4-1 謁見の朝
二度目の謁見の朝、ヴァレリアン総史庁長官はいつもより早く目を覚ました。どくりと波打った心臓に、はっと隣を見た。
体の弱い夫人はまだ寝台の中、穏やかな寝息をたてていた。ヴァレリアン総史庁長官は朝日にすける夫人のまつ毛にそっと唇を落とす。夫人の柔らかな頬に一度手をあて、部屋を出た。即位式以来の正装に腕を通すと、最後に総史庁長官の証である徽章をつけ、夜着をたたむ小間使いに声をかけた。
「ポーレット、今日は遅くなる」
「国売りのセドですよね。任せてください。奥様にはお伝えしておきます。旦那様もご無理なさらないでくださいね」
夫人と同じ茶色い髪の少女は心得たように頷いた。小間使いとはいえ、娘のいない夫妻にとっては孫娘のような存在だった。
「ああ、頼む。それから手紙を預けておく。もし、私が戻ってこられないようだったら渡してくれ」
「分かりました。いつもの愛のお手紙ですよね」
ポーレットはなんの躊躇いもなく受け取った。仕事が忙しく夜遅い旦那様から奥様へのお手紙を預かるのはいつものことだった。行ってらっしゃいませ、明るい声に送られて、ヴァレリアン総史庁長官は家を出た。
※
誰もいないはずの総史庁にはカンテラの灯がつき、部屋の中央の大きな机の上には所狭しと書類が散らばっていた。ヴァレリアン総史庁長官は書類を一枚手に取った。今回のセドに関わった人物の一覧表だ。そのどれもに斜線が引いてあった。
「お早いですね」
仮眠室から出てきたユビナウスは、ヴァレリアンの顔を見ると小さく目を見張った。
「こんな日だからな。そうしていればお前も引くて数多だろうに」
正装のユビナウスは総史庁の色である青を基調にした制服に、第三席を示す徽章をつけ、きっちりと髪を後ろへ撫でつけていた。
「やめてくださいよ」
ユビナウスは疲れたように首をめぐらした。外を見やり、どすんと椅子に腰を下ろした。
徹夜くらいでは疲れた色ひとつ見せない男が、今日はどこか暗い目をしていた。
「なかなか災難だな」
「そうですね」
どちらも昨夜のことについては触れなかった。広い部屋の中に二人きり。外では鳥がさえずっている。どちらともなく席を立ち、次回のセドに向けて集まりだしたリドゥナを仕分け始めた。本来なら新人の仕事だが、二人は大きな机を挟み、ただひたすらに手を動かした。
無言の空間に紙をさばく小さな音だけが流れた。
しばらくしてヴァレリアン総史庁長官は口を開いた。
「皆はまだ?」
「はい」 ユビナウスは短く答えた。
その間も手は止めない。自分より倍の速さで、何十枚ものリドゥナを仕分けていくユビナウスに、ヴァレリアン総史庁長官は目を細めた。手に持っていたリドゥナを机に置き、眼がしらをもむと、肩を回した。
「うちにはな、ポーレットという小間使いがいる。小間使いだが私も妻も娘のように思っている。セドなんてものをやっていると家族を人質にするような不逞の輩もいるが、ポーレットはそんな連中にどうにかできる娘ではない。……ユビナウス」
ユビナウスは顔を上げた。まっすぐに自分を見るヴァレリアン総史庁長官の真剣な目に手を止めた。
「私はお前のことも息子のように思っている。官位や役職に頭を下げながら、心の内で舌を出すようなところも、どんな脅しにも屈しないその心根もな」
「……長官」
ヴァレリアン総史庁長官は厳しい目で扉に目をやった。どこに人の耳目があるか分からない。王城とはそういう場所だ。
ヴァレリアン総史庁長官は静かにしているようユビナウスに視線で伝え、部屋の扉を開けた。廊下には誰もいない。ヴァレリアン総史庁長官はそのまま窓辺に向かい外に身を乗り出し、左右を見た。窓の外には鬱蒼とした森が広がるだけだ。
ヴァレリアン総史庁長官は大きく息をつき、ユビナウスの元に戻った。
「気のせいだったようだ」
小さく首を振った。
「お疲れなのです」
「お前の方だろう」
ヴァレリアン総史庁長官は苦笑した。二人は顔を見合わせ小さく笑った。
「長官、隈がひどいですよ」
「そうか、あとでシャルロッテに化粧道具を借りるかな」
「長官はあれを自由にさせすぎです」
「その分お前がしっかりしているだろう」
「それなら副官くらいまともなのにしてくださいよ」
「……」
「長官?」
ユビナウスは顔を上げた。ヴァレリアン総史庁長官は手に取りかけたリドゥナを置き、制服のポケットから小さなフェルト袋を取り出し、ユビナウスに差し出した。
「……お前は、お前が正しいと思うことをしろ。お前がこの総史庁に入ってきてから十年。お前はどんなときもセドの公平性を失うようなことをすることはなかった。私にとっては、それがすべてだ。お前が私を信じたのと同じように、私もお前を信じている。このセド、お前の許可印が使われているがお前がこの件に関与しているとは思っていない。だから、胸を張ってお前はお前のなすべき仕事をすればいい。その責はいずれ私とお前が払えばよい」
フェルト袋の中を確認したユビナウスの目に光が宿った。
「長官が責任をとるとは仰らないのですね」
「この総史庁に自分の仕事の責任を他人に全て押し付けるような人間はいない。だろう?」
実直なヴァレリアン総史庁長官にしては珍しい茶目っ気たっぷりの仕草に、ユビナウスは表情を緩ませた。徹夜明けの疲れを思い出したというように、眉毛に手を当て数回、眉を揉むと、ユビナウスは親愛と敬意を込もった表情で上官に向き合った。
「そうですね。では今日の謁見が終わったらお話したいことがあります。裏を掴みました」
「早いな」
「あなたに仕込まれましたから。どんなときも淡々と、と」
廊下から足音が聞こえた。ユビナウスは頷くと、フェルト袋を胸元にしまった。ヴァレリアン総史庁長官も頷くと、外に聞こえるくらいの声で朗らかに言った。
「分かった。とっておきを出そう」
ユビナウスは口を開きかけたが、他の文官が入って来る気配に口を閉じた。ヴァレリアン総史庁長官はユビナウスの肩をぽんと叩くと入ってきた文官の元へと向かった。
「おはよう、早いな」
「長官こそ早いじゃないですか」
ユビナウスはその背中を一瞥し、自分の仕事に戻った。
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