2-8 ニリュシードの布石



 歓楽街、貴族街、貧民街、そのすべてが見える場所にトルレタリアン商会はある。商家が軒を連ねる区域の中でもトルレタリアン商会の建物はひと際大きく、大通りに面した一等地に三軒が連なっている。他にも各地に倉庫や拠点があるが、ここが本店だ。貴族の屋敷のような装飾性はないものの、扉の重さ一つ、取っ手の付き方一つとっても実用性と機能性が考えされつくしたトルレタリアン商会の建設費は貴族の屋敷よりも高い。一見地味にも見える外観だが、天井の高い三階建てのレンガ造りの建物は朝日を受け淡い黄金色に光り、この辺りでは珍しいガラス製の窓が輝く。

「義父上、起きていらっしゃいますか」


 ニリュシードは執務室の隣に設えた私室を叩く音に目を開けた。明け方近くにラオスキー侯爵の屋敷から戻ってきて、うつらうつらとし始めたところだった。すぐさま寝台から出る。手早く着替え、亡くなった妻の残した鏡台の前で、少なくなり始めた髪を、丁寧に整えた。


「早かったな」

「もう昼ですよ」


 執務室で待っていたトルレタリアン商会副会長、マリクァ・ラオロンはニリュシードに受注表を差し出した。その手腕を買われてニリュシードの養子となり数年前に後継となった男だ。


「塩が五十ガリナ、麦が七十ガリナの値上がりです。微妙なところです。誰も気づいていないでしょう。今年は不作ですからね、多少の値上がりでは誰も不審に思わないでしょうが……」


 ニリュシードは受注表に目を走らせた。ひと月前からじわりじわりと塩と麦の値が上がり始めていた。今年は大雨で、不作だった。誰もが知っているから、値上がりに疑問をもつ者はいなかった。一番先に値段交渉があるはずの卸先もまだ何も言ってきてはいなかった。


「だろうな、在庫は?」

「問題ありません。一年分は優に。ですが本当によいのですか?値をつり上げすぎては反感を招きかねませんが……。このまま続けますか?」

「続けて構わん。それよりも奪われないようにしろ。せっかく買い占めても奪われては何にもならん」

「それはもちろん。商会とは関係のない場所に保管してあります。ですが――」


 マリクァはニリュシードの顔色を窺った。ニリュシードの指示により、トルレタリアン商会では、一年前、国境がきな臭くなり始めたころから少しずつ塩と麦を買いだめていた。商人にとって、安く仕入れて高く売るのは当たり前のことだ。それこそが腕の見せ所でもある。そして需要と供給は、非常時ほど顕著になる。どんな時でも儲けるのが商売人だ。マリクァも人の困窮こそが、商売のタネになるのだとよく理解していた。とはいえ、麦は二倍、塩にいたっては通常の流通量の三倍だ。尋常の量ではなかった。難民に施すわけでもない。


「ならばいい。このセド、負けるわけにはいかないからな」

「それと、一点、ヘンダーレ領経由の荷が全て届いていません。全て塩なのですが」

「ああ、それは構わない」

「ですがその……ひと月前から荷の量が増え、しかも遅れておりますが」

「調べたのか?」

 ニリュシードは受注書から顔を上げ、跡継ぎと見込んだ男を面白そうな目で見た。

 目まぐるしく変わっていくニリュシードの思考にすぐさま答えを返せるかどうかが、トルレタリアン商会で出世するかどうかの分かれ道だ。そして時折、ニリュシードはこうやって人を試す。


「すみません、勝手に。ですが、ひと月前から頻繁に荷が遅れておりました。今のところ商売に問題はありませんが、続くようでしたら経路を見直さなければならないかと思いましたので」

 ニリュシードはマリクァの返事に満足そうに頷いた。

「その件はすでにジエを向かわせた」

「ジエを?」

 ニリュシードの護衛として、懐刀としてニリュシードの隣を離れることは滅多にない男だ。

「ああ、ヘンダーレ領では難民が押し寄せているようだからな。隊商が荷をそちらに流している可能性もある」

「ああ、そうですね。確かにその可能性は高いですね」


 隊商たちと専属で契約を結んでいたとしても、場合によってはさらに高額を提示されるとそちらに荷を流す者がいないわけではない。トルレタリアン商会ではそういうことがないように契約を結んでいるが、戦禍を逃れた難民となると、もともと流浪の民の多い隊商では、荷を横流しすることもあった。それにしては量が多かったので、調査するなら腕を立つ者を向かわせなければと進言しようとしたのだった。


「それで、セドの目録はできたか」


 ニリュシードは時計を見ると話を変えた。

「はい。……それと、ハル・ヨッカーがこのようなものをしています」

 マリクァは目録とともに、広場で手に入れた一枚の紙を差し出した。


「そうめんういろう?ハル・ヨッカーは馬鹿なのか?」


 ニリュシードは一読し、首を振った。

 養父にしては珍しい。マリクァは内心驚きながらも報告を続けた。


「いえ、それは何とも。ですが、広場ではハル・ヨッカーの横にタラシネ皇子がいたと報告がありました」

「ブロードではなく?」

「はい。ただ何をするわけでもなく、その街を歩き、遊んで……その、観光をしているようでして」

「……観光、だと?」

「はい」

「国売りのセドの真っ最中に観光だと? ハル・ヨッカーだけでなくタラシネ皇子も?」

「はい」


 マリクァは真面目な顔で頷いた。


「馬鹿にしているのか」


 ニリュシードは唸り、もう一度『そうめんういろう』に目を落とす。紙を挟んだ指先をこすり合わせた。数度、確かめるように指を動かし、にんまりと口角を上げた。


「きれいに断裁された端、この紙厚、ブラッデンサ商会でよく使われるものだ。恐らく、これを作っているのはブラッデンサ商会だろう。だが、タラシネ皇子か」

「組むつもりでしょうか」

「こんなことを書く人間と一国の皇子の利益が一致するとは思えないがな」


 ニリュシードはもう一度、文面に目を通すと、紙を指ではじいた。


「一つ、頼みがある」

「はい」

「ハル・ヨッカーを探れ。できればこちらに引き入れたい」

「ハル・ヨッカーをですか?タラシネ皇子ではなく?」

「ああ」

「……分かりました。それとブロードが昼前に都を出ました。目的はヘンダーレ領だと思われます」

「動いたか。……分かっているな?」

「はい」


 マリクァは静かに部屋を出た。ニリュシードは窓を開けた。 


「楔を打つ。邪魔はさせん」


 朝日を浴びて白亜に光る王城のバルコニーを睨みつけた。



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