2-9 怪しい影
ギミナジウスの華の月は暑い。特に日中の暑さは容赦がない。長丁場の移動を必要とする隊商たちは、昼間は木陰で天幕を張り休憩し、涼しくなったら移動するのが常だ。
「頼むぞ、リリー」
休憩を終えたブロードはルシルに跨った。夏毛の首を撫でられ、気位の高いリリーは触るな、とばかりに首を振った。本来なら真昼間の移動は自殺行為に等しいが、ルシルなら別だ。馬より大きく体力があり、暑さにも強い。もっとも軍に導入されないのは、その希少性と主人を選ぶ点、そして何より気まぐれだからだ。
「悪いな。とりあえず、ヘンダーレに行けば、お前の好物のヘンダーレ産の林檎を好きなだけ食えるからな」
ブロードはもういくつも隊商たちの天幕を追い抜いてきた。そのどれもがブラッデンサ商会が依頼した隊商ではなく、なんの情報も持っていなかった。ブロードは首筋の汗を拭った。もうすぐ本格的に暑くなる。その前にどれだけでも距離をかせいでおきたかった。
ふ、とブロードは顔を上げた。ルシルの手綱を引くと、後方に視線を走らせた。微かな音だったがこういう時の勘をブロードは疎かにはしなかった。
静かにリリーから下り、木立の中に身を隠した。規則正しい馬列の音が近づいてくる。
ブロードはじっと音のした方を見つめた。
「今回の実行犯は誰なのだろうね。まあ、総史庁の人間を抱き込めばリドゥナを紛れ込ませるくらい簡単なことだろうし」
「ないな。セドの情報が洩れていて、リドゥナが紛れ込んでいたっていうなら確かに総史庁の人間を疑うのは分かる。だが、あの堅物たちがそんなことに乗るか。賄賂を握らせても笑顔で受け取って泳がせときながら、捕縛に向かう連中だぞ」
「身内を人質にとられても?」
出発前のタラシネ皇子との会話が脳裏をよぎる。
「身内を盾にしたところで、奴らに効果なんぞないわ」
総史庁の人間は不正が嫌いな生真面目な人間の集まりと思われているが違う。規則ですからを合言葉に、守るためなら何でもする連中だ。優しいのから過激なのまで揃っているが、一筋縄でいく文官ではない。ブロードはタラシネ皇子を笑った。
「上の人間に命令されても?言っては何だけれど、ただの文官だろう?」
タラシネ皇子は疑わし気だった。
「間違っていると思えば上の人間にも、恐れながらと言いながら平気で盾突くぞ、あいつらは。役人だ文官だなんて一緒くたにするのが憚られるほど、ほかの部署とは違うからな。利害が絡むセドを円滑に執り行うんだ。その器量はそこらのバカ貴族なんて目じゃねえ。たとえ王の命令でも偽のリドゥナと分かって放っているなんてことはしねえよ。間違っていると思えば、命令に背いて燃やすくらいのことはする連中だ」
「上におもねる役人は多いですが、その「もし」は、総史庁の人間にはないでしょう。私はかつて自分をセドにかけたことがありますが、その時の担当者にくどいほど自分の意思かを確かめられました。これなら罪人の尋問のほうが甘いのではないか、と途中でやめようかと思うほど執拗でした。総史庁の役人が疑わしいのは確かですが、彼らは役人の中の最後の良心です。時に過激なことをすることもありますが、それは全て私欲のためではありませんよ」
ブロードもワリュランスもタラシネ皇子の意見を取り合わなかった。
街道を見つめるブロードの体を暑さのせいだけではない汗がじわりと伝った。金属の擦れ合う音はさらに近づいてくる。
「なるほど、でも推測だよね」
「いいえ、総史庁の文官は各自一つ許可印を持っています。許可印を押すということはその文官の責任において、出された案件を認めるということです。そのため、同じように見えて微妙に違うのです」
なおも異を唱えたタラシネ皇子に、ジャルジュは執務机の上から過去のセドのリドゥナを一枚取り出し、今回の国売りのリドゥナの横に並べた。
「可の下を見てください。こちらには小さな丸印があるでしょう。これは第三席のユビナウス様の許可印です」
二つとも同じ朱印に『総史庁許可』の印は変わらない。一見するとどこにも違いはないが左端に確かに汚れにも見間違うほど小さな丸印があった。
「では、彼が」
「いいえ、調べたところ、彼は今回のセドの準備に関わっていません。流行病のため十日間出仕していません」
「おい、それって」
振り返ったブロードにジャルジュは目だけで肯定した。
「ええ、他人の許可印を使用し、何者かがこのリドゥナを出した線が濃厚ですね。ユビナウス様を除外すると、彼より上の権限をもつ人間ということになりますね」
「となると、副長官か、長官か。でも長官は堅物を絵にかいたような爺さんだぞ。正義感にかけてはラオスキー卿といい勝負だ。やらないだろ」
「では副長官が?」
なるほどね、と頷いたタラシネ皇子は首を傾げた。
「いや、あれはいいとこの貴族だ。若干抜けてるが、そんなことできるようなタマじゃないな。臆病だし口が軽い。長官に睨まれるような、まして命かけるようなこと頼まれたってやらねえな。だいたい犯人捜しに意味があるのか?それこそ総史庁の奴らが是が非でも見つけ出すだろ」
ブロードはタラシネ皇子の問いを否定した。ワリュランスもジャルジュも異論を唱えなかった。
ブロードはぎりと奥歯をかんだ。遠目にも隊商でないのは明らかだった。全員が騎乗しており、五十はいる。隊列に乱れもない。訓練されたものたちだ。それなのに、所属を示すものがない。服はもちろん、鞍や鐙にいたるまで、特徴のあるものはどこにもなかった。所属を隠す必要のある男たち。
「そうだろうか。もし、ブロード殿が都を出て追手がすぐにかかるようなら……。そこまで国が腐っているとは思いたくないが……」
出発前のタラシネ皇子の言葉がブロードの耳の奥によみがえる。
追手がかかるには早すぎる。ブロードは頭に浮かんだ考えを否定した。国境の警備兵でも、ラオスキー侯爵の兵にも見えなかった。ブロードは息を殺し、一団が通り過ぎるのを待った。蛇が一匹足元をすり抜けた。
一団が通り過ぎてもブロードはしばらくその場を動かなかった。音が確実に聞こえなくなってようやく、息を吐いた。
「国は腐らない、人が腐るだけ、か」
ブロードは数時間前、懸念を示したタラシネ皇子に告げた自分の言葉を小さく口にすると、足元に絡みつく蛇を蹴った。
ブロードは一度、街道に出て様子をうかがうも、すぐに林の中に戻った。背をかがめ、うっすらと踏み固められた道を見つけると、男たちの後を追った。
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