第六話 篝火
仏間では、石川久智が退出したのを機に次々と家来衆たちが姿を消していた。五郎兵衛は何も言わず、目をつぶったまま仏像と対座し直している。その隙を狙い、盗人のようにもの音も立てず、何人もの家臣が雨の夜に消えていった。
しかしそれでもなお、上田阿西をはじめとする二百名ほどの兵士たちは、断固として帰ろうなどとはしなかった。
「弱腰な者どもめ、家親公の恩義を忘れたか!」
憤る阿西に対し、政親はどうにかこの男をこの計画から降りさせるよう口を開いた。加えて阿西がこれに加担すれば、中々に面倒なことになることも政親は危惧していたからだ。
「しかし上田殿、お前はゆくゆくは、当主となる千竹丸様の弟君・梅丸様を養子に迎えることになっているだろう」
「ああそうじゃ! それがどうした!」
「わからんか。そこまで家親公から認められていたお前のことを、家中では評価する者も少なくはない。特にあの親成兄者ですら、それは認めているのだ」
阿西の仁王のような目が見開かれた。よもやあの親成が、そう思っているのは阿西だけではああるまい。
「お前は既にただの力馬鹿じゃない。三村の大事な重臣の力馬鹿だ。今お前にいなくなられてしまうのは、三村家として大きな痛手となる」
加えて阿西が加われば、それに乗じて今より多くの国衆や家来衆が参陣し、収拾がつかなくなる恐れがある。五郎兵衛は政務や戦場以外では隠居同然の生活をしているため家臣らに好かれることが多かったが、阿西は領民たちにすこぶる好かれていた。実際、政親は阿西が加わることを最も危険視していたのである。
「今、お前にいなくなられては困るのだ。兄者もそう言っている」
「……あの孫兵衛(ちかしげ)がか?」
阿西の疑うような視線の中には、少しだけ嬉し気な表情も見えた。
「兄者が素直でないことは、昔からよく知っていることだろ」
阿西は考えた。腕を組み、胡坐をかき、達磨のような顔になって考えた。そして、この自分にただ一言「そんなこと気にするな、来い」と言ってくれない五郎兵衛を恨めしく思った。この場でもし五郎兵衛が自分に従えと命じれば、すぐにでも出立するつもりなのだ。心の中ではそれを望んでいる。死ぬのが上策でないことくらいわかっている。それでも五郎兵衛や家親を本当の父兄のように幼い頃から慕っていた阿西にとって、彼らの想いを踏みにじってしがみ付くほどに、俗世とは価値あるものではなかった。血管を浮き出させ、滝のように汗を流している。羽蟲が顔に止まったが、それを払うこともせず地蔵のようになっていた。そしてしばらく後「できぬ」と蹲った。
「わしは爺様に恩義がある! 阿呆な子供じゃったわしを、たくさん食う子は強う育つからと気にかけてくれたのは爺様じゃ、見捨てられる筈が無かろう!」
「阿西」
岩のように険しい顔をしていた五郎兵衛が口を開いた。
「お主、今『見捨てる』と申したな」
言葉の意味が分からず首をかしげる阿西に、五郎兵衛は続ける。
「見捨てるというのは、儂がこの弔い合戦にて命を落とすと思うておる証。負けると思うておる証。勝てぬと思って戦場に立つ将など不要じゃ」
仏像を背に、五郎兵衛は冷たく阿西を見下ろしていた。そして、いよいよ出立しようとした時、政親は思わず五郎兵衛の足を掴んだ。子供のように涙を浮かべる政親に、老将は好々爺の笑顔をもって応えた。そして、政親の耳元でなにやら囁く。他の者には聞こえなかったが、政親はそれに目を丸くして、とうとう堪えていた涙をほほに伝わせた。
「世話になったのお」
五郎兵衛はそれでも怯まなかった八十名ほどを連れて出立した。政親は拳を何度も叩きつけ、いつまでも仏間で泣き続けた。その隣には阿西もいた。
雨は止んだ。月光が街道にできた水たまりを白く濁らせている。闇に沈んだ鶴首の城が遠ざかっていく。五郎兵衛の一党は、松明を手にひたすら東へ向かった。目指すは宇喜多直家の居城・亀山城である。
五郎兵衛の馬を先導する配下が一人、足を止めて前方に広がる暗闇を指差した。
「何者かおりまする」
見れば街道に人影がある。こっちへ向かってくるその人物は甲冑を着ているらしく、金属同士がぶつかる音をたてていた。人影の足元、膝、胴、首、と順に松明が炙り出してゆく。そして浮かび上がったのは少年の顔だった。松明の火が彼の瞳の中で、燃える星のように橙色を映している。
「……千竹、何故ここにおる」
小さな手には家親の短刀が握られている。
「五郎爺様、千竹も行きとうございます」
「青柿め。それを着込む時間稼ぎに、政親を謀りおったか」
千竹は首を横に振り、五郎兵衛の背後で平伏す八十余名に目をやった。
「いえ。叔父上に皆様の決起を止めていただきたかったのは、本心です。……それでも兵を挙げようとした者だけと、亀山へ向かうつもりでした」
今頃政親は屋敷に千竹が居ないことで慌てていることだろう。この小僧、政親が必死に五郎兵衛たちを説得している間に戦支度を整え、こうして待っていたのである。
「戦に加えろとは申しませぬ。私は本当の戦というものをまだ知りませぬ。是非五郎爺様にご教示願いたく思います。此度、それを見極めたく存じます」
五郎兵衛は千竹を拒むことはしなかった。
馬上で皆を先導する五郎兵衛の後ろを、千竹は同じく馬に乗って追従した。八十余名全員が三村の「剣片喰」の紋を旗にさし、夜の波に漂わせている。星すらも見えなくなり、街道は益々一行を飲み込んでいく。そのまま歩を進めていくと、どこからか琵琶の音が寂し気に聞こえてきた。それに交じって、念仏のような声も耳に入ってくる。
街道の隅に古い茣蓙が敷かれ、そこに僧衣を纏った老人と、背後に控える若者があった。琵琶法師のようで、平家物語を語っているようであった。
「これ」
五郎兵衛が殺気立った顔で馬上から彼らを見下ろした。琵琶の音がぴたりとやんで、老僧が顔を上げる。一行の松明に照らされて、僧の顔の明暗がくっきりと表れる。もうすでに、枯れ枝のような翁だった。顔の肉は剥がれ落ちたようになっていて、目の周囲や頬に影が落とされている。まるで髑髏のようである。
「……戦」
鼻をひくつかせた老僧は、花の名を告げるようにぽつりと残した。
「何ぞ、戦がおありになりますのかな」
「然様なことは良い。何故このような時分に琵琶法師がおる。もしや宇喜多の刺客ではあるまいな」
琵琶法師は、歯の隙間から息を漏らすようにして笑った。
「ヒヒ、目がこれでは、お荷物になるだけですぢゃ。ここらは夜になると墨を零したように何も見えぬ故、こうしてここに座って、商いついでに旅人などに道を教えてやるのです」
「……近頃、三村領は野盗が多い。気を付けよ」
「あい、あい」
五郎兵衛の一行が、二人の前を通り過ぎていく。千竹丸は妙にこの二人が気になって、しばらく進むことも忘れて彼らを気にしていた。
老僧の方は六十はとうに過ぎているであろう様子で、皮が骨にへばりつき、どうにか生きているといった風である。頭は錆茶釜のように毛の一本も生えてはおらぬ。
若者の方は口元を布で覆い、薄く開かれた瞼の奥で自分をしっかりと捉えている。そして腕には貴族の衣装を着た人形が一体、大事そうに収まっていた。
徐々に二人が闇に溶けていく。一行と距離が離れてしまったのである。慌てて追いかけようとしたところ、再び老僧が口を開いた。
「死にますな、あの老人」
老人といえば、五郎兵衛を置いて他にいない。
「ヒヒ、あの息遣い、臓腑に病を抱えておる。そして馬から降りてこちらへ歩くとき、右足が弱々しかった。……あの身体では、一月と持たぬであろう」
次いで若い男は人形をカタカタと動かして「ケンギョウ様ノオ耳ハ、オ見通シデオジャル」と裏声を出した。その間、人形は顎を無気力に上下させられていた。
「お主も、お気をつけなされ。どうやらあのご老人、かなりご無理をされておる様子。……おお、お主の心音も大きくなりよる。願わくば、この若者まで死ぬことの無いように、死ぬことの無いように……」
影は深まり、ほとんど二人が見えなくなる。慌てて振り向くと、一行はすでに闇の奥深くまで入り込み、姿は見えなくなっていた。
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