田中と佐古部 / 『嗤う田中』シリーズ

日南田 ウヲ

第1話

「ねぇ、君。僕は君がある意味で大変失礼な男だと言うのは知ってはいたけれども、今日ほど君のその態度を見て思ったことはないよ」

 田中陽一はカウンター席で自分の横で煙草を吸う男を見て吐き捨てる様に言った。

 眼鏡越しに腕時計を見ると午後七時を少し過ぎている。

 呆れたような表情して田中はグラスの底に言葉を吐き捨てた。

「もう、一時間だ。一時間だよ、君。どういうことだい?僕を呼び出しておいて君はただひたすら本を読んでいる」

 田中は夕方、大阪本町にある会社のオフィスで横に座る男から呼び出しの電話を受けた。

「面白い話があるのでいつものバー『蠍』に来ませんか?急いで来てくれると嬉しいのですが」

 田中は電話を置くと時計を見た。

 五時丁度だった。

 少し深いため息をつくと別の部署へ内線を入れた。

「手島部長、田中です。急にすいません、実は急な用事が出来まして・・今夜はお断りさせていただこうと思います・・ええ、そうですね。はい、どうもすいません」

 総務部長の誘いを丁寧に断ると田中は紺色のスーツ姿で急いで呼び出された堂島の川沿いにある小さなバーに向かった。

 呼び出した男はカウンターに座って本を読んでいた。田中と同じ年頃の三十代の男でこちらもきちんとした紺色のスーツを着ている。

 男は店に入って来た田中を横目で見たが、あとは一言も何も言わず黙って本を読んでいる。

(どういうことだ。急ぎで僕を呼び出して)

 後は一言も発せず男の煙草だけが何本も灰皿に抑えられて消えて行く。

 田中はその様子を暫く見ていたがさすがにその態度に頭が来て男に言った。

「君は僕に対して何も思ってはいないと思うけどね、僕からすれば君と言う男は禁煙家の僕の前で何本もの煙草を吸い、また愛酒家の僕の前で女子高生が飲むような甘いジュースをおいしそうに飲む、そう、本当に失礼な奴だ。まぁそれは我慢して良いとしても、なんだい今日のこの態度は?君が来いと言ったから僕は来たものの君はまるっきり僕が居ないかのように振る舞っている。とても酷い男だと僕は思うね。どうだい、何か反論があるかい?」

 田中はそう言って席を立った。

 すると男は開いた本を閉じて田中を見た。男の手の隙間から閉じた本の表紙が田中に見えた。

 眉間に皺を寄せて田中が言う。

「聖書・・・?だって?」

 あまりの意外な本に目を丸くして田中は怒声交じりに言った。

「失礼な男が読む本とは思えないね」

 田中は自分が馬鹿にされているように思ってカウンターを力任せで叩いた。

 強く乾いた音がバーに響いた。

 グラスを布で吹いているバーテンダーが田中を見たが客の沈黙を待つように静かに目を伏せた。

 男は何か考えがあるのか足を組み直し、田中の怒声を無視して右手を軽く握って拳を作って軽く顎に当てた。

 その姿はロダンの彫刻「考える人」にそっくりだった。

 唐突に男が言った。

「目からうろこ」

「は?」

 田中は呆然として言った。あまりにも言う言葉が突拍子もないからだ。

「何が?」

 聞き返す。

「だから『目からうろこ』さ。田中さん、あなた知らないの?新約聖書使徒行伝第九章の一説、超有名だよ」

「知らないね?」

 ふんと田中は鼻を鳴らした。

「あっ、そう」

 首までかかる長い髪を揺らして二重瞼の黒い目で田中を見る。

 どこか日系二世を思わせるような顔つきできょとんとした表情をしていた。

 そして心の底からすまなさそうに言った。

「田中さん、意外と教養ないね」

 短く伸ばした髪の中から熱いものが沸き上がるのを感じながら、田中は言葉にならない怒りに狂いそうな自分を冷静にしようと務めた。

(知り合って二年になるが、この男の失礼さには今日はホトホト頭に来た)

 先程言葉にしていったがこの男はいつもどこか人を食ったような態度をしている。まるでドイルが書いた小説に出てくるホームズのようだ。

 そして彼の前では自分がいつも無知なワトソン扱い。

 小説はまだいい。ホームズにも無知なワトソンに対する愛情が感じられる。

 しかし、この男は・・

「帰るよ、実に不愉快だ。今日態々部長からの誘いを断って来たのに、ひどい目に遭った。悪いが僕の支払いは君がしてくれ」

 言うや否や革製のバッグを手に取り、田中は店を出ようと大きく一歩を踏み出した。

 その時、男が言った。

「経理の佐伯裕子」

 田中はそれで動きを止めた。そして眉をひそめて振り返った。

「君は人様の会社の事について起きたことまで何か知っているのか?」

 男の顔がにやついている。

「知っているも何も・・・彼女にとって僕は恩人ですからね」

 そう言って、男はジャケットの内側から小さな紙袋を出してカウンターに置いた。

「面白い話とはこのことです」

 そしてポンポンと紙袋を叩いた。

 田中は唇を閉じたまま、身体を向き直すと黙って席に着いた。

「そうそう、上司であるなら黙って話を聞かないとね」

 煙草を取り出すと火を点けた。

 田中はバーテンダーを目で呼ぶと「ビール」と言った。

 そして恨めしそうに佐古部を見て田中は言った。

「君・・いや佐古部君、良いだろう。佐伯裕子の事で何か知っていれば聞かせてくれよ。彼女、一週間前から会社に来てなくてね。僕も非常に困っているのさ」

 そう言う田中の顔に佐古部は煙をゆっくりと吐いた。

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