間話 と或る文官の葛藤



 ユビナウスがヴァレリアン総史庁長官から呼び出しを受けたのは、軽い夕食をとり終わったときだった。すでにそれぞれのセドの参加者に張り付かせた者たちから報告は上がっていた。きっとそのことだろう。ユビナウスは伝言を持ってきた文官に了承の旨を伝えた。


 夜の王城、人気のない廊下をユビナウスは進んだ。総史庁のある区画は王家の森に面しており、昼間はその鬱蒼とした木々の影で涼しいが、夜はいやが上にも不気味さを増す。視界の隅で何かが動いた気がして、ユビナウスはカンテラを森に向けた。広葉樹の葉の影が揺らめき、森の奥からは動物たちの声がしたが、それだけだった。ユビナウスは再び歩き出した。


 各庁の長官たちは謁見を終えた貴族たちとの会談に使うため、謁見の間近くにそれぞれ部屋を持っている。総史庁長官の部屋はその中でも一番謁見の間から遠くにある。普段は総史庁で下官らとともに机を並べることを好むヴァレリアン総史庁長官がこの部屋を使うことは少ない。ユビナウスは扉を叩こうとした手を止めた。迷ったのは一瞬だった。

 ユビナウスは制服の奥に潜ませた短剣の位置を確かめ、扉を叩いた。

 すっと扉が開いた。従僕の恰好をした男がいた。王城に出入りする者の顔なら大概は覚えているユビナウスの記憶にない顔だった。

 ユビナウスはさっと室内に視線を走らせた。

 円卓を囲むように宰相、元老院議長のゾニウス卿、最近将軍職に復帰したサルナルド将軍、ラオスキー侯爵がいた。ヴァレリアン総史庁長官はサルナルド将軍の隣に倒れそうなほど青い顔で立っていた。


「およびと伺いました、長官」

 ユビナウスは気を引き締め、部屋の中央に向かって頭を下げた。

「ああ、こちらに」

 宰相は自分の正面、ヴァレリアン総史庁長官の隣をさした。


「ユビナウス君といったね。君の噂は聞いているよ。優秀だそうだ。王の御前でも堂々としたものだった。」

「恐れ入ります」


「――それで、犯人は分かったかね」

「……いえ、まだです」

 宰相の首には包帯が巻かれていた。

「そうか。何も? 手がかり一つも?」


 是、とユビナウスは頭を下げた。背中から這い上がってくる緊張感を、腹の底に力を入れ飲み込んだ。


「そうか」


 宰相はヴァレリアン総史庁長官を見た。長官はごくりと唾を飲み口を開いた。張り付いた唇が離れ、ぷっと音がした。


「ユビナウス、私なのだ。私がこの国売りのリドゥナを出した」

「は?」


 ユビナウスは勢いよくヴァレリアン総史庁長官を見た。


「なぜ、そのようなことを仰るのですか」


 清廉潔白な長官が何を思ってそんなことを言ったのか、ユビナウスには分からなかった。

 どんな言葉も予断を持たず、事実によってのみ、職務にあたるべし。ユビナウスはその一心で、「長官がそんなことをするはずがない」その言葉を飲み込んだ。

 顔を動かさず、周りの人間の表情をうかがった。

 宰相もゾニウス卿もラオスキー侯爵も表情が読めない。この中で一番若いサルナルド将軍だけは苛立ちのせいか眉根を寄せていた。それでも、何も話さない。


 いつもは穏やかに微笑む長官だけが青ざめている。これまでどんな甘言にも甘んじることなく、やんわりと受け流してきた人だ。その長官が顔色をなくすところなどユビナウスは見たことがなかった。


 サルナルド将軍が、出入り口に控えている男たちに目配せした。男たちはさっと長官の後ろに立つ。従僕の恰好をしているが、サルナルド将軍の視線一つで動くその様子は騎士のそれだった。

 ユビナウスは必死で考えた。

 今日一日、ユビナウスは必死にリドゥナを紛れ込ませた者の痕跡を探した。分かったのは、セドにおいて総史庁の誰にも知られずリドゥナを紛れ込ませることなど不可能だということだ。そして、もしそれができるとしたら……。

 ユビナウスは自分の導きだした結論の正解を求めて長官を見た。まさかと、そんなはずがない、がせめぎ合った。


 ユビナウスと目が合うと、長官は力なく笑った。ユビナウスは目だけで問いかける。長官は首を横に振った。


 何かがあったのだ。ユビナウスは確信した。

 セドは競売でお金が絡むその性質上、賄賂や不正の温床になりやすい。だからこそ、総史庁は他からの圧力がかからないよう独立した部署になっている。文官の採用も他部署よりも厳しい選考過程がとられる。セドの規則にのっとり、物事は進み、たとえ王や宰相であったとしても容易に人事に踏み込むことはできない。そうやって公平性を保ってきた。


 だが、ここにいる人間が協力すれば、ユビナウスの許可印を押すことも、御璽を押すこともできる。頭に浮かんだ最悪の可能性にユビナウスは息を整えた。

 サルナルド将軍と宰相は顔を見合わせた。宰相が頷く。


「連れていけ」


 サルナルド将軍の言葉に従僕の恰好をした騎士がヴァレリアン総史庁長官を手荒く立たせた。足を蹴り、引っ張っていく。


「お待ちください!」


 ユビナウスは声を上げた。いや、上げさせられたのだ、と制止の声を上げてから気づいた。


「なんだね?」

 産毛が逆立つような猫なで声にユビナウスの首筋を冷たい汗が伝った。

 この国で王に物を言い、生きていられる人物。

 宰相はうっすらと血のにじむ首の包帯にそっと触れた。


 一度声を上げてしまった以上、ユビナウスに沈黙という選択肢は残されていなかった。


「いえ、私一人では今回のセドの犯人にたどりつくことはできなかったでしょう。ありがとうございます。あとはこちらで調査いたしますので、その者の身柄を預からせていただきます」

「自分の上官に対して表情一つ変えぬとは、冷たいことだな」

「私は自分のするべき仕事をするだけにございます」

「そうか、君のような人間が王城にいるのは誠に頼もしい」

「ありがとうございます」


 嵌められたかもしれない。そう思いながら、ユビナウスは慎重に当たり障りのない言葉を探した。


「それで、だ。君に頼みがあるのだ。いや、なに堅くなることはない。セドは総史庁の管轄。君の仕事をとるつもりもない。だが、今回のことは別だ。国を売るなど一大事、セドの枠に収まるものではないのは、分かっているだろう?」

「はい」


 粘り気のある語尾に、それでもユビナウスは慇懃に頷いた。


「そして、今我々がすべきなのは国売りのセドを止めること、動揺する人心を収めることだ。異論は?」

「ございません」


 誰が出したか分からぬセドに乗った王が異常なのであり、この国売りのセドは中止すべきだ。宰相は満足そうに頷いた。


「すぐに犯人なり手がかりが見つかるのならそれでよかったが、そうでないのならば、我々は手を打たなければならない。君には明日にでも王にその旨を報告してもらいたい」

「報告、ですか?」

「なんて顔をしているのだ。さきほど君も聞いたはずだ」


 宰相はそれ、と総史庁長官を指した。ユビナウスとてなんの話かは分かっていた。


「はい、ですので、これから調査をし、結論を」

「その結論を明日の朝議で伝えてほしい」


 そんな短時間で調査などできるはずもない。無茶な注文だった。そして王城において無茶な注文がなされるときは、そのあとで本当の要求が出されるのだ。

 ユビナウスはいくつものセドを担当してきた。時には荒くれ者の相手をすることもあった。金を積んでセドをものにしようとする者を相手にしたこともあった。


「虚偽の報告をせよと、人心を収めるために手っ取り早く長官に罪を着せるとそう仰るのですか」

「何をいう?私は君が今晩得た結論を明日朝議の際に報告してほしいと言っているのだ。何を言うかは、今晩、君が彼から何を聞き出せるかにかかっている。君の仕事だよ」


 否定を求めての質問を宰相ははぐらかした。


「そうですか。では宰相は長官に罪をきせるつもりはないということですね」

「もちろんだ、使われたのは君の許可印なのだろう?」


 宰相は余裕たっぷりにうなずいた。ユビナウスは腹にぐっと力を入れた。この程度の圧力に屈するような総史庁の人間はいない。まっすぐに宰相を見返した。


「はい。ですが私はこの十日間、出仕しておりません。だからこそ今回の担当になったと存じております」

「では許可印の管理が行き届かなかった。その責めは誰が負うべきかな。今、長官の立場であるのは君であるべきだ、とは思わないのかな?」


 宰相は総史庁長官を一瞥し、困ったように笑った。

 ユビナウスの代わりに、長官を拘束しているともとれる内容だった。ユビナウスは喉まで出た言葉を飲み込んだ。


「私はこのセドの担当官です。職務を全うしたいと存じます」

「では――」

「私は、私の仕事をいたします」


 ここには宰相はじめ国の要職が揃っている。彼らが黒といえば、黒になる。不用意な発言をして主導権を握られるわけにも、言質を与えるわけにもいかない。ぴりり、と緊張が走った。動いたのはサルナルド将軍だった。ユビナウスの肩を掴むと、膝裏を蹴り、膝をつかせた。


「なるほど、さすが総史庁第三席。未通女より固いな」

 立ち上がろうとしたユビナウスの肩を掴み、ふくらはぎを踏みつける。

「やめろ!約束が違う!部下には手を出すな」


 痛みにうめいたユビナウスに、ヴァレリアン総史庁長官が叫んだ。すぐに後ろの男たちに口を塞がれる。長官は必死で首を横に振った。やはり何か取引があったのだ。ユビナウスは一つの確信を胸に、後ろからの圧に逆らい顔をあげた。言葉は発さない。相手の出方を待つ。


「言葉が足りなかったね。ユビナウス君、君には二つの選択肢がある。長官と生きるか、……死ぬか。選びなさい」

 宰相は言った。

 ユビナウスは乱れた髪を振り払うように首を振ると、宰相をまっすぐに見た。

「私は私の仕事をするだけです」

「よいね、若者は。血の気が多い」

 宰相はサルナルド将軍を見た。サルナルド将軍は鞘ごと剣を抜くと、振り上げた。

「待て!宰相。話が違います。責任をというのなら、犯人を見つけてから私をいかようにも処罰してくださればいい。国売りのセドを止めるには、王を止めるしかありません。それが今ここにいる我々のすべきことのはずです!」


 ヴァレリアン総史庁長官は後ろ手に拘束され、前髪を乱しながらも、まっすぐに宰相を見た。

「困ったな、ヴァレリアン殿。あなたはどうも真っすぐすぎていけない。犯人はあなた、だろう?」


 宰相は長官に近づき、その耳元で何かを囁いた。

 長官は目を見張ると、口を噤んだ。

 宰相はユビナウスに向きなおった。


「ユビナウス君、協力しないというのならそれでもいい。私も宰相として君に確認すべきことがある。本人が出したものではないセドは本来無効、そうだな?」

 ユビナウスは黙って肯いた。

「では、なぜ君は王に従いセドを進めるのだね?」

「王のご命令です」


 ユビナウスは間、髪を入れず答えた。こういう時の間が命取りになるとユビナウスは知っていた。

 本来なら今回のセドは虚偽の申告によるリドゥナのため、無効にすべき案件だった。王が国を売る、そう言わなければ終わっていたはずだった。あの瞬間、誰もが王の狂気に飲まれていた。おかしいと思いながらも押し寄せる奔流に声を上げることができなかった。そういうことにしなければいけない。


「ほう、君は規則を守ると言いながら、王の命令なら規則を破るのも致し方ないとそういうのかね。それは自分の命を守っているだけではないのかい? 君は王が正しいと思うのかい?」

「私はそれを判じるべき立場にありません」


 ユビナウスの声に微かに悔恨が滲む。宰相はそれを見逃さなかった。


「誰がリドゥナを出したのだとしても、王が止めていれば、今回のセドは質の悪い悪戯ですんだ。そのことを誰よりも分かっているのはユビナウス君、君だろう?」


 ねっとりと纏わりつくような声。協力しないのならそれでいい、と言いながら逃す気などまるでなかった。一国の宰相を務める男の執念がユビナウスを絡めとる。


「それは……」


 確かにあのとき、ユビナウスは王を心の中で罵倒した。頭を下げながら、非常識な王に従いながら、国売りのセドを進めた。

 ユビナウスは長官を見た。両脇を男たちに抱えられた長官の目に覇気はない。

 王のせいで――。ユビナウスの中に一つの答えが浮かんだ。


「まさか長官の代わりに、王に―― !」


 浮かんだ答えをユビナウスは最後まで言うことができなかった。恐ろしい考えだった。

 宰相はユビナウスを見ると、にっこりと笑った。


「それは君の心ひとつ」


 まるで心の内を見透かしているようだった。


「よく考えるといい。君はこの先、あの傲慢な王の命令の下で生きたいのか、それとも違う未来が欲しいのか。選べるのは今だけだ。今なら全ては王が被ってくださる。君の犯した全ての罪は不問に処される」

「っな!」


 ユビナウスは絶句した。宰相には、長官に罪を着せる気などなかった。狙われたのはユビナウス自身だったのだ。

 サルナルド将軍はじれったそうに舌打ちをすると、ユビナウスに見せつけるように剣を抜いた。切っ先は、長官の心臓に向けられていた。


「ああ、サルナルド将軍は短気でいけない。剣はおさめてください。そんなものはユビナウス君に意味はない。いや、総史庁の人間に武器は必要ない。そうでしょう?ヴァレリアン長官。さて、最後の質問にしよう。ユビナウス君、規則を守り死ぬか、良心に従い生きるか、選びなさい。君が選ぶのは王でも私でもない、民の未来だ」


 ユビナウスは奥歯を噛んだ。宰相につけ、と脅されたのならたとえ長官の命と引き換えでも肯かなかっただろう。民の未来、その言葉に力が抜けた。ゆっくりと頭を垂れた。

 宰相は満足げに頷くと、男たちに長官の拘束を解くよう命じた。

 信じられないと目を見張る長官をユビナウスは見られなかった。


「何をさせようというのです?朝議の報告などさせるつもりはないのでしょう?」

「賢い人間は好きだよ。なに、今日は疲れただろうゆっくり休むといい。よい店を紹介するから」


 宰相はそういうと懐から一通の手紙を取り出した。それが何なのか、確かめ、ユビナウスは目を見張った。逆らえないと理解しながらも言わずにはおれなかった。


「セドに携わる人間にとって、悪事に手をかすなど命を奪うに等しいとお分かりのはずです」

「国は人の命より重いのだよ」

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