クチベニズイセンのせい
~ 一月二十日(月) -8℃ ~
クチベニズイセンの花言葉 神秘
高原の湖。
その間近に建つペンションから足を踏み出すなり。
口をついた一言は。
「さみぃ…………」
もう、十時になろうというのに。
寒さのあまり。
吐いた息すらすぐに凍ってしまいそう。
安宿から伸びる、湖までの砂利道も。
まるで氷でできているみたいで。
ぎちっ。
ぎちっ。
冷たい音が、二人分。
凍った空気に響き渡ります。
「チェックアウトギリギリまで出ずに正解でしたね」
「うう。それでもまだちめたいの」
スキーウェアの内側に。
三枚も着込んだだるまさん。
こいつの名前は
軽い色に染めたゆるふわロング髪は。
二重に被った帽子の中。
後でセットしてあげるとして。
今はひとまず。
頭のてっぺんに。
クチベニズイセンを突き立てます。
「しかしほんとに寒いですね……。詳しいことは知りませんが、昨日の夜も晴れていましたから。放射冷却というやつなのでしょうか」
「ほんじゃレンコン?」
「……それでいいです」
「美味しそうなの」
「昼ごはんに出ると良いですね」
「そうだ。朝ごはん食べてないの」
「昨日の夜もですって」
……どうしてこんなところにいるのか。
どうしてご飯も食べていないのか。
そのわけは。
全部、このとぼけた生き物のせい。
日曜日、おばさんの髪をアレンジしていたら。
パンフレットを片手に穂咲が飛び込んできて。
載っていた写真の。
目玉焼きが綺麗だから。
そこに就職したいと言い出して。
長距離バスで訪ねてきた。
湖のほとりのレストラン。
でも、思い付きで家を出たものだから。
到着したのは宵の口。
勇んで訪ねた店の前。
入り口の黒板に書かれた営業時間は十七時まで。
慌てて安い宿屋をネットで調べて。
素泊まりした俺たちなのでした。
「さて、営業開始は十一時でしたっけ?」
「一時間ほど時間をつぶすのにちょうどいいものがあるの」
「……朝言っていたあれですか」
なにやら昨晩。
凍った湖の方からバキンバキンと音がしていたと、ほらを吹き。
きっと、怪獣か何かが。
氷を割って遊んでいたのだと。
こいつはそんなことを言うのです。
「……足跡があるの、きっと」
「その足跡をどうしたいのです?」
「持って帰って売れば、うはうはなの」
「ぽたぽたです」
「なにが?」
「氷なんて持って歩いたら」
「…………はっ!? とけちまうの!」
どうやら、自分のおバカさんを知った穂咲が。
湖へ向かう足を一旦止めたので。
引き返すかと思いきや。
「まあ、いいの。せめて足跡だけでも見に行くの」
「無いですよそんな物」
意外にも。
寒さにとことん弱いはずなのに。
ぎちっ。
ぎちっ。
穂咲はそれきり何も言わず。
砂利道を先に進みます。
……じきに訪れる別れの時を。
意識しているのかいないのか。
他にない、特別な時間を共有したいと。
考えているのかいないのか。
ピンクのだるまの背中からは。
その目が閉じて、過去を懐かしんでいるのか。
それとも開いて、未来を見つめているのか。
汲み取ることもできません。
ひょっとして、ウインクなどしていたら。
俺は、なんと声をかければいいのでしょう。
いつになく。
意識してしまうのは寝不足のせい。
一晩厄介になったお宿。
お金もないし。
一部屋とか。
素泊まりと言っても。
昨日は一睡もできずに過ごしました。
……君のいびきのせいで。
…………そういうことに。
させてください。
ぎちっ。
ぎちっ。
いつものペース。
いつものお隣り。
いつも通りだから。
なおさら思います。
このまま幼馴染でいたいのか。
それとも、違う関係になりたいのか。
俺の一言で。
隣にすらいられない。
そんな関係になってしまうのではないか。
悩む気持ちが口から洩れて。
白くかすんで結晶になり。
風に吹かれて舞う花は。
君とは逆の側へ飛んでいく。
「…………穂咲」
だから、風に任せることをやめて。
どうしたいのか、決まってもいないのに。
丸い背中へ声をかけつつ。
顔を、しっかりと上げてみれば。
話そうとしていた内容が。
頭から全部吹っ飛びました。
「……まさか。いたねえ、怪獣」
「いたの」
湖にできた小さな砂浜。
一斗缶で焚火をしているのは。
どう見ても、怪獣の着ぐるみ。
嫌な予感と共に。
その黄緑色の物体に近付くと。
俺たちを見て。
でかい尻尾を引きずって。
大はしゃぎで寄って来たのです。
「ぐうぜーん! なんでこんなとこにいるし!?」
「こちらのセリフですが。れんさんこそどうして」
「あたしはご覧の通り!」
「ご覧したところで分かるわけあるかい」
「バイトよバイト! レストランの! ご覧の通り!」
「…………そうですね。見たまんまですね」
よく見れば、砂浜に放置したプラカードの板には。
俺たちがうかがう予定のお店の名前。
だけど。
突っ込みたい点が三つある。
「こんな時間から客寄せ?」
「もうじきお店開くから!」
「客が一時間待ちぼうけですよ。……あと、なぜ焚火?」
「寒いからに決まってるし!」
「……では最後に。プラカードの柄が、べっきり折れているのですが」
「寒いからに決まってるし!」
そうですね。
寒いからね。
燃やしたいですよね。
俺は、怪獣さんの行く末を案じつつも。
吸い寄せられるように焚火にあたって人心地。
すると、眼前に広がる雄大な景色の中に。
神秘的なものを見つけたのでした。
凍り付いた湖に走る白い軌跡。
それが南岸から、そこそこ真っすぐ北へ走る。
話には聞いていましたが。
これが……。
「
凍った湖面が、夜のうちに収縮して亀裂が入り。
昼になるにつれ、今度は膨張して。
亀裂の位置で、氷がもこっと盛り上がる。
どこの湖だったか。
男の神様が。
対岸にいる女性の神様の元へ歩く軌跡との言い伝えがあり。
ついた呼び名が御神渡り。
「怪獣じゃなかったの」
「そうですね。神様の足跡は持って行けませんね」
「そりゃそうなの。恋路を邪魔するなんて野暮なことできないの」
……恋路。
今の言葉は。
意識して口にしたものなのでしょうか。
俺は、先ほど飲み込んだ言葉を。
再び口にしようとしたのですが……。
「散歩してたおばあちゃんから食べ物貰ってさ! 煮えたから食うし!」
再び、怪獣に。
話の腰を折られたのでした。
もう、この人と話していると。
常識ってなんだろうと。
考えさせられることになるのですが。
一斗缶の上に乗せられた両手鍋は。
蓋でかたかたと。
朝餉の歌を演奏中。
「食べ物貰ったからって。鍋は」
「鍋と醤油とお砂糖くらい、普通持ち歩くし?」
「我が国に、そんな常識ありません」
「でも、道久君もいつも背負ってるし」
「…………ほんとだ」
よし、これからは。
俺たちの方が常識人だと思うことにしよう。
「いつも恵んでもらってる御礼できそうだし! これ、大量に煮込んだから一緒に食べてちょ!」
そして鍋掴みいらずの怪獣が。
蓋をぱかんと開いた瞬間。
今まで、静かにしていた穂咲が。
優しい笑顔で両手を胸に組みながら。
大きな声で叫んだのです。
「ほんじゃレンコン!」
「そうそう! レンコ……、ほんじゃ?」
「ああ、気にしないで下さい。美味しそうに炊けてますね」
体を包む白い煙。
そこから醤油の香りが漂って。
頭の中に描かれた。
甘辛い汁としゃくしゃくのレンコンが。
昨日の昼から何も食べていない胃を。
ぐうと大声で鳴かせたのです。
……普通の人なら、誰でも持ち歩いている爪楊枝を刺して。
冷え切った体にあつあつのレンコンを押し込むと。
緊張で、凝り固まっていた口が。
臆病に、わだかまりを抱えていた胸が。
柔らかくとけて行ったのです。
昨日からずっと。
悩んで悩んで、悩み続けた言葉が。
神秘的な風景に背中を押されて。
温かな料理で素直になって。
自然と口から零れ落ちたのでした。
「……ねえ、穂咲」
いつの間にか、風向きが変わって。
俺の想いを乗せた靄が君を包む。
そんな帳の向こうに見える赤ら顔は。
どうしてだろう。
期待のリップと不安のシャドウで薄化粧。
俺が言いたい事。
もう伝わっているのかな。
そう思えたら。
いつもの俺に戻って。
穂咲の不安を早く拭ってあげたい。
そんな気持ちで。
ずっと胸に秘めていた想いを。
ようやく。
自然に伝えることが出来たのでした。
「君、家から通うことができるところで仕事したかったんじゃ?」
「………………はっ!?」
てへっ。
ぺろっ。
いーっくしょ。
案じるより。
生むがやすし。
でも、一度言いよどむと。
再び口にするには勇気がいるのです。
そう、それは。
同じことが当てはまる。
……今。
本当に言おうとしていた言葉にも。
「んじゃ、しょうがないから。目玉焼き食べて帰るの」
「とんだ旅行になりました」
「……あたしは、思い出の旅行になったの」
穂咲はそんなことをつぶやきながら。
湖に走る恋の道を。
ずっと見つめていたのでした。
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