかし、すぐに堪えきれなくなったのか、また泣き出してしまった。


「大丈夫だよ、季見歌ちゃん。何が辛いのか教えて?」


 右手で、季見歌の背中をさする。

 一度さすっても嫌がられないのを確かめてから、何度か掌を往復させた。


 ダンスホールでは別世界の住人のように凜々しく見えた金沢家次期当主さんも、泣いていると同年代の女の子みたいだった。いや、同年代の女の子なんだけどさ。


 しばらくあやしていると、季見歌の嗚咽おえつが止んだ。

 彼女が顔を上げると、まるで磨かれたガーネットのように透き通る瞳が私を覗き込む。

 至近距離だと破壊力が段違いだ。

 思わずどきっとした。


「お二人が羨ましかったんです……」

「えっ。私たちが?」

「はい……。わたし……ズッ……同世代の子とお話したことがほとんど無くて……。本と新聞だけが……」


 季見歌はほとんど喋ることもできずに、再び泣きはじめてしまった。これは重症かもしれない。


「どうしたの? 教えて? 本と新聞だけが?」

「この建物の外との繋がりが……本と新聞だけなんです。私……このダンスホールにまるで籠の中の鳥みたいに閉じ込められていて」

「もしかして、学校にも行けないの?」


 クレマンスの質問に、季見歌はこくりと頷いた。


「それは辛いね」


 こんな豪華な家に生まれたら、絶対にハッピーだと思っていた。

 もし神様に「天空のダンスホールに生まれ変わってもいいぞ」と言われたら、育ててくれた両親には申し訳ないけど、二秒と迷わず生まれ変わる。


 けれど、もしその代わりに友達と会わせてくれないというのなら……話は変わってくる。

 気の置けない話し相手がいないのなら、毎日窓から目が醒めるほど綺麗な景色が見られても、頬が落ちるほど美味しいご飯を食べても、決して幸せにはなれない。人は家族以外の誰かに愛されないと壊れてしまうから。

 世の中、一方が良いときは、もう一方に問題が起きるみたい。

 うまくいかないものだね。


「私、一生このままならいっそ……死んでしまったほうがマシだと思って……」


 季見歌は、心の底から絞り出すように呟いた。目には大粒の涙が溜まっていた。


 希死念慮きしねんりょまで……。

 私は彼女の事情をほとんど聞いていないから、詳しい事情はわからないけれど、初対面の人にこれだけ弱みを見せるなんて、精神は相当参っている。

 きっと、精神は限界なのにダンスホールでは気丈に振る舞うことを求められて、誰も相談できる相手がいなかったに違いない。


「泣かないで。大丈夫だよ……。大丈夫だからね」


 両腕で季見歌の肩を包む。

 彼女は素直に私の右肩に顔を埋めた。


 ドレスの肩が涙で生暖かく湿っていくのがわかった。

 季見歌の旋毛を眺めて、こんなにかわいい子を抱きしめられて幸せだなーっとか思ったりしながら、言葉を紡ぐ。


「しばらくお話しましょ? 今日は最後までここにいるからさ」

「……いいんですか?」


 そう言って顔を上げると、まるで母親に甘える子どもみたいに上目遣いの季見歌の顔が視界いっぱいに広がった。

 今私に見えている視界を切り取ってインスタに載せたら、世界中でバズりそうなほど綺麗だった。心臓が苦しいくらい脈打つ。


「私たち、もうパーティーには疲れたからさ。いいよね? クレマンス」

「もちろん」


 もともとパーティーに倦いていたクレマンスは即答した。


「パーティーが終わるまでここにいるよ。あと、敬語は使わないでよ。友達でしょ?」

「お気持ちは嬉しいです……嬉しいわ。だけど貴方達は……長くここに居られないの」

「どうして? 魔法が解けちゃうの?」


 ずっと悲しい顔をしていた季見歌が、初めて笑顔を見せた。かわいかった。


「ここには魔法なんて無いわ」

「そうだね。魔法があったら泣いたりなんかしないよね」

「けれど、貴方達は帰らなくちゃいけないのよ。ダンスホールに未成年が居ていいのは十時半までだから……」

「十時半……? そんな……もうすぐだよ‼」


 慌てて腕時計を見る。針は十時二五分をさしていた。まずい。のんびりしてはいられない。


「じゃあ連絡先交換しよう。ライン持ってる?」

「ラインってなに?」

「ラインを知らないの?」


 季見歌が頷く。――ラインも知らない子、初めて見た。

 かわいそうに。

 この子、世界で何が起こっているかほとんどわかっていない。


「ラインは主にアジア圏で普及しているソーシャル・ネットワーキングサービスの一つで……痛っ!」


 おもむろに定義を話し出したクレマンスの右手の甲をピシッと叩いて牽制した。

 時間がないので、天然なのかわざとなのかわからないボケに構っている余裕はない。


「ラインっていうのはね、家に居ても友達と話せる超便利ツールだよ」

「ああ、スマートフォンのことね」


 ちょっと誤解があったけど、話の流れを遮らないためにスルーした。ライン=スマートフォンという認識でも話は繋がる。今は時間が無いから話を進めるのが先決だ。


「ごめんなさい。私、スマートフォンを持っていないのよ」

「え? スマホも持っていないの?」

「ええ。外界と繋がってしまうからと言って、津毛つげさんが許してくれないの」


 信じられない。

 一般庶民たる私の家族ですら全員持っているのに、こんな豪華な家に住んでいる子が友達とチャットするツールも与えてもらえないなんて……。

 教育方針にはいろいろあるというのは理解できるけれど、友達を持つことを一切許さないのはどうかと思う。


「津毛さんって誰?」


 クレマンスが訊いた。


「私の教育係よ。私が同年代の子と話したり、若い男の人と話したりするのを厳しく禁じているの」

「なに? そのルール……」

「それじゃあ、私たちと話しているところも?」

「ええ、見られたら大変なことになるわ。私はもっと同級生とお話したいのに……」


 信じられない。

 同級生と話すのを禁じる?

 思春期の子が同じ精神年齢の人と話せないなんて、そんなことになったら心が壊れてしまう。

 子どもが大人としか話せなかったら、どうやって遊びを覚えるというのだろう。同世代の友達にしか共有できない悩みや本音をどこに発散すれば……。


「ずいぶん極端だね」

「同級生と話せない日々なんて、私だったら一秒も笑顔になれないよ……。そんなの絶対おかしい」

「……二人がそう言ってくれて安心したわ。ずっと、私だけがおかしいのかと思っていたから」


 季見歌を取り囲む状況は、想像したよりもずっと深刻だ。

 外界から遮断されて、世間の情報に一切触れさせてもらえず、友達を作ることも許されないというのだから。季見歌の状況は、あまりに不憫だと思う。


 実際、彼女自身もこの環境で全く幸せを感じられていない。知り合ったばかりの私に「死んだ方がマシ」とまで言っているのだから、かなりの重症だ。死にたいと口にする希死念慮きしねんりょは、心が追い詰められた人に見られる典型的な症状だ。


 思春期の精神は、友達や家族の愛情という補給が無くても生きられるほど強くない。

 このままでは彼女の心が壊れてしまうような気がする。


 私はなにか彼女の力になってあげたいと思った。


「そうだ。じゃあ、来週もまた会いに来るよ」


 クレマンスが提案した。

 私の友達も同じ気持ちなんだとわかって嬉しくなる。


「そうだね。毎週ここに来る! 私たちは富山だからすぐ来れるからさ、来週もまた二階のトイレに忍び込むよ。ね、クレマンス?」

「もちろん」


 クレマンスは即答で快諾した。さすが親友。ノリの軽さが違う。


「でも、このパーティーは……」


 季見歌が何か言いかけると、三十分刻みに鳴る小さい鐘の音が響いて、言葉の続きを遮った。

 この鐘は十時半を告げるものだ。私たちはもう家に帰らなくちゃいけない時間……。


「もう帰る時間⁉ まだ全然話せてないのに‼」


 焦りが募った。背中が痒くても手が届かないときみたいにムズムズする。

 これが季見歌とのお別れになるなんて、とてもじゃないけど受け入れられない。

 遠くから見惚れていただけの赤いドレスの少女が、泣きながら縋り付いてきて、もう一度会いたいと言ってくれた。それがとても嬉しかった。


 私たちはもう一度会う算段すら決めていない。もしここでお別れすれば、天空のダンスホールに閉じ込められている季見歌と二度と会うことはない気がする。

 そんなことになれば一生後悔するだろう。お婆ちゃんになっても、この日のことを思い出すに違いない。


「季見歌。なんて言いかけたの?」

「……このパーティーは招待状がないと入れないのよ。お父様が言っていたわ。招待状にはICチップが入っていて、スキャンしないとセキュリティを通れないって」

「ああ。そういえば夏目さんも入り口で招待状を機械にかざしてたな」


 クレマンスが言った。


「確かに、それは問題だね……。招待状はどこかで売ってたりする?」

「ここのパーティーには選ばれた人たちしか入れないの。だから、招待状を手配できるのは私のお父さんかお母さんだけよ。私の両親と知己じゃなかったら、いくらお金を積んでも手に入らないわ」

「そんな……。連絡もできないのに、会いにすら来れないなんて理不尽じゃない」


 ただもう一度会うだけなのに、打てる手は限られている。

 どうにかして、季見歌と再会する方法はないだろうか……。


「クレマンス、なんとかならない?」

「もう一回ディベート大会で優勝するしか……」


 クレマンスがばかなことを言っている。そんな作戦じゃ来年まで会えないじゃんってツッコミを頭の中で入れていたら、珍しく私の頭に名案が思い浮かんだ。


「ねえ、いいこと思いついた! お母さんとお父さんは招待状を持っているんでしょう?」

「ええ」

「二人が手渡しするならさ、どこかにまとめて置いてあるはずだから、探してきてよ!」

「待って。季見歌に招待状を盗めって言うの?」


 すかさずクレマンスが反論する。


「親のものなんだから平気でしょ。そしたら、来週もまた会いに来れるじゃん♪」

「そうね」

「できる?」

「……やってみる。二枚盗んでくるわ!」


 季見歌が元気よく返事をした。


「季見歌ってかわいい見た目して度胸あるんだね……」


 とはクレマンス。私も同感である。


「お父さんとお母さんはいつも招待状をどこから出すの?」

「実はどこにあるか見当も付かないのよ」

「置いてあるところを見たこと無いの?」

「私からも見えないところに隠しているのだと思う……。なにかアイディアはあるかしら?」

「正直わからない。このダンスホールに来たのは初めてだから、どんな部屋があるかすらわからないし……」


 招待状の隠し場所なんて、手がかりは一つもない。

 たとえば、私のお母さんの行動を予想するのならば簡単だ。十七年間一緒に暮らしてきたし、ごくごく普通の人だから、へそくりの隠し場所だって簡単に見つけられる。

 でも、赤の他人……それも、天空のダンスホールに住むような貴族様が大切なものをどこに隠すか予想する場面なんて、十七年生きてきて一度もなかった。

 まるで経路積分の問題みたいに、見当のつけようも無い。

 三人してああでもないこうでもないと唸る。

 すると、クレマンスが何か閃いたように膝を打った。


「招待状はお客さんに絶対見られちゃいけないものだよね。だから、近しい家族しか入れない部屋に隠してあるんじゃないかな」

「ああ、確かに‼︎」

「近しい家族しか入れない場所?」

「ご両親と季見歌にしか入れない場所だよ。心当たりはある?」

「ああ、私とお母様専用の衣裳室ドレシングルームは二人以外立ち入り禁止だわ。……クレマンスってすっごく賢いのね!」


 季見歌が褒めると、クレマンスの頬が赤くなった。

 うちのエースは意外とチョロい。つまり褒められ慣れていないから、ストレートな褒め言葉に弱いのだ。


「そうだよ~♪ ディベート大会でもクレマンスが圧倒的エースだったの‼」


 クレマンスが目を伏せる。照れているのは明らかだ。チョロマンス。


「圧倒的に注目されてたのは白奈だけどね。見た目が“ちょっと”いいからって」

「“か・な・り”だろー!」


 クレマンスは私の反論をさらりと無視して、季見歌に向き直った。


「季見歌が招待状を探しているあいだ、私たちがここにいるのを見られたらまずいんでしょ?」

「ええ。ここは賓客と家族専用の化粧室だから、一般客が入ることは固く禁じられているわ。あなた達が紛れ込んでいるのが見つかれば、大変な騒ぎになるわね」

「それならどこかに隠れないとか……」


 首を振って、黒大理石のトイレを見回す。

 かくれんぼの定番スポットである掃除用具入れがあれば、そこに隠れようと思ったけれど、賓客用化粧室にそんなものはなかった。いや、そもそもトイレの掃除用具入れとか入りたくないけど……。


 隠れられる場所は一つしかない。個室の中だ。

 普通のかくれんぼだと、個室に隠れるのは悪手中の悪手だ。個室が一つだけ閉まっていれば、中に誰か居るのは明らかだから、声を掛けられたら終わりだ(それに応えなければ極めて不審)。

 しかし、天空のダンスホールでは事情が違う。この空間では、個室の中に入っているのがとっても偉い人の可能性があるから、中に声を掛ける失礼を働くのはリスクが大きすぎるのだ。それでなくてもここには個室の中に声を掛けてくるような人は居ないだろうから、この中にいればまず見つかることはないだろう。


「じゃあ私たちは奥の個室に隠れてるよ」

「がんばってね!」

「わかったわ」

「気をつけてね、季見歌。さっきの話だと、招待状を盗んでいるところを教育係の〈津毛さん〉とやらに見つかったら取り返しのつかないことになるから。無理をしないで」


 季見歌は先ほどまでの泣き顔が嘘のように微笑みかける。そして、まるで世界中の戦争がたちまち止まりそうなほど素敵な笑顔で――


「大丈夫よ。全力を尽くすわ。来週もまた二人に会いたいもの♪」


 と言い残して、化粧室の扉から飛び出した。

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