第二話 家親暗殺
「怖くなどあるものか」
そう呟いた遠藤又次郎の指先は、小さく震えていた。
葉の抜け落ちた細枝の隙間を粉雪が縫っていく。とっぷり夜に浸かり、雪を鏤められた美作はmonochromeの世界に沈んでいた。小さな山の頂を彩る松明の赤が、その世界で唯一の色だった。それに照らされた湿った門と兵士の影は、獄門と獄卒のようである。本来であれば、ここは仏を祀る寺院であるはずなのに。
興善寺の境内は、まるで縁日のようであった。雪の中にあっても兵士たちは酒盛りを楽しみ、一人残らず血生臭かった。彼らこそ、ここ数日で隣国の城を次々に陥落させた無敗の軍隊である。その殺気は門の外まで漏れ、羅城門と云わんばかりの風格で風雪に耐えている。しかし覗いてみれば、灯篭に火がともり、人々は酒気を吐き騒いでいる。又次郎は隠し里とはこういう情景であろうか、と考えていた。彼らの愉楽に酔う様は、雪を桜の花弁にしてみせた。
又次郎の背後には、弟の喜三郎がいる。二人は流浪の民であったので、こうして美作に来る以前は備州と讃岐、阿波をを転々としていた。この頃、中国地方は毛利、尼子、宇喜多、そして三村といった有力大名たちが混在しており、小さなものも含めれば、常に戦が絶えぬ有様である。中には又次郎たちのように紛争の都度そこに出向き、雇い主から貰った金で生きていく者たちもいた。今さら家族を残して戦地へ出向いた者を殺め、その首を持ちかえって褒美に換金することに、何の抵抗感もない。そういう世の中だということを彼らはよく知っていた。
その又次郎が、死者のような顔色で小刻みに震えている。彼は泥で汚れた黒い甲冑の下に、ここ一番という日に着るための藍色の直垂に袖を通していた。初めて人を殺した戦でも、これほど恐ろしく感じはしなかっただろう。喜三郎も熊のような巨体を小さく振るわせて、兄の背を追っている。彼は兄より濃い藍色の直垂の上に鎧を着込み、その上には妻が黒熊の毛皮で拵えた胴服を羽織っている。毛先には雪が絡まっていた。
宴の席で誰かが楽器を演奏し始めた。笛の音は風で良く聞こえないが、小鼓は怖いほどよく聞こえた。そしてその都度、二人の心臓は揺れ動いていた。此度の雇い主、宇喜多直家は殊に、鼓が好きであった。
直家が唐突に二人を参らせた時も、隣に鼓を叩く家臣の姿があった。直家は紅衣の上に、金の刺繍が入った黒い肩衣で、刃で削がれたような頬をしていた。
「この前の戦で、幾つの城が落とされたか」
この日、直家は宇喜多方に味方した諸将を労うために、と宴を催していた。その目的は、彼らの妻子を自分の支配下に置くことにあったと思う。二人に、備州ではあまり普及していない短筒を差し出すと彼は、にこ、と笑った。
「分かるな、行って来い」
もし断れば……と、直家が言ったわけではない。しかし、その意図は十分に二人に伝わった。怯える獣のように二人は平伏し、服従した。
鉄砲による暗殺。彼らに初めて与えられた任務であった。
標的は、今朝まで宇喜多側の城を次々と陥落してくれた三村軍の大将・三村家親。毛利家の庇護の下、国衆に過ぎなかった三村家を備中一の勢力に育て上げ、今や美作・備前にまで攻め上らんとする猛将である。
「もし」
又次郎の声が震えていたのは、寒さのせいだけではない。
「御屋形様に言伝がござる。今は何処へおられるかな」
話し掛けられたのは、津田与左衛門という足軽であった。寒さで赤くなった鼻を小手で擦り、大きなあくびをした。
「今は本堂にて、明日のための軍議を開いている最中にござる。案内いたそう」
「助かります」
夜の底に、与左衛門の吐いた息が白く残っている。背負った種子島が冷たい石段を上るたびに重さを増していった。徐々に大きくなる本堂の影は、さらに二人の恐怖心を煽った。平気な顔をしているのは、与左衛門だけである。本堂は空へ甍を並べながら闇の中に沈んでいた。
「あちらでござる。今、取り次ぎ役の者を呼んで参ろう」
「いえ、ここで結構」
「左様か。……ところで、どちらの御家来衆かな?」
酔いがあらかた醒めた与左衛門は、二人の甲冑が自分たち三村軍のものとは異なることに違和感を感じたのだ。しかし、ここには三村家の他に荘家、石川家、金光家といった国衆達の軍も混在しているため、不審は思っていなかった。二人もまた、それを承知で来たのである。
また与左衛門があくびをした隙に、喜三郎の大きな掌が喉を握りつぶし、続けて短刀を突き刺した。暴れる与左衛門を喜三郎が抑えている間に、又次郎は種子島を下ろし「宇喜多でござる」と告げた。必死に自分を殺そうとする男、それを最期の光景に、与左衛門は絶命した。
すぐに喜三郎の太い腕を、又次郎が慌てた様子で掴んだ。「引き摺るな。雪に跡が残ってしまう」と視線で訴え、弟がそれに従い骸を椿の垣根の裏へ隠したのを見届けると、腰に差した短筒に手を取り、眼を鷹のようにした。
兄弟は顔を見合わせ、兄は賽銭箱が片付けられている出入り口の階段下に潜み、弟は本堂の裏へ回った。出入り口は正面に一つだけ。正面の戸を開かせ、その隙に家親を狙撃するのである。
喜三郎の大きな声が合図となる。その間、又次郎は標的家親のことを思い出していた。かつて又次郎たちが毛利家に雇われた時、顔を合わせたことがある。だからこうして刺客に選ばれたのだ。
家親は清々しい男だった。鬼のような顔をしていたが、楽しいことや面白いことがあると心の底から「むわつはつはつはつ」と大声で笑った。家族を愛し、彼らを守るために戦う家親は、又次郎も嫌いでは無かった。一瞬、又次郎の脳裏に恐ろしい考えが過った。すなわち急いで喜三郎に計画の中止を訴え、このまま美作から逃げる。もしくは、軍部に全てを告白し、三村勢として宇喜多を討つ。家親は話の分からない男では無い、正直に話せば自分たちを家臣として召し抱えてくれるだろう。
刹那、彼に浮かんだのは妻が我が子を抱える光景であった。今年の夏のことだ。自分は安い酒を飲みながら、襤褸屋敷で満月を見上げていた。
「旦那様、この子が大きゅうなったら……」
「昨日もそんな話をしたではないか」
「また別の話です。名前はなんといたしましょう?」
「気が早いにも程があるだろう」と笑う又次郎に、妻は少し不機嫌な様子で「大事なことじゃございませんか」と子を抱く力強めた。
「そうだな。秀清の秀の字と、俊通の俊の字で、秀俊。どうだ?」
「安直」
「うるさい」
気付けば自分は火縄に着火し、火薬を銃口へ詰めていた。雪の中、必死に妻と子に懺悔しながら殺人の支度を進めた。息が荒くなる。生きようとしている。
「それに」と椿の垣根に視線を移す。津田与左衛門の血眼と黒ずんだ雪は「もう後戻りは出来ないぞ」と語りかける。
喜三郎、お前は向こうで何を考えている。誰を想っている。出来ることなら、お前の声を聞きたくない。手筈通りの台詞を聞きたくはないのだ。
その刹那。
「伝令。北面より宇喜多勢、奇襲にござる」
喜三郎の声だった。その声に最早怯えは無く、風雪を裂く銅鑼のようであった。
本堂は床下からも分かるように動揺が走っていた。そして又次郎の頭の上を、幾つもの足音が殺気と共に通りすぎて行った。
ここからは、何かを考える余裕は無かった。
階段下から飛びだすと、本堂の一番奥に、動じず座っている武将が見えた。
――
確信と共に引き金を引いた。
発砲音と共に耳鳴が頭へ響く。又次郎は硝煙を出す短筒を赤ん坊のように抱きかかえ、走った。撃った後、家親がどうなったかなどは、気にしてられなかった。本堂の裏には、塀によじ登った喜三郎がいた。
「兄貴、三村殿は!」
「撃ちはした。だが殺せたかどうかは……」
喜三郎は「取りあえず、早く逃げよう」と縄梯子から飛び降り、夜の闇へ消えて行った。又次郎もそれに続いて、興善寺の外へ転がり出た。
必死に走った。血がむせ返りそうになりながら、必死に寺院から遠ざかった。今となっては、三村家親の安否も彼を狙撃したこともどうでもよかった。ただ妻子の顔を見たい。例え仕留め損ったことを咎められ、直家に罰せられるとしても、彼らの顔を見てから死にたい。どちらもがそう思っていた。
ふと、違和感を覚えた。
なぜ、こんなにも静かなのだ。
自分たちは敵地に潜入し、成否はともかく大将を狙撃した。それなのに、興善寺は一切動じず、相変わらず門を閉じたまま闇と雪に沈んでいる。引き返して様子を確かめるようなことはできないが、先程喜三郎がああして怒鳴ったにもかかわらず、寺内の宴はまだ続いているらしく風に紛れてその音が運ばれてくる様は、どうにも無気味であった。
二頭の獣のように体勢を低くして美作の山を駆け下りると、又次郎は手頃な木に猿のようにするすると登った。
「流石に破竹の三村軍よ。短筒如きでは怯まんか」
舌打ちをしかけたその時。彼の脳裏を過ったのは、宴の声と鼓の音。
そうだ。ならば何故、未だに宴を開いているのだ。明日にでも彼らは、宇喜多の城を再び落としに来る。そんな中であの騒ぎがあったのだから、今すぐにでも兵を差し向けられるように態勢を整えるはずではないか。
「もしや」
犬歯を剥き出しにして笑みを浮かべる樹上の兄を、喜三郎は見つめていた。そして悲しい顔をして、白と黒に埋もれて行く三村軍に背を向け、兄と共に去っていった。
二月七日。
戦国大名三村家の崩壊は、この日から始まっていく。
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