第一章最終話 人生初の自由落下体験☆

 鎖で自室に繋がれるようになってからの日々は地獄だった。

 部屋を出ることが許されるのは食事、入浴、お手洗いのときだけ。鎖が付けられていないときは、もれなく教育係の津毛さんによる監視がついていた。

 晩餐のためにお母様やお父様とテーブルを囲ったあと、食事を済ませたらすぐに部屋へ戻されて、後手に手錠をかけられる。私をカゴの中に閉じ籠める厳格な規則を敷く津毛さんに心酔しているお母様は、私が自室に連れて行かれるのを嬉しそうに見ている。私が安全に生きるのがお母様の望みだけれど、私が安全に生きてさえいれば気持ちなど意に介さないのだ。お父様は私に全く興味がないため、何も口を出さない。


 こんな生活が一生続くなら、死んでしまった方がマシと思えるような毎日。なんとか耐えることができているのも、あと数日でここを脱出すると決めていたから。


 拘禁が始まって六日目。白奈とクレマンスが助けに来てくれるダンスパーティーは明日に迫っていた。

 晩餐の席に着き、お母様とお父様を待っていると、それまで決して私から目を離さなかった津毛さんが初めて部屋を去った。この建物〈トゥール・ドゥ・シエル〉の敷地内で事件が起きたらしい。なんでも、庭園に無人の自動運転車が侵入したのだとか。私の教育係でありながら、かつこの建物の警備を統括する警備総長でもある津毛さんは、場を収めるためにそちらへ駆けつけたわけだ。


 この部屋にいるのは私は一人。


 壊れてしまった車の持ち主様には申し訳ないけれど、津毛さんの不在は願ってもないチャンスである。あまりにタイミングがいいので、不謹慎ながら誰かが私のために事故を起こしてくれたのかもしれないとすら思った。


 私はお手洗いに行くフリをして席を立ち、大急ぎで自室に戻った。ノートブックのページを破り取り、カランダッシュの万年筆でフランス語の手紙をしたためる。フランス語にしたのは、宮原さん以外の誰かに読まれても意図を汲まれないようにするため。


『宮原さん。過ぎたお願い事なのは分かっています。今晩、全員が寝静まったあと私の部屋に来てくださいませんか? 誰にも見られてはなりません。』


 宮原さんとは私に親切にしてくれるお手伝いさんであり、普段は主に厨房で料理長(シェフ)として働いている。パリのとある五つ星ホテルで修行をしていた経歴からフランス語が堪能であるため、学校に通えない私のためにフランス語の家庭教師も務めてくれている。

 彼女はこの空間で私に唯一よくしてくれる存在である。幼いころから、宮原さんだけは私のわがままを聞いてくれた。時々、こっそりと“下の世界”のお菓子や、流行りの小説をプレゼントしてくれることもあった。


 協力を頼むなら、宮原さんしかいない。

 問題は、どうやってこの手紙を渡すかである。


 宮原さんは厨房で働いている。けど、私が厨房に向かえば怪しまれるだろう。私と宮原さんの仲がいいのは周知の事実だから、もし直接会話したところを誰かに見られれば、宮原さんは津毛さんの監視下に置かれることになる。

 接触しないで手紙を届けなければならないわけだけれど、名案はなにも思い浮かばない。とりあえず、手紙をドレスの袖に隠して、晩餐に戻った。

 ホワイトアスパラガスの前菜のあとに、カリフラワーのスープが供された。私はスープが入った大皿を見て、これを便箋代わりにしようと思った。


 手紙を持った左手をテーブルクロスの下に隠したまま、誰も私に注目しなくなる瞬間を待っていると、その時は訪れた。お父様が会社について話し始めて、全員の注目がそちらに向いたのだ。

 私はスープのお皿を持ち上げて手紙を皿と受け皿のあいだに滑り込ませた。誰にも見られなかったはず!

 カリフラワーのスープを飲み干すと、手紙が挟まれているお皿はお手伝いさんによって片付けられた。あわよくば、厨房にいる宮原さんがこの手紙に気付いてくれればいいのだけど……。

 続いてエビのグラタン、最後にステーキが供されて、晩餐を終える。


 デザートはフランボワーズのマカロンケーキだった。宮原さんは私のお気に入りを選んでくれたのかもしれない。その上に載せられた砂糖のプレートには、金色の菓子ペンでフランス語のメッセージが記されていた。『お嬢様のお望みとあらば、喜んで』と。思わず、小さいガッツポーズをしてしまった。砂糖菓子の手紙を噛み砕いて、証拠を隠滅する。もう手紙の内容を知る者は誰もいない。



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「ああお嬢様……なんて不憫なのかしら」


 津毛さんも眠り込んだであろう真夜中。深夜三時くらいだろうか。拘禁されている自室の扉が開く音で目が醒めると、目の前に老齢の女性が立っていた。鎖に繋がれた私を見て、悲愴な表情を浮かべている。彼女の顔を見て、

 宮原さんは、約束通り私が拘禁されている自室に現れた。


「いくら規則を破ったとはいえ、鎖で繋ぐようなことがあってはなりません……。ひどすぎます」

「来てくれてありがとう。私に会いに来るのは貴方にとっても危険でしょうに」

「滅相もございません。お嬢様のためとあらばどこへでも駆けつけます。このような事態となれば尚更です。――私に何かお助けできることはございますか?」

「宮原さん。冷静に聞いてほしいのだけど」

「なんでしょう」

「私、このダンスホールから逃げることにしたの」

「逃げる――⁉︎」

「お父様やお母様には黙っていてくれる?」

「それはもちろんでございますが……。そうですよね。こんな扱いをされて家出したくなる気持ちもわかります……」

「家出というよりは脱獄な気がするけれど」


 地上五〇〇メートルの監獄から脱出するのも、未成年がすると家出というかわいい言葉にまとめられるのね。


「どうやって逃げるおつもりですか?」

「わからない。とにかく、明日のダンスパーティーでが助けに来るのよ」


 なるべく真剣に言ったけれど、私が|と言うときに誇らしい響きを抑えることができなかった。

 宮原さんはにっこりと笑った。


「もしかして……お友達というのは、水色のドレスと、紫のドレスのお二人ですか?」

「ええ。どうして知っているの⁉︎ たしかにそうだけど……」


 予想外の返答に、思考がフリーズした。

 私の顔には四〇個くらいの疑問符が書かれているであろう。宮原さんは続けた。


「何を申しましょう。お二方を上階のお手洗いに案内したのは私でございますから。お一人でお手洗いに籠もってしまった季見歌様の寂しさを紛らわせる助けになれば……と思った次第なのでございますが、よいお友達になっていただけたようで何よりです」

「白奈とクレマンスを案内したのは宮原さんだったのね……」

「ええ。まさか、一晩で脱出計画をお企てになるほど仲良くなられるとは思いませんでしたけれどね♪」

「ありがとう。あの二人と話したのはほんの束の間だったけど、今までにあったどんなことより幸せだったの」


 それは本音だった。権謀術数渦巻く貴賓席では誰もが権益を得ることに必死だから、心の底からの繋がりなんて望むべくもない。何の政治的役割も無い私は動くお人形のようなもので、父親にはゲストに提供する話題の一つ、ゲストには父親に取り入るための道具として利用されるだけ。高価な宝飾品を買ってもらったり、表面的な褒め言葉を掛けてもらうことは幾らでもある。でも、そんなものは満ちたグラスに水を注ぐようなものだ。これ以上欲しいとは思わない。

 物質的な幸せより、心の繋がりをずっと求めていた。だから、私に対して無償の愛情を示してくれたり、命がけで助けると言ってもらったことは、誇張抜きで人生最高の思い出だった。


「よかった。季見歌様の幸せは私の幸せです。もし、お二人とお逃げになるなら手錠と足枷の鍵をお持ちします」

「そんなことできるの?」

「できなくてものです。私はいつでも季見歌様の味方ですから」

「ありがとう。でも、頼んでおいてなんだけれどいいのかしら……。もし露見したら、宮原さんにも迷惑をかけることになるわ」

「私はうまくやります。それに、もし私が季見歌様の家出に協力して解雇されたとして、どこへでも転職できますから心配はいりません。私にはがありますので。」宮原さんはボディービルダーがやるように、わざとらしく二の腕をさすってみせたから、笑ってしまった。確かに、宮原さんの料理スキルは疑いようもない。けど、その言葉は私を安心させるためのハッタリだろう。もし問題を起こして解雇されたとしたら、雇ってくれる先は多くないはずだ。「――私はただ、季見歌様が不幸そうにしているのを見ていられないのです。季見歌様が笑顔になれるために出来ることがあれば、よろこんでお手伝いさせていただきます」

「ありがとう。私のことを気遣ってくれるのは宮原さんだけよ」

「それは違います」

「え?」

「あといらっしゃるでしょう?」



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 ついにダンスパーティーの夜がやってきた。白奈とクレマンスの二人が私の脱走を手伝ってくれるXデーだ。


 いつもどおりならダンスパーティーは七時に始まったはずだ。時計を見ることもできないから、今が何時なのかも分からないけれど、お腹の空き具合的にはもうとっくに始まっているはず。

 宮原さんは助けに来てくれるだろうか。白奈とクレマンスは本当に来てくれるのだろうか。不安ばかりが募った。

 


「季見歌様っ! お心の準備はよろしいですか?」

「宮原さん! 鍵を見つけてくれたの?」


 私が拘束されている部屋に現れた宮原さんは、メイド服のポケットから鍵束を出して、シャラシャラと音を鳴らしたみせた。赤い眼鏡の奥の目が、悪戯っぽく笑った。――こんなに生き生きしている宮原さんを見たのは初めてだ。もしかすると、昔はいたずらっ子さんだったのかもしれない。

 宮原さんは素早く私の手錠を外す。四肢の拘束が解かれて自由になると、全身の関節がまるで錆び付いたジョイントのようになまっていた。

 一度大きく伸びをして身体をほぐす。


「ありがとう」

「とにかく時間がありません。私に付いてきてください」

「今何時?」

「九時二〇分です」


 約束の時間は九時半だ。


「……急がないと!」


 早歩きの宮原さんに手を引かれて案内されたのは、メイドさん用の更衣室だった。

 どうして更衣室? そんな疑問はすぐに解消されることになる。


「季見歌様のために準備させていただいたものがございます」


 宮原さんが手に持ったのは、黒と白を基調としたエプロンドレス。ひらひらとしたフリルが可愛らしいそれは、宮原さんが着ているものと全く同じだ。


「メイド服ですか……?」

「変装に役立つと思いまして。――お着替え、手伝わせていただきます」

「そんな……。私を逃がすためにこんな準備まで……」


 サイズが合うか心配だったけど、帯を締めてみると、寸分違わず腰にフィットした。まるで採寸されていたかのような着心地。私のために大急ぎで寸法を合わせてくれたのは間違いない。宮原さんが見せてくれた心遣いに鳥肌が立った。


「窮屈なところはございませんか?」

「完璧よ。ありがとう」


 彼女は小さなリュックサックも持たせてくれた。


「そしてこちらは生活用品です。歯ブラシ、着替えなど、最低限必要そうなものをいくつか詰めさせていただきました」

「宮原さん……。ほんとうにいろいろなことまでありがとう……」


 宮原さんは私の髪を慣れた手つきで纏め上げて、頭にメイド用の白いリボンを結ぶ。鏡に映った私の姿は、まるで別人。どこからどう見てもメイドさんだった。

 これなら……あの会場に紛れ込める!


「完璧ね!」

「完璧でございますね」


 ふと、鏡の端に気になるものが目に入った。

 石鹸やフレグランスの詰め替えが纏められた箱の中。

 その中に、見覚えのある容器を見つけた。――白奈が欲しがっていた、エルソークのハンドクリームだ。初めて会ったときの化粧室で、ワンプッシュ何円と言って喜んでいたのを思い出す。


「宮原さん。このボトル、一本頂いてもいいかしら?」

「ハンドクリームですか? 荷物になりますよ?」

「大事なものなのよ」

「もちろんです。お嬢様がそうおっしゃるなら」


 私はその容器をメイド服のポケットの中に仕舞った。


「――宮原さん。いままでずっとお世話になったわ」


 宮原さんの肩に抱き付いた。


「季見歌様。残念ですが、私がお手伝いできるのはここまでです。地上に降りてもどうか息災で」

「宮原さんこそ。このお礼はいつか必ず……!」


 抱擁を解いてからも名残惜しく立っていると、立花さんにポンと背中を押された。


「ほら、季見歌様。時間がありませんよ」


 時計を見ると、九時五分。約束の時間を五分オーバーしていた。



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「季見歌! 助けに来たよ!」


 お手伝いさん用の控え室から、上階の化粧室に飛び込む。そこにはタキシード姿の白奈が待っていた。


「来てくれたのね、白奈!」

「あたりまえでしょー」

「その格好どうしたの? 」


 白奈が着ていたのはドレスではなくて、黒いタキシードだった。


「動くからだよ。ヒラヒラした格好だとマズいの。季見歌こそ、どうしてメイド服なんか着てるの?」

「話すと長いわ」

「じゃああとで話そう! 今は時間がないっ」

「ねえ、クレマンスはどこ?」

「下で待ってるよ。地上に降りたら、季見歌はクレマンスのバイクに乗るの!」

「了解よ! ……これ、白奈が欲しがってたハンドクリーム。地上に降りたら使って」


 ポケットの中に入れていた容器を白奈に手渡した。


「あ! 私がずっと欲しかったやつだ! ありがとう♪」白奈が満面の笑みを浮かべるのを見て、私まで嬉しくなる。「まさか、日に手に入るなんて思わなかった」

「喜んでくれてよかっ……まって、いま何て?」

「なんでもないよ?」


 慌てて誤魔化される。聞き捨てならないことを言ったような。


「いま、死ぬかもしれないって言ったわよね。……命の危険があるの?」

「平気だよ。普通に生きていたって、明日心臓発作で死ぬかもしれないんだから。人生ってそういうものでしょ?」

「そうかしら」

「大丈夫だよ季見歌。安心して私に付いて来て?」

「不安になってきたのだけど……」

「平気平気! 休憩室にある非常口から逃げるよっ」

「非常口? そんなのどこにあるの?」

「知らないの? ダンスホールに付属している〈休憩室〉にあるんだよ」

「休憩室に非常口があるなんて聞いたことないわ。どうして貴方がそんなこと知っているのよ」

「東京まで行って、国会図書館で建築時の図面を見たんだ」

「わざわざ東京まで行ったの⁉︎」


 ものすごい手間を掛けて準備してくれているのが伝わってきた。

 人は考える時間があればあるだけ冷静になるんだから、大丈夫。

 突拍子もなかったり、滅茶苦茶な計画なんかじゃない……はず!


「行くよ。時間がないっ」


 白奈は私の手を引いて、化粧室を飛び出した。


「ああ、そのバッグもここに置いていって」

「え? でも、必需品が入っているのよ」

「地上で何でも調達できるから、全部置いていって。なるべく軽くしなきゃ危ないの!」

「危ない?」

!」

……⁉︎」


 何を“やる”のかしら。

 不吉な動詞だ。

 せっかく宮原さんに用意してもらった地上での生活キットだけれど、白奈の言いつけに従って控室に置いていった。


 正直、不安だらけだったけど、ここまで準備してもらっておいて後戻りはできない。

 タキシード姿の白奈に手を引かれながら螺旋階段を下って、下階に降りた。



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 ダンスホールに出ると、優雅なワルツの演奏が聞こえてきた。

 私たちは手を繋いで、紳士淑女たちがステップを踏むダンスホールを堂々と横切る。階段から大広間を隔てて対角線上にある休憩室扉を開けると、暗い部屋にたどり着いた。


「間違いない。この部屋が〈休憩室〉だよ」

「……初めて来たわ」


 休憩室は、微かにタバコの臭いがした。たぶん休憩室というのは隠語で、本来は喫煙室のことなのだろう。今はダンスパーティーが一番盛り上がっている時間だからか、人影はない。


「非常口ってどこ?」


 私は非常口とやらを探した。きっと、非常口というのは災害でエレベータが止まったときに地上に降りるため、螺旋階段か何かに繋がっているのだろうと思っていた。

 螺旋階段で五〇〇メートルも下るのは大変そうだなぁ……なんて杞憂しながら。


 だから、白奈が指し示した場所を見て度肝を抜かれた。


「ええーっと、この窓だ!」

「窓……? 窓で何するのよ……」


 白奈は窓の取手に手を掛けた。その窓には「非常用レバー」という表示のほか、諸々もろもろの警告が書かれている。不吉である。


「白奈。〈開けるなキケン〉って書いてあるわよ?」

「ねえ、季見歌。季見歌って高所恐怖症じゃないよね?」

「高いところに住んでいるから大丈夫だけれど……。質問の意図を聞かせてもらってもいいかしら?」


 地上五百メートルにもなると、あまりに風が強いので基本的には窓を開けるだけで大変危険。というかほとんど自殺行為である。

 だから、バルコニーなど存在しない。


 白奈はおもむろに窓の非常用レバーを回す。

 窓は、まるで溶接されているかのように重たそうだった。

 しかしいったん開くと、勢い良く全開になる。

 室内から外へ向かって、まるで嵐のような強風が吹き荒れた。


「完璧。じゃあいくよっ。覚悟はできた?」

「何をするつもりなの?」


 白奈はタキシードのジャケットとワイシャツを脱いだ。ワイシャツの下には、ベルトで括り付けられたバッグが隠れていた。

 私の後ろへ回り込み、腰のベルトを延伸して、私の腰にも括りつける。


「――なに? 本当に何をするつもりなの?」

「わかるでしょ?」

「わかっちゃいけない気がするのよ」

「季見歌。なんにも心配いらないからね」

「全く信用できないのだけど⁉︎」

「大丈夫。どっちに転んでも苦しまないから!」

「苦しめないんじゃなくて⁉︎ デッド・オア・アライブってこと⁉︎」

「だって、ここに閉じ込められるくらいなら“死んだほうがマシ”なんでしょ? 季見歌がそう言ってたから、助けに来たんだよ。チャレンジしてみようよ♪ 勇気を出して、全部変えよう?」


 ええ、ここから落ちたら全部変わってしまうでしょうね。たとえば、私という存在が肉片に変わってしまったり……いや、五百メートルから落ちると、肉片も残らないのかしら……。


「命を無駄にしたくて言ったわけじゃないわ!」

「落下位置まで計算したから平気だよ♪ 覚悟はできた?」

「出来てない!」


 必死に止めようとするが、窓から吹き入る強風が、私の返事を掻き消してしまった。


「テン・カウント始めるよ! ――スリー、ツー……」

「テンカウントじゃないのっ⁉︎」


 そのとき、喫煙室の扉が勢いよく開く音が聞こえた。私は嫌な予感とともに振り返る。


「お嬢様――‼︎ 何をしていらっしゃるんです⁉︎」


 鋭い叫び声がした。そちらには、鬼の形相をしたメイド服の中年女性が立っていた。


「津毛……さん!」



     ★✴︎✳︎*✳︎✴︎☆✴︎✳︎*✳︎✴︎★✴︎✳︎*✳︎✴︎☆✴︎✳︎*✳︎✴︎★



「何をしている‼︎ お嬢様を離しなさい――――!」


 津毛さんは顔中の皺を寄せた般若のような形相で叫んできた。


「嫌だ」

「お前の目的は何だ? お嬢様を殺しにきたのか⁉︎」

「そんなわけないでしょ! 助けにきたの‼︎」

「馬鹿者っ! 妄言もいい加減にしろ‼︎」

「馬鹿はどっちよ! 季見歌を散々傷付けておいて!」


 白奈は温厚だと思っていたけれど、本気で怒鳴るとかなりの迫力があった。


「お嬢様‼︎ この者はお嬢様を傷付けるつもりです‼︎ お戻りになってください‼︎」

「傷付ける? 傷付けてるのはあんたでしょ? あんたに季見歌を守る資格なんか無い。私が貰っていくから! ――季見歌、飛び込むよっ。息止めて!」

「させないっ――――‼︎」


 津毛さんが猛烈な勢いで走ってきて、その野生動物のようにたくましい腕を伸ばした。私は先ほどまでの恐怖なんか忘れて、飛び込むために膝をしなやかに曲げた。

 教育係の指先が追いつく直前、私と白奈は示し合わせたように同時に床を蹴ると、身体が空中に投げ出さた。ふわりとした浮遊感が襲う。


 このまま逃げられる! ――と思ったが、そうは問屋が卸さなかった。

 突如、私の右腕に、ムチで思い切り叩かれたような衝撃が走ったのだ。


「――させるものかっっっ‼︎」


 恐るべき勢いで肉薄した津毛さんの左腕が、私の二の腕を掴んだ。そのまま、二人分の体重を片手で支え、あまつさえ引っ張り上げようとする。私は引き剥がそうとして藻搔いたが、その指は梃子のように重い。さすがは元ニューヨーク警察の腕。ものすごい怪力だった。


「縛って叱るだけのあんたの役目はもう終わり! 私が季見歌をさらって宝物みたいな思い出を作ってあげるの」

「お前のせいで季見歌様が積み上げてきたものを壊させるわけにはいかない! ――お嬢様‼︎ 私がこの者からお嬢様を守って見せます!」

「違う。全部あんたのせいだよ! あんたが季見歌に「いっそ死にたい」なんて言わせておいて、「守る」なんてどの口が言えるの?」

「死にたい、ですって……⁉︎」


 津毛さんの目には驚愕の色が浮かんでいた。真偽を確認するかような視線を私に送ってくる。


「嘘をつくな! お嬢様がそんなこと仰るはずがないっ!」

「言ったわ」


 津毛さんは、目を大きく見開いていた。


「ここに居るのなら死んだ方がマシ。もう貴方に閉じ籠められるのは沢山だわ。私はこの子と一緒に逃げるの!」


 その瞳が揺れ、明らかに動揺している。


「季見歌っ! 津毛を振り払って!」


 津毛さんの隙は、今しか無いと思った。

 私はステーキを齧るときのように口を大きく開き――津毛さんの左手の指に思い切り噛み付いた!

 口の中に鉄臭い血の味が広がるとともに、津毛さんが鋭く悲鳴を上げる。二の腕を掴んでいた津毛さんの手が離れ、自由落下が始まった。


「――あはははははは。――やるじゃん季見歌‼︎」

「――笑いごとじゃないよぉぉぉぉぉ‼︎」


 下から上へと高速で移り変わっていく景色。

 ブォォォォォォォという轟音が鼓膜を揺らす。


 落下による強烈な風圧が、メイド服のスカートをバタバタとたなびかせ、巨大なドライヤーで吹かれたように髪をばさばさと暴れさせた。下から上へ吹く風が身体を打つたび、容赦なく体温を奪う。今は真夏だというのに寒さで凍えそうだった。

 風圧が強すぎて、まともに眼を開くこともできない。


「「――キャァァァァァァァァ‼︎」」


 二人の叫び声が縒り縄のように交差して響き渡る。私の絶叫はまるで断末魔のようだが、白奈の声色はどこか楽しげですらあった。

 落下速度はどんどん加速していったのにも関わらず、落下中の時間は実際の何倍にも引き延ばされて感じる。人間、生命の危機を感じると時間の流れが遅くなるのだと知った瞬間だった。


「白奈! パラシュート開いて!」

「まだ早い!」

「……まだ⁉︎」

「もう少しっ!」


 地面が近付くにつれて、ミニチュアのようだった金沢の街がどんどん大きくなっていく。


「もうだめっ! 地面にぶつかるよぉぉぉぉぉ‼︎」

「――いまだっっっっっっっっ‼︎」


 バサッという音が聞こえ、胴に巻いたベルトがお腹を激しく締め付ける――同時に、吹きつける暴風が一気に止んだ。

 パラシュートが開いて落下が遅くなったことで風圧が止み、ようやくまともに目を開くことができた。


 そのとき、私は目の前に広がっていた光景を信じることができなかった。視界一面を埋め尽くす、宝石箱を覗いたような光粒。


「綺麗……」


 命の危機だというのに、思わず嘆息が漏れる。


「これ、綺麗なの?」


 五百メートルも遠く離れた場所からしか見たことがなかった金沢の街が、すぐ目の前にある。それはまるで別世界のようだった。

 私に見えているものを話すと、普通に地上に暮らしている人にとって奇妙に聞こえるかもしれない。

 十年ぶりに見る木は、人間の何倍も大きい。公園はダンスホール何個分ほども広くて、端から端まで歩くのに何分も掛かりそうだ。五〇〇メートル上からはLEDのライトより小さく見えていた建物の光は、その一つ一つを近くから見ると人が暮らしている部屋から発されていたものだった。地上の世界のあまりのスケールの大きさに、身のすくむ思いがする。


「金沢ってこんなに綺麗なのね」

「普通の人はダンスホールのほうが綺麗って思うんだよ」

「そうなの?」

「人間って不思議だねー。慣れてないものに魅力を感じるみたい。――あっ! クレマンス見つけたよ!」

「どこ?」

「ほら、あそこ! 長陸公園の端っこでライトを振ってる人! きっと私たちのパラシュートもクレマンスから見えてるよ。このまま行けばあのあたりに着くねっ。クレマンスの計算通り!」


 クレマンスは二日かけてパラシュートの進路を計算してたんだー、と自慢げに言う白奈は、まるで自分が計算したみたいに誇らしそう。思わず笑ってしまう。


「その計算ってほんとに信用できるの?」

「クレマンスは物理と数学のテストで一点も取りこぼした事ないんだよ」


 落下地点や瞬間風速の計算にはカオス理論が関わってくるから、現代のスーパーコンピュータでも正確な計算は難しいと思う……なんて、パラシュートでの落下中に言えるはずもない。

 クレマンスがいくら頭がいいとはいえ、最新のコンピューターを超える計算ができるはずはない。なんて思っていると……


「だから安心して! 狂いなんか起こるわけが……―――キャアアアアアアアアアア」


 世界が横に揺れた。突風が襲ったのだ。パラシュートの軌道が変わり、大きく右に逸れる。


「――白奈! この突風も計算の内だったの⁉︎」

「……さあ」


 目の前には、長陸公園の巨大な沼が見える。

 視界に映る沼はどんどん大きくなっていく。やがて目の前で、視界いっぱいを埋め尽くすほどに――


「白奈! このままいくと沼に落ちるわよ⁉︎」

「まだわからない」

「ほら、やっぱり落ちる!」

「クレマンスの計算は……」

「ぜったい落ちるって‼︎」

「――やばい‼︎ 息止めてーーーーーっっっっ‼︎」


 白奈はそう叫びながら、私の


「 「―――イヤアアアアアアッッッッッッ……」」


 私たち二人は勢いよく沼に突っ込み、派手な爆発音をたてて水面を叩いた。落下するパラシュートの重みにつられて、沼の中に引きずり込まれる。


 水中で大きな泡がブクブクと弾ける音がする。息ができなくなった。

 必死に脚をバタバタさせて足場を探すが、どこにも当たらない。ここは人の背丈より深い沼のようだ。


 背中の白奈が重くて、バランスも取れない。腰に巻いた金具の重みで、私たちはどんどん下に沈んでいった。


 まずい……このまま金具が外れないと溺死するわ! ――溺死は数ある死に方の中で、最も悲惨なうちの一つだと聞いたことがある。肺の中に水が入るのは、胸の奥がバーナーで炙られるような痛みだという。肺がバーナーで炙られないよう、必死に息を止める。


 白奈が私の腰に手を回し、がちゃがちゃといじっている。二人揃って溺れ死ぬだろう。


 ―――白奈! 急いで!


 運動時の酸素使用量は安静時の四倍にもなる。

 水中で無闇に身体を動かせば血中けっちゅう酸素濃度が下がって意識が混濁こんだくするから、身体の動きは最小限にするのがセオリーだ。それでもやっぱり苦しくて、無意識に首の周りの水を藻掻もがいてしまう。突然空気を奪われて冷静になんかなれない。


 口から漏れた大量の泡が水面に向かっていくのとは対照的に、私たちは下へ下へと沈んでいった。


 腰のあたりから「ガチャンッ」という爽快な音が聞こえ、白奈の身体が背中から離れた。

 拘束が解けた! これで動ける!


 身体を捻って、即座に水面を目指した。しかし、水面に顔を出そうとしても、何か膜のようなものに妨げられて息が出来ない。手探りで感触を確かめると、それはパラシュートだった! パラシュートが水面を覆って、息継ぎすることができない。


 両手で引っ掻いて退けようとするけど、パラシュートは水草に絡まっているせいでほとんど動かせなかった。


 私はパラシュートの一端を掴んで、体重を掛けてスルスルと水中に引き込む。時間がかかる方法だけど、これしかない。もうすぐにでも意識が途切れそうなほど、身体は酸素を欲していた。


 そのまま永遠に近い時間、パラシュートを引っ張っていたような気がする。実際には三十秒でもなかったのだろうけど、身体が酸欠状態になっているせいで、時間がひどく引き延ばされて感じた。何回引いたか。ようやくパラシュートの端っこを掴むと、ついに波立つ水面が姿を現した。頭上に公園のライトが光る。


「――――――ぷはぁぁぁぁっっっっ‼︎ はぁ〜〜……はぁ……。」


 大きく肺に空気を取り込んで、吐き出す。そのまま二回深呼吸した。

 危険域に達していた脳に酸素が周り、混濁しかけていた意識がハッキリと戻ってくる。


(はぁ……。なんとか生き残ったわね……)


 身体を動かして岸まで泳ごうと試みたけれど、大量の水を吸った服が重すぎてまともに進まなかった。


 服を着た状態で泳ぐことを着衣泳ちゃくいえいという。護身術としてのスイミングを習う場合、必ず習う項目だ。

 水着で泳ぐ場合と、普段着を着たまま水中に放り出される場合とでは、勝手が全く異なるため、いくつか特別なセオリーがある。

 まず、冷静になる必要がある。無闇に動けば動くだけ体力を消耗して、溺れるリスクが上がる。また、水中では服がへばり付くため服を脱ぐのは悪手だ。体温を保つためにも、服は着たままの方がいい。

 そしてなによりも、着衣泳では水の抵抗が大きすぎて身体が動かせないため、泳ぐことより浮くことを優先したほうがいい。無理に泳ごうとすれば溺れる。


 私はパラシュートの端に空気を溜めて浮き代わりにして、水面に顔を出し続けた。

 乱れた呼吸を整えるうちに、身体から失われていた感覚が戻ってきた。

 首を振ってあたりを見回す。


 弱々しい街灯が照らす公園は、不気味なほど静かだ。


 ここが夢にまで見た地上……。木の葉が擦れる音が、猛烈に懐かしかった。十年ぶりに聴こえる音……。

 私はこの感動を白奈と共有しようと、周囲を探したが……どこにもその姿が見えない。


(……あれ?)


「……しろな?」


 広い沼で、水面に顔を出しているのは私だけだった。


 顔からサッと血の気が引いた。体感では二分くらい水中に居たはずだ。二分というのは、息継ぎ無しでは絶望的に長い時間……。

 ガラガラになった喉で、必死に叫び声を上げる。


「―――っし……白奈? 白奈ーーーー⁉︎ エホッ、エホッ……。……ねえ、嘘でしょっっ⁉︎」


 まさか……溺れたの⁉︎

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