4-2
朝の散歩から戻った王は居室にいる宰相の姿に足を止めた。部屋の隅に控える侍女と侍従に目をやった。
侍女と侍従はびくりと体を強張らせ縮こまった。
「今日は随分とごゆっくりでしたね」
宰相は朝の挨拶を述べ、恭しく頭を垂れた。
王は宰相に答えることなく、用意された朝食を見下ろした。白磁の皿には琥珀色のスープが盛られ中央にはヒョロルドのクリームが浮かんでいる。その横には焼き立てのパンが並ぶ。いつもと同じ朝食だった。王はいくつも並んだパンの中から一つを指さした。給仕係の侍女がおずおずと進み出て、焼きたてのパンにナイフを入れる。
「食べろ」
王は朝食の乗った机を顎で指した。侍女も侍従も指示される内容に頭を下げ、視線を彷徨わせた。
宰相が王の朝食の席まで押し掛けるのが初めてなら、王が宰相を毒見に指名するのも初めてだった。
「毒見とは久方ぶりですね」
張り詰めた空気の中、宰相は泰然と王のために用意された食事の席についた。
「毒見とは、久方ぶりですね」
戦にこそ出たことはないが、血を見ない戦ならいくつも潜り抜けている。何の躊躇いもなく搾りたてのジュースをひと口飲み、匙を手にとった。
「待て」
王は宰相を制止し、寝室に向かった。戻ってきた王は手の中の小瓶の蓋を開け、スープの上で逆さにした。白い粉が勢いよく落ち、溶けて消えた。
ほんのわずか、宰相は眉根を寄せた。
「飲め」
「何をお入れしたかお聞きしても?」
「毒だ」
「毒をいただかねばならぬ理由が見つかりませんが」
「我が命じる。それが理由だ」
王は笑みを浮かべ、悠然と宰相を見た。
「なるほど」
宰相もまた微笑を浮かべた。琥珀色のスープに匙を入れ、料理人たちが丹精込めたスープを静かに口に運んだ。ひっと誰かが潰れた悲鳴をあげた。宰相はスープを口に含んだまま王を見上げた。王は黙ったまま宰相を見つめた。顎をしゃくった。
底の見えない瞳だ。宰相はスープを飲み込んだ。すぐに焼けつくような喉の痛みに襲われた。意思に逆らい滲む涙を拭うこともできず、宰相は喉を押さえて咳込んだ。
「ヤホネス様」
たまらず侍従が駆け寄り、水を差し出した。宰相は水を受け取ろうと手を伸ばした。だが手が震え、受け取ることができなかった。ただひたすらに咳込んだ。
王は苦し気に顔を歪める宰相を無言で見下ろした。宰相の咳はさらに速くなる。ひゅうっと、掠れた息が混ざり、顔から血の気が引き始める。王は懐から丸薬をとりだし、放った。黒い丸薬が絨毯の上を転がる。
「それを飲ませておけ。解毒剤だ」
すぐさま侍従が丸薬を宰相に飲ませようとした。宰相はその手を振り払った。
「王、あなたは……何をなさ……りたいのだ」
今にも死にそうな顔で王を睨み上げた。
王はゆるりとほほ笑む。
「我は王だ。阻むつもりなら命がけでこい。行くぞ、ミヨナ」
王はミヨナへと手を伸ばす。薄衣をひらひらと揺らしながらミヨナが王の腕の中におさまり、宰相へと流し目を送った。
「先にいく」
王は食事に手を付けることなく部屋を出た。大きな音をたて扉が閉まる。
宰相は丸薬を握りしめると、その手を思いきり床にたたきつけた。
国売りのセドの対価を示す日。
参加者たちがどのような対価を持ってくるのか。はたまた王がそれをどう判断するのか。城下ではその噂で持ち切りだった。いつ、セドが取り下げられるのか、賭けまで始まっていた。
ユビナウスはじっとりと汗ばんだ手を握り締めた。
所詮セドだ。いつもと同じだ。ユビナウスはそう自分に言い聞かせ、セドの参加者たちが待つ控室の扉を開けた。そして呆気にとられた。思わずハルの隣に立つタラシネ皇子を見てしまった。タラシネ皇子は肩をすくめた。
ラオスキー侯爵もニリュシードも、旅の途中であるタラシネ皇子ですら正装だったが、ハル・ヨッカーだけが前回と同じ普段着だった。破れてはいないが、洗いざらし色褪せた服に、装飾品が一つもないその姿は、王に謁見するにしては初めて見るみすぼらしさだった。背中には小さな籠を背負い、どこぞの物売りのようだ。
それよりもだ。ユビナウスは眉を顰めた。
「ブロード殿がいないようですが、どうしたのですか?」
「ブロードはいません。一人、だいじょぶです」
元気よく答えたハルに、ユビナウスは眉間の皺をさらに深くした。セドの後見は何かあった時に責任をとることさえできれば、特に交渉の場に一緒に来る必要はない。ただ、ハル・ヨッカーの場合、それが当てはまらないだろうことは明らかだった。何かがあったのか。ユビナウスはさりげなくタラシネ皇子を見た。ラオスキー侯爵やニリュシードも特に反応がない。セドの前に競争相手を参加できないようにする者がいないわけではない。だがもしするのならば、ブロードではなくハルを狙わなければ意味がない。いくつかの可能性を考えたユビナウスは浮かんだ答えを捨てた。今それを考えても仕方がない。切り替えた。
「他の方はいないのですか?」
「セドの交渉は、参加者か、後見だけです。だいじょぶです」
ハルは『正論』を口にし、胸を張った。
「そうなのです、が」
確かに、セドの規則はそうなっている。ただ、ハルが前回何をしたかは忘れられるものではない。制御していたブロードがいないというのは不安要素以外の何ものでもなかった。
「大丈夫だというのなら別にいいのではないかい?セドは所詮個人でするもの。年齢や性別、身分で区別することは許されない。それがセドだろう?」
ニリュシードが口をはさんだ。
ハルは振り返り、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとござ!」
ユビナウスもそれを言われると黙るしかない。それは総史庁に入った人間が初めにたたきこまれることだからだ。
「こちらへどうぞ」
ユビナウスはちりちりと胸の奥に潜む言いようのない不安感を押し込み、謁見の間へと参加者たちを促した。
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