第2話


「話をするとこうです。僕の会社に御子神純一という男がいましてね。その男、なかなかの美男子なのですよ。そして美男子ならではの女の話と言うのがいつも付き纏っている。仕事もそこそこにできる奴でおまけにトライアストロンなんてスポーツもしているから身体がギリシャ彫刻の様に引き締まって申し分が無い。おかげで社内でも誰かと恋愛にあるとか不倫だとかの噂の類の消えない男です」

 佐古部はそこで煙草の煙を吐いた。

 煙の向こうに目を細めて話を聞き入る田中が見える。

「そう言う男は社内では結構男から嫉妬や妬みを受けるのですが、まぁ僕はどちらかと言うとどちらでもいい気にしないタイプでね。まぁほどほどに彼とは距離を置いて相手を観察して必要な話をするだけに留めていました」

 ぎゅっと煙草を灰皿に押し付け火を消す。そして青色と桃色の入ったグラスを口に含んだ。

「そうした或る日、彼と個人的に話をする機会が出来ましてね。新薬の開発費の事で打ち合わせをすることになりました。最初は真面目に話をして終わりましたが、その内何度か打ち合わせの機会があって彼と会うことが増え、いつしか夜にも何度か彼と食事をすることにもなりました」

「酒を飲めない君が夜の付き合いとはね」

 ほうという顔つきで田中が指を佐古部に指す。

「誰がお酒だと言いました?僕と彼は下戸なのですよ。だから僕達は美食倶楽部という名前を付けて無名のお店の名品を金曜日になると食べに行くように決めた」

「美食倶楽部ね」

 成程と頷く。

 確かにこの佐古部と言う男はどこか偏執的に物事を突き止めてゆく学者癖があるのを知っている。

 この前も或ることでこのバーに来ていた男と口論しているのを見た。

 フィボナッチ数列の事で話をしているようだった。

 その時遠くの席に座りその光景を見ていたが相手の男がお手上げの状態で席を立ったのを見た。

 後で佐古部に聞くとなんでもその男が気取ってフィボナッチ数列で全てを解き明かすことができると言うのを聞いて、じゃどうだという気持ちが湧き、議論を吹っ掛け相手を負かしてやったということだった。

つまりこだわりが深すぎる男なのだ。

おそらく美食にも相当のこだわりを持って接したに違いない。

「人の話し中に考え事をするのは失礼だと思いますがね」

 佐古部の不満気の顔つきが見えた。

 田中は咳払いをした。

「失礼」

 そう言うのと同時にカウンターにビールが置かれた。

 田中はそれを一口飲んだ。

「すまない、続けて」

 軽く首を横に振ると佐古部は話し始めた。

「その美食倶楽部で僕と彼は仲良くなり、その内、色んな話をすることになりました。そう、そして神戸の元町のある狭い通りの店で豚肉の料理を食べていた時、彼が僕に言ったのですよ」

「何と」

「この世で一番うまい食べ物は何だろうね?と」

 田中は目を細めた。

「それで君は何と答えたのだい?」

「僕?そうですね・・まぁ当たり障りのないことを言いましたよ。大概そういうことを言う時は、その人の自慢が出てきますからね。そう思う僕は少し馬鹿なふりして彼に分からないよ、降参だねみたいな感じで逆に彼に聞いたのです」

 新しい煙草を取り出して口に含んだが、それを再び口から離した。

「彼は僕に言ったのですよ。『佐古部君、この世で一番うまいものは野性では無く、良く飼育された鳥獣の肉だよ』とね」

「飼育された鳥獣の肉・・?」

田中が反芻する。

 そう、と佐古部が頷いた。

「それも『人間が一番良い』とね」

「人間だって・・?」

 佐古部は首を振ると煙草を口に咥えて火を点けた。

「おい、穏やかな話じゃないな。その御子神と言う男。まさかその話と彼女が関係している・・」

 そう言おうとするところを佐古部が目で押さえた。

「人の話は最後まで聞いてくださいよ。それで彼とは店を出て人気のないバーに行きました。是非その話を聞きたいのでね。それに僕の学術的好奇心と言うものがすごく湧いたのですよ。この美しい美男子ともいう男から何ともいえないおどろおどろしい話しが出てくるなんて、心の中でゾクゾクしちゃいました」

 唾をのみこむ田中の喉の音を聞いて佐古部は満足そうに笑った。

 どこか意地悪で邪悪な微笑だった。

確かにこの前のバーの男との口論の事と言い、この佐古部と言う男には何かに対しても容赦ないところが見えた。その物事に対する心根は悪魔的と言った方が良いかもしれなかった。

だからこんな邪悪な微笑ができるのだ、そう田中は思った。

「二度目ですよ。人の話の途中に考え事をするのは」

 焦りながら田中が言う。

「失礼。続けてくれ」

 やれやれと言う風に佐古部は話し出した。

「バーの席に着くと彼は僕に数枚の写真をポケットから出しました。そして言ったのです。『君は僕と同じような何かを持っている気がするのだ。そうとても悪魔的な部分と言うかね・・。それに君は秘密を守ってくれそうだから僕の秘密を漏らしたい。見て欲しい、先程僕が言ったこの世で一番うまいものだけどね、それがこれさ』とね」

「それで君はその写真を見たのか?」

田中は汗を額に浮かべながら言った。

「ええ、見ましたよ」

素っ気なく佐古部が言う。

顔を伏せて田中が言った。

「何と言う気の狂った男だ、君は・・・今僕は心から君を軽蔑したくなった」

 佐古部は壁に向かってゆっくり煙を吐いた。

「勘違いしているのは田中さん、あなたでしょう?あなたは勝手に僕の話で想像しているだけですよ。僕が見たものは今あなたが想像したものではありません。そう安心して下さい。人肉なんてものじゃないですよ」

「じゃ何だと言うのだ?」

 佐古部は口を開いて大きな煙の輪を作ると、その輪の中に指を入れて横に切った。

「写真は猿轡にされて縛られた人間の若い女でした」

「若い女だって!」

 大きな声で叫ぶ田中に「静かに」と厳しい声で佐古部が言う。

 動揺しているのか田中が眼鏡をはずして頬に手を当て何度も顔を素手で拭いた。 

「ハムの様に縛られていましたよ」

 バーテンダーが側に寄って来て田中におしぼりを渡した。

 それを夢中で手に取ると田中は顔を拭いた。汗を拭きながら心臓が踊るのが分かった。

経理課の佐伯裕子が会社に出てこなくなり一週間が過ぎていた。

過去にそうしたことが無かっただけに社員の誰もが驚いた。

休んだ翌日、彼女の住まいの阿波座のマンションを訪ねた田中は郵便受けにたまった広告を見て戻った形跡が無いと分かると、無断欠勤した三日後には警察に届を出した。

真面目で線の細い女性だった。肌が白く、笑みがとても美しかった。

田中は顔を上げて佐古部に言った。

「警察に行こう、君の話を警察に言ってくれ」

田中が哀願するように言う。

「へ、なんで」

 あまりにも非人間的な答えに田中は冷や汗が背中を伝うのが分かった。

「君は見たのだろう?ハムの様に縛られた人間の女・・つまり佐伯裕子の姿を。ならば彼女は今その御子神という変態の元で拘束されているのだ。それを見て君は何も思わないのか?」

 田中はカウンターを強く叩いた。

 手の痺れが脳に伝わるより先に佐古部の声が脳に届いた。

「誰が、そんなこと言いました。僕、そんなこと一言も話していませんけどね。田中さん、あなた想像力が豊かすぎますよ。経理なんかの仕事ではなく作家をされた方が世の中に貢献できると思いますがね」

 呆気に取られて田中が見ている。

「そう、その写真は確かに女でした。女が裸で縛られていたのですよ。まぁ彼に言わせれば飼育していることですが。なんでも近所に住んでいる人妻とからしく・・全く世の中は酷いものですね。旦那が居ると言うのに他の男に飼育されるのを喜んで昼間から遊んでいるのですからね」

大きく首を振りながら佐古部は腕を組んですまなさそうに頷いて言った。

「じゃ、君が言おうとしている佐伯裕子と彼の関連性は?」

 あ、そうでしたと佐古部は軽く言った。

「その佐伯裕子ですがね、その彼の飼育リストに入っていたのですよ」

「ど、どう事だ?」

 戸惑ったように田中が言う。

「飼育リストだって?」

「そう」佐古部が冷静に言う。

「彼は結局のところ僕に言いたかったのは、美食とは人間の女と寝ること、まぁ性行為ですかね。性行為と食すると言う欲望は同じであると言うこと・・つまりは『美食』とは同行為であると言いたかったようです。そして飼育された女程、おいしいものは無いと言いたかったのです」

「それで、なんだい。そのリストって」

退屈そうに佐古部は言った。

そして一枚の紙を出した。何か手帳の一部をコピーしたものだった。

「この御子神と言う人物、非常に几帳面のようで関係した人物を全て顔写真つきでリストにしているのです。大学生の頃からこの趣向が始まったようで、それはその全てのリストです。このリストは僕にそっと呉れたのですよ。『一緒にやらないか』ということでね」

 悪魔の様に佐古部が笑った。

「ほら見て下さい、そこに名前があるでしょう。西暦はその人物と付き合った年らしいですが、ほら、つい一年ほど前の所に、田中さん、あなたの可愛い少し間の抜けた部下の名前が」

 田中はその紙を取るとその場所を見た。複数の女性の名前の下に彼女の名前が在った。

『佐伯裕子 電子機器会社 経理所属 二百万』

 写真が付いていた。間違いなかった。

 その横に自署があった。

“宣言 私はあなたに飼いならされることに喜びを感じる愚か者です”

(間違いない彼女の字だ・・・)

 会社の書類で見る彼女の細い字を見た。

 震える手で田中は聞いた。

「なんだ、これは・・・、それにこの金額は・・?」

「ああ、それですね。下の金額はそうした変態仲間内でまぁ彼らの言葉で言えば飼いならしたペットを身売りする時の売買の値段です」

「ペット・・?売買?」目を丸くして田中が言う。

「そう、そうした趣向の集まるサークルがあるらしいのですが、飽きたらそのペットを売りに出すそうですよ。そしてその時取引される値段と言うのが書かれていて、つまりそれは秘密サークル内の売買価格ということです。そして事実としてそのリストに飼育された鳥獣として彼女の名前があると言うことです」

 あまりにも非現実的な世界の事に田中は呆然自失した。

 普段は真面目で、誰にでも愛される性格の佐伯裕子という仮面の下にこうした闇の世界が潜んでいたとは知らなかった。

 しかし努めて冷静になりながら田中は現実を確かめる様に佐古部に言った。

「佐古部君、虚言じゃないだろうね。もしそれならばただでは済まないぞ」

 咥えていた煙草の灰がスーツに落ちた。佐古部はそれを手で払うと「そうですか」と言った。

「警察で証言しましょうか、今話した事。全て事実ですからね」

 田中は首を横に振った。

「いや、それはまずい。そんなことしたら・・」

「ええ、そうでしょうね。S製薬の常務さんの息子との結婚が破談になり、あなたの今日お誘いを断った部長さんが失脚する、でしょう?なんせお宅の手島部長がS製薬の常務さんの息子さんにと紹介した娘がまさかそんなふしだらなことをしでかしている人物だと分かれば、相手はどう思うでしょうね。佐伯裕子自体は京都山崎の中々の良いところの娘さんのようですが、結局、人間は分からないものですよ」

(何でそんなことまで知っているのだ)

顔が青くなるのを押さえて佐古部を見た

そこでにやりと嗤った。

「ふふ、田中さんの昇進も見送り、左遷ですかね」

そう言ってどことなく知らない顔つきで煙草をふかしている。しかしその横顔はどこかにやついている。

(この男、悪魔だな)

眼鏡に手をやりながら言った。

「いや、佐古部君。君の言うことを信じる。そしてこのことは僕の心の中にしまっておく」

「そう、それが良いですよ」

「しかし、だ」佐古部を見た。

「それで彼女は今どこに?」

 佐古部はそこで紙袋を叩いた。

「それでこれが出番なのですが、その御子神についてまだ話があるのですよ」

 にやりとして言った。

「聞いていただけますよね?」

佐古部が満足そうに言った。

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