『夢路の月代』の固唾の「命」論
泊瀬光延(はつせ こうえん)
第1話 はじめに
この一題においては、なかなか面白い議論が若衆文化研究会およびその世話人である染谷教授による青山学院大学での特別講義の中であった。主な受講者はもちろん、学生である。
その議論の対象とは、作中冒頭で剣術使いの丸尾勘右衛門が、美しい若衆、多村(たのむら)三之丞が小川に吐いた唾を下流ですくい上げ飲み干したという行為に関してである。
染谷教授の御指導の下、議論の攻守は唾を飲む行為を「受け付けない」人と「受け入れる」人に分かれる。大方の学生と若衆研の社会人は「受け付けない」と嫌悪感を表明した。「受け入れる」側は数人という劣勢である。
これは個人の嗜好、体験と考え方がもとになっていると思われるので、議論の末、心の置き場所としての攻守が入れ替わることもないだろう。染谷教授は「受け入れる」側だったようで、この議論を面白がっていたようだ。
私と言えば、私は「受け入れる」側に回ろう。「受け入れない」人が大多数名だがこの授業の場合は20代の若者が殆どだ。何が受け入れられなかったのか、と私なりに考えた。、
・他人の唾が自分の口に入る、という現実を想像してしまう。この場合はそのような恋の所為を未体験の人が多いと思う。
・何を食べたか分からない、口臭がありそうな人の唾など飲めない。
・人の接触を嫌う潔癖感。
・粘膜接触の忌避感。
多感な学生さん達だからほかにもあるだろう。こう書いていると私自身もぞっとするところはある。見も知らぬおじさんの唾を想像した人が多いだろうか。
でも本当に好きできれいな人だったら、と「受け入れる」側は反論するだろう。
「受け入れる」側の理論(?)を並べてみると、
・美しい若衆を射止めるためにすること。
・固唾という若衆の「命」は清らかだ。
・衆道とはそういうものだ。
これからも想像がつくが、実はこれは心の置き場所の階層が違うところにある議論だ。ロマンチストな私も幼いころは好きな女の子が排泄をするなど想像も出来なかった。いや、もししてもそれは美しいものだ、などと思っていた。
20代の潔癖な若者や、あまりエログロナンセンス(古語)に触れなかった人は、このような行為に嫌悪感を持つ可能性はあると思う。
私は多くを見すぎたのかもしれない。それでもパゾリーニの「ソドムの市(1975)」のあの場面は閉口した。スカトロジーが好きな人は大丈夫なのだろう。DVDは一度見て売り払った。しかし市場では高値が付いていたことを報告しておく。
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