第48話 伊織、パパと呼ばれる
パーシェドル侯爵領から北に早馬で1日半、馬車で4日ほどの位置にカタラ王国の王都がある。
大陸西方諸国は北西の雄であるアガルタ帝国を除けば似たり寄ったりの小国ばかりとはいえ、王都ともなればそれなりに発展しているし王城も立派なものだ。
それに特にカタラ王国は大陸西部地域の中でも温暖なために食料の生産が盛んで近隣諸国に輸出もしており比較的豊かな国でもある。
パーシェドル侯爵タスベルはその王城の会議室で椅子に座り主君が来るのを待っていた。
タスベルの対面には王国の最高貴族である3侯爵のひとり、アッガイト侯爵が座っている。
「緊急招集とは余程の内容なのだろうな、タスベル」
アッガイト侯爵が不機嫌そうな面持ちでタスベルをジロリと睨め付ける。
その問いにタスベルが無言で頷くと、アッガイト侯爵ロストがフンッと鼻を鳴らした。
このような態度でタスベルに対するロストだが、別にタスベルと対立する政敵というわけではない。
カタラ王国では国王を頂点に3つの侯爵家が王家を補弼する役割を担っている。
そして3家がそれぞれ国内貴族の派閥を取り纏めているのだが、そのスタンスは単純に分けると王家派、貴族派、中立派といったところであり、伝統的にそれぞれのトップを侯爵家が務めているのだ。
タスベルのパーシェドル侯爵家は貴族派を取り纏めており、ロストのアッガイト侯爵家は王家派の筆頭だ。
とはいえよくあるようなドロドロの宮廷闘争を繰り広げているというわけではなく、国益を最優先として各派閥の主張や要求を取り纏めて調整し、国王に進言していくのが役割である。
各派閥のトップ同士なので馴れ合うことはできないが、特に互いを嫌っているということはないし、時に内密に会合を行ったり協力したりすることも多い。
3候家で内務大臣、外務大臣、財務大臣を持ち回りで務める事にもなっており、相互で監視しあっていて決定的な対立が起こらないような体制ができているのだ。
しばらくして会議室に国王が数人の文官を伴って部屋に入ってくる。
すぐさまタスベルとロストが立ち上がり臣下の礼をとる。
王は鷹揚に頷くと一番奥側の席に着く。タスベルとロストもそれに倣って席に座り、文官達は王の両側に別に用意されている椅子に腰掛けた。
これもいつもの事であり、必要に応じて他の大臣や事務官などが出席することもある。
ただ、ひとつだけいつもと違うことがあった。
「さて、この度はパーシェドル候が緊急にとの呼びかけであったが、この場にカリシェタ候が居ないのにも理由があるのであろうな?」
王が顎髭を玩びながら問いかけ、タスベルも「その通りです」と答える。
その言葉通り、3侯爵の残りのひとりである、カリシェタ侯爵パッセの姿がここにはない。
本来タスベルやロストと同格であり国家の重鎮であるカリシェタ候がこういった会議に姿を現さないことは滅多にないのだが、今回は敢えて国王の許可を得た上で呼ばなかったのである。
「近年、光神教教会が傷病者の治療と生活に必要な魔法具の製造販売を独占していることで種々の問題が起こっていることはご承知のことと存じます」
「無論だ。これまでにも貴公等を交えて議論を重ねてきたであろう。といってもまだまだ対策と呼ぶにはほど遠いがな」
「……なるほど。だからパッセを外したというわけか」
得心したように頷くロスト。
3侯爵の中で最も教会と近いのがこの場にいないカリシェタ侯爵であり、現在のところ大きな力を持つ教会の存在を王国としても無視できない以上必要な立場ではあるものの、これから話す内容は今の段階では教会に知られるわけにはいかないのだ。
タスベルの言わんとすることを読み取った国王とロストの表情を見て取り、タスベルは息子に起こった出来事を話し出した。
「……以上が治療を行ってくれたイオリ殿の提案となります」
息子であるツヴァイが負傷し、教会の治癒師の治療の結果重体となった。そしていよいよ重篤となり覚悟をしなければならないと思い詰めていたところに現れた伊織達と、目の当たりにした理解が及ばないほど高度な治療法、そして見たことのない道具の数々。
話を聞いただけでは俄には信じられない内容だったが、同時に国王とロストに手渡された医学書と魔法具の解説書を見て納得せざるを得なかった。
王宮で使われている最上級の紙が粗末な敷き紙にしか見えなくなるほどの滑らかで光沢のある美しい紙に、どのように描いたのかさえ想像もできない美麗な挿絵や図。あり得ないほど整えられた装丁。
内容以前に、神が作った天上の物だと言われても信じてしまうであろう程の書籍を手にすれば信じるしかない。
そして、書かれている内容も専門家では無い2人が流し見ただけでも明らかにカタラ王国はおろか大陸西部地域全土の水準を遥かに超える高度なものだったのだ。
「それで、その者達の身分、南部の大国で王族と同等というのはどうなのだ? それも一国ではなく複数の国で、というのは些か理解できぬのだが」
「陛下の疑問は尤もなことでございますが、私自身がオルスト王国、それにグローバニエ王国の王都で両国の国王陛下と謁見し確認しております。
どちらも国王自らの口で『国王に次ぐ権限を保証する』と明言されました」
淡々と述べるタスベルの言葉をロストが鋭い声で遮る。
「ちょっと待て! 先ほど貴公の口から子息の治療を行ったのは15日ほど前だと聞いた。だがパーシェドルから河を下ってオルストまでは風が良くても一月は掛かるはず。陸路で山越えでも同じほどであろう。
貴公はペテンの類で騙されているのではあるまいな!」
当然の疑問だろう。
この世界、いや交通手段が徒歩や馬、帆船しか存在しない中近世の地球に於いても距離というのは最大の制約だ。
「信じられぬだろうな。いや、体験した私自身未だに信じられぬ思いであるが、彼等は人を幾人も乗せて空を、鳥の何倍もの早さで飛ぶことのできる荷車のようなものを所有しているのだ。
それに乗って早朝領を出発し、我が国と南部を隔てる山の上を飛び、夕暮れ前に到着したのがオルスト王国の王都オルゲミアだったのだ。
話に聞いていたとおり大河の中州に築かれた壮麗な王城をペテンで用意することなど出来ようはずもない」
しばらくの間会議室が沈黙に支配される。
タスベルの言葉に声を失っている国王とロストは勿論、普段一切の感情を出さずに書記に徹している文官達ですらあまりの内容に驚愕の表情を張り付かせたまま記述の手を止めてしまっていた。
「オルスト王国とグローバニエ王国で治癒師と魔法具の技術者を40名ずつ派遣できるとのことです。
その人員を一月ほどイオリ殿達が指導した後に数名単位で各地に派遣して弟子を募り、最終的にひとり当たり100名ほどの治癒師や技術者を育成するという計画で、その資料も必要な数の2倍程度を準備してくれるとのこと」
「……これほどの資料を、仮に弟子全員に配布するとなるとそれだけで4000冊。その倍とは……」
並べられたのは千貢を超えるほどの分厚い書籍、解剖学、薬学、傷病例と治療法、治療術式、魔法具の解説書、魔法具に刻む魔法陣、の6種である。
単純計算で48000冊。
写本で作ろうとすれば数百人の職人が数十年の歳月を掛けなければならないだろう。それも、挿絵や図の精巧な模写など望むべくも無い。
にもかかわらず事も無げにそれだけの数を準備できるというだけで彼等の常識が音をたてて崩れていくのを感じた。
「最早理解するのは諦めた方が良さそうだな。だが、それが本当に実現できるのならばカタラにとって表しきれないほどの力になるだろう」
王が意思の籠もった力強い目をタスベルに向けて何度も頷く。
ここに来て教会が治癒師や魔法師を独占していることの弊害は無視できなくなってきている。
王侯貴族ですら怪我をしたり病気にかかれば教会に要請して治癒師を派遣してもらわなければならず、それには高額な費用が掛かる。
その上公国を総本山として帝国を中心に勢力を伸ばしている教会に対して各国の王家といえど命令することができないのだ。
無論、現在のところ教会側も国の中枢と決裂することの無いよう要請には従順に従っているのだが、中央の目が行き届いていない辺境では教会の専横も度々問題となっている。
その状況の中、教会に頼らなくても治療や魔法具の制作ができる態勢をカタラ王国が確立し、同盟国へも人材を供給できるようになれば各国に対してカタラ王国の発言権を高め、主導的な立場を手に入れることも充分にできるだろう。
勿論国内においても王家と侯爵家の権威を高め、内政を安定させる効果が間違いなくある。
当然、派遣される治癒師や技術者に対して十分な待遇と絶対的な安全確保を用意する必要はあるが、得られる効果からすれば微々たるものだ。
教会側がその動きを知ればかなりの抵抗をすることが予想できるし、そのためにもカタラ王国だけでなく同盟各国と協調して同時に人材育成をするのが必要だろう。だがそれも費用と護衛をカタラ王国で負担すれば一定の主導権を維持できる。
「それで、その者達の要求は何だ? それだけのものを提供するのだ、普通の対価ではあるまい」
「彼等の要求は西部諸国にある遺跡の正式な調査権、古代魔法王国に関する資料の供与、10数年前に大陸西部のどこかの国から追放された魔術師の足跡に関する情報、それから……彼等が教会と対立したときに不干渉を貫くこと、です」
「つまり、その者達は教会と争うつもりということか」
「必ずしも彼等が教会に対して戦いを仕掛けるというわけではありませんが、彼等の求める情報を教会が持っている可能性が高いために、いずれはぶつかることになるかと」
「だが、教会は多数の傭兵を抱えている。魔術師もだ。下手に争えばただでは済むまい。支援を求めているわけではないのか?」
ロストの問いにタスベルは首を横に振る。
「オルスト王国の国王陛下から警告を受けた。彼等に協力を頼むのは問題ないが決して利用しようとしないでおけと。
彼等がその気になればどれほど厳重に防御を固めようが、万の軍で相対しようが瞬く間に蹂躙されるだろう、とな。
オルスト王国は南部の雄と言われるほどの大国で、王都の規模から推測できるだけでも我が国とは比較にならぬほどだ。
そしてその北にあるグローバニエ王国もまたそれに互するほどの大国。
その両国が彼等を王族と同等に遇しなければならないという事実だけでも彼等の持つ力が計り知れぬものであると証明している」
タスベルの言葉に腕を組んで考え込む国王とロスト。
伊織達の要求自体はそれほど問題にはならない。
元々遺跡に関する資料は教会が勃興する以前に調査された資料がわずかにある程度で、今となっては大した価値もなく書庫の片隅にしまわれたままのはずだし、追放された魔術師の情報などほとんど残っていない。
それ以外の、遺跡の調査権は教会に対しては黙認しているだけであって公式に独占を許しているわけではない。だから伊織達に調査権を認めても特に問題はないのだ。
最後の教会との諍いに不干渉を貫くというのだけが問題だが、それすらも教会に対する命令権を実質的に諸国が持っていない以上教会を保護しなければならない根拠もまた無いということだ。一般人が巻き込まれるような事態が起これば完全な不干渉とはいかないが、それでもある程度の被害ならば許容できるだろう。
「とにかく、現在の教会に関する問題を軽減させるには有効な申し出ではある。拒否するわけにはいくまい。追加で要求することがないと約束してくれるのであれば受けようと思う。
無論、オルスト王国とグローバニエ王国から派遣される者達の待遇や費用は全て我が国が保証する。
もしその中に永住を希望する者がいれば相応の地位を持って受け入れよう。いや、貴重な治癒師や技術者だ。むしろ独り身であれば身の回りを身元のしっかりした未婚女性に任せて我が国に根を下ろしてもらっても良いな。
それから、安全については万全を期すことにせよ。万が一の事があれば両国に顔向けできんし、教会がどのような抵抗を見せるか予測できぬ。
カリシェタ候へは余が直接話をしよう。教会と近しいとはいっても我が国の重鎮であり信頼する臣だ。一人蚊帳の外では不満を持つだろう。詳細は伏せた上で蔑ろにする訳ではないと伝えてやらねばならん。
それと、パーシェドル候」
「はっ!」
「そのイオリ殿達と面談を行いたい。
真意も探らねばならぬし、会ってもいない者からの提案に全面的に国の行く末を左右させるわけにはいかぬからな」
王がそう締めくくり、3者の会議は終了した。
「おおっ!! 凄い!!」
街道を東に向かうLAPVエノク軽装甲車の車内で感嘆の声を漏らすのは、敗血症の後遺症もある程度回復した侯爵令息であるツヴァイだ。
一時危篤状態だったとはいえ病状が改善し始めてからは若さのせいか見る間に体調を回復させていった。
元々騎士達と共に領地の視察を行ったり、害獣を駆除する程度には頑健な肉体を持った若君である。痩せ細っていた身体も回復するにつれて増えていった食事量に比例して元の状態に戻りつつある。
そして壊死していたために切断せざるを得なかった右足は伊織が義足を作った。
カーボンファイバー製の骨組みにシリコンの皮膚を使った、見た目では健常者とほとんど見分けがつかないほどの物に、さらに内部に魔法陣を組み込んで稼働するようにした魔法具だ。
訓練次第では自分の足と遜色ないほど動かすことができるようになる。
数日前にベッドから動けるようになったツヴァイに訓練を始めたばかりであり、まだまだ満足に扱うことはできていないがそれでも少々ぎこちないながらも歩く程度はできるようになってきている。
元々多少は魔法の適性があったようで、それも助けになっている。
そして治癒師や技術者の調整やら受け入れ準備やらでオルストやグローバニエの間を飛び回っている英太と香澄以外の伊織達は、治療が一段落して時間ができ、資料の製本もある程度目処が立ったのでパーシェドル侯爵領内にあるという古代魔法王国時代の遺跡を見るために出かけることにした。
そしてそれを聞きつけたツヴァイが道案内を申し出て、こうして同行することになったのである。
「先生! このジドウシャという物は凄いものなのですね!」
ツヴァイは年齢は20歳を超えているはずなのだがこうしてエノクの後部座席ではしゃぐ姿は少年のようだ。
どうも元来明るく人懐っこい性格らしく、侯爵家の跡取りとしてしっかりとした面はもっているものの、ともすると勢いに任せて突っ走るような危なっかしい部分があり、怪我をしたのもそういった理由があるようだった。
そしてツヴァイ自身病床で死を覚悟したのを救い、見たことのない技術や道具、深い知識と見識を持つ伊織に心酔してこうして何かとつきまとう事になったのである。
技術や知識はともかく、オッサンのろくでもない性格に感化されないことを祈るばかりだ。
ちなみに落ち着きのなさも生来のものであるようで、父親であるタスベルは手綱を握れる伴侶を探すのに苦慮しているらしい。
車内には運転席に伊織、助手席にはルアが座り、後部座席にリゼロッド、ツヴァイ、護衛の騎士が2人乗り込んでいる。
勿論侯爵家嫡男であるツヴァイの護衛がそれだけの筈はなく、のんびりと(あくまで伊織の主観的に)走るエノクの後ろから馬に乗った騎士が5騎ついてきている。
目的地である遺跡は侯爵邸のある街から一刻程度の距離にあるらしい。
街も遺跡も河から程近い位置であり、農地に適した平野の一角にある。
やはり人が住む場所というのはそれなりに条件が整ったところを選ぶものであり、その点からもさほど遠くない場所に遺跡があるのは自然なことなのだろう。
遺跡の近くには村もあり、そこまでは街道が整備されている。
そこから遺跡までは整備されてはいないものの以前に教会の発掘隊が出入りしていた道が残っているという話だった。
「あ、その先に村と遺跡の分岐点があります。今でも時々教会の者達が来ることがあるらしいので道は大丈夫なはずです」
その言葉通り、分岐点は表示などはされていないが踏み固められた道が遺跡の方角に向かって続いている。
幅は2メートル無いくらいなので少々狭いが軍用車であるエノクには何の問題もない。速度は落としつつ、無遠慮に先に進んでいった。
分岐点からおよそ1㎞ほど進んだところに遺跡はあった。
周囲の木々が目隠しのようになっていたために近づくまでは全貌がわからなかったのだが、遺跡の面積は幅がおよそ300メートル、奥行きは100メートルほどで道から見て横長の形状をしている。
オルストの時のような地下に埋もれているというわけではなく、大部分が地上に露出しているのだがその分損傷も激しく、ほとんどが瓦礫の山といった風情である。
ただ、いくつかは地下に埋もれている建物があるようで、教会の発掘隊が掘り起こしたのであろう入口もそこここに点在していた。
遺跡の入口付近の目立たない場所にエノクを駐めた伊織達は、まずリゼロッドがいつものように紙に遺跡の全体像と建物の位置を記していく。
伊織はその間にタクティカルライトとデジタルカメラを取り出し、手近な位置にあった建物を確認する。勿論ルアは抱き上げて、ツヴァイと護衛の2人も後に続く。
騎馬で一緒に来た騎士達は馬をエノクの近くの木に繋ぐと周囲を確認するといって離れていった。森狼や人を襲うことのある大型の猿が森に生息していると聞いていたのでそれらを警戒するためだ。
いくつかの建物を見て回った伊織だったが、地上に露出している部分ではめぼしいものを発見することはできなかった。
大部分が朽ちており、刻まれていたであろう意匠や文字も判別することができない。
程なく遺跡の配置などを書き込み終わったリゼロッドが合流する。
「う~ん、どうも普通の街の跡みたいね。配置に不自然な部分は無いからいくつかの場所の地下を見てみるしかないわ。ただ、状態を見るとあまり期待できそうにないわね。規模も小さいし」
「まぁ最初から当たりって訳にはいかないだろうからな。けど、奥側に宗教施設っぽいのはあるし、教会が掘ったらしい地下への入口もあるから見てみよう」
不満げなリゼロッドを宥めるように肩を竦めながら伊織が答える。
そしてタクティカルライトを各自に配り、宗教施設らしき建物跡にあった縦穴まで行く。
「随分と雑な穴の堀方してんなぁ。まぁ教会の連中もあまり期待してなかったのかも知れんが」
伊織の言葉通り、穴は直径1メートル弱で、埋まっていた部屋の天井をぶち抜いたように開いている。
一応木板で簡易な蓋がされていたために雨水が入り込んだりはしていない様子だ。
周囲には地下へ続く階段があるはずだが、それを発掘していたような形跡は無い。もしかしたら自然崩落で穴が開いていたのを広げたのかも知れない。念のためにロープを建物の外にペグを打ち込んで固定し、各自別のロープを腰に繋ぐ。複数の人間が同時に崩落に巻き込まれないようにするためだ。
そして穴の上から縄ばしごを降ろして強度を確認し、まずは伊織が降りる。
といっても天井はそれほど高いわけではなく、せいぜい2.5メートル程度降りれば床に足がつく。
タクティカルライトで周囲を照らして安全を確認してから伊織が合図すると、おっかなびっくりルアが縄ばしごを伝って下りてくる。タクティカルライトは紐で首からブラブラされている。
と、さほど降りる間もなく伊織がルアをヒョイと抱き上げてしまった。どうやら見ているほうが恐いようだ。
折角頑張って降りていたのに途中で中断させられてしまったルアはというと、そんなことは気にならないようで伊織の首にギュッと抱きついて嬉しそうに笑みを浮かべると、首に下げていたライトを思い出して点灯させ興味深げに周囲を照らし始めた。
次に降りてきたのはツヴァイだ。
その後に2人の護衛、最後にリゼロッドが降りる。
「全員で降りてきてどーすんだ」
「あ、あはは、僕も遺跡は見たことありますけど中に入ったことは無かったので、その……」
暗に“オマエらだ”と言われたのがわかったのかツヴァイが言い訳し、本来止める役割だったはずが一緒になって降りてきてしまった護衛の騎士は気まずそうにそっぽを向いている。
まぁ気安い関係が築かれているのは良いことなのだろうが、どうも主君の令息とその護衛といった関係よりも同性の友人といった雰囲気だ。普段のツヴァイの態度が透けて見えるようだ。
地下の部屋は広さが20畳ほど。
小さな祭事場のようなものであるらしく、一角に演台のような部分と壁にいくつかの魔法陣の痕跡らしきものが残っている以外は見るべきものは無く、その魔法陣もほとんどが擦れて判別することはできそうになかった。
それでもツヴァイなどは初めて見る遺跡内部に興味が引かれたらしくあちこちをライトで照らしていたが。
早々に見切りをつけた伊織は先に地上へと戻る。
タバコを吸うつもりだったようだが、縄ばしごに手を掛けた途端に伊織から離れていたルアが慌てて駆け寄ってきたので諦め一緒に登った。
地下から出た伊織はルアを抱き上げて崩落した建物を出る。
といっても目的があるわけではない。
リゼロッドの印象からもこの遺跡に必要とする情報が残っているとは思えないし、今日のところはダメ元といったところだったので落胆しているわけでもない。
英太達が準備を進めている治癒師と技術者の招聘が整うまで特にすることがあるわけではないのでルアを甘やかしながらチョロチョロと暇つぶしをするつもりなのだ。
それで何か手がかりが掴めれば儲けもの。どのみち重要な情報は教会が握っていると思われるので時期を待つしかない。
しばらく遺跡跡をルアと巡っていると、しばらくは興味深そうに遺跡に目をやっていたルアが伊織の腕の中でモジモジし出す。
「ん? どうかしたか? トイレか?」
小さな子供でなければ絶対零度の目線を向けていたであろうデリカシーの欠片も無い伊織にルアはブンブンと首を横に振る。
何度も口を小さく開けて何かを言おうとし、躊躇うように口を閉ざすのを繰り返すルア。
伊織はそんなルアを、滅多に見せないクセに必要なところではちゃっかりと見せる穏やかな目で見ながら急かすことなく言葉を待つ。
「あ、あの、えっと、う……パ、パパ! って、呼んで、も、良い?」
躊躇いながらも、意を決して口にするも、途中で失速して声が小さくなる。
伊織はそんなルアの言葉に一瞬面食らったような表情をする。
それを見たルアの表情が沈み、顔を俯かせた。
伊織はというと、フッと軽く笑みを溢すと、グシグシと少々乱暴にルアの頭を撫でる。
「良いぞ。心配しないでもルアを見捨てたりしないから安心して好きなように呼ぶと良い。それからして欲しいこと、やりたいこと、欲しいものがあれば遠慮するな。もちろんダメなことはダメって言うし、悪いことをすれば叱ったりもするが、そんなことでルアを嫌いになったりしないから」
伊織の言葉はしっかりとルアの心に届いたらしい。
一際強く伊織に抱きつくと、小さな嗚咽を漏らし始めた。
ルアの顔が押し付けられて伊織の肩口が涙でジットリとしてきた頃、ようやく落ち着きを取り戻したルアは恥ずかしそうに顔を真っ赤にしながらもニコニコと笑みを浮かべた。
「えっと、パ、パパ、ノド乾いた、その、何か、飲んで、良い?」
甘えることに慣れておらず、おずおずとした様子ながら自分の欲求を、伊織にしがみつく以外で初めて口にしたルアに、伊織が優しく頷く。
これまではルアがして欲しいと思っているであろう事を伊織やリゼロッドが予想して問いかけ、ルアはそれに首を縦か横に振ることで答えていたのだ。
これからは少しずつ子供らしさを取り戻していくのだろうと思えた。
エノクにルアのために飲み物を取りに戻るため歩きだした伊織だったが、せっかくの穏やかな雰囲気をぶちこわす声で呼び止められることになった。
「おい、貴様! ここで何をしている!」
「ルア、紅茶とミルクティー、スポーツドリンク、ラムネもあったっけ、どれが飲みたい?」
歩く伊織の横手から軽甲冑を身につけ、腰から剣をぶら下げた騎士風の2人の男。その一方が鋭く誰何する。
が、声を掛けられたオッサンはというと、まるで聞こえていないかのようにガン無視して抱えているルアにドリンクのオーダーを聞いている。
ルアの方が男の大声に驚いて伊織にしがみつく手に力を込めていた。
騎士風の男達の方はまさかこれだけの至近から声を掛けたのにわずかも目線を寄越すことなく無視されるとは思ってもいなかったようで、スタスタと通り過ぎようとしている伊織に唖然としてすぐに次の行動に移ることができずにいた。
「ま、待て! 貴様、聞こえないのか!」
完全に通り過ぎた後、慌てて伊織の前に走り出る男達。
「うるせぇ」
その顔を冷ややかに見て放たれた一言に、またもや凍り付く。
「な、ななな……」
酸欠の金魚のように口をパクパクしている男に、仕方なさ気、ホントーにめんどくさそうに大きくため息を吐いて見せ、伊織はようやく立ち止まる。
「で? 何か用か?」
「ぐっ……き、貴様はここで何をしている! ここは光神教の教会が管理する遺跡だ。許可の無い者は早々に立ち去れ!」
「管理、ねぇ。ひとつ聞くが、それは誰が許可したんだ? ここの土地の管理を認める許可証は? わざわざ偉そうにそう言うってことは当然国なり領主なりの公式な許可があるんだろうな?」
教会が遺跡を独占しているのは許可を受けたわけではなく単に黙認されているだけだということはタスベルに事前に確認してあることだ。
なので厳密には遺跡に立ち入った者に対して排除する権限など教会には無い。
「そ、そんなことは貴様の知ったことではない! 教会の方針はこの国の王からも認められているのだ。わかったらさっさと立ち去れ!」
カタラ王国内で活動しているにも関わらず尊称はおろか敬称すらつけずに“王”と呼ぶ不敬とも取れる言葉を使う騎士もどき達。
片や伊織は、先程までのルアに向ける態度とは別人のように意地の悪い顔でニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる。
「いいのかねぇ、そんな態度を取って。あんた達に責任、本当に取れるのかぁ?」
人間というものは自分が正しいと心底思っていたとしても、相手が自信満々だと途端に不安になるものである。
ましてわずかでも負い目があればどれほど有利な立場であっても冷静な判断をするのが難しくなる。
「い、いいかげんな事を言うな! 貴様等などこの場で切り捨てても何の問題もないんだぞ! 領主ですら教会に逆らうことなどできないのだからな!」
そうして言ってはならないことを口走る。
「ほぉ? それはそれは、聞き捨てならないことを言われるなぁ」
不意に男達の背後から別の声が掛けられた。
「いつから父上、パーシェドル侯爵は教会の部下になったのかな? それに、この遺跡の管理を教会に認めた覚えなど無いのだが」
「ツ、ツヴァイ、様?」
慌てて振り向いた男達の前に、怒りに顔を引きつらせた侯爵令息、ツヴァイと護衛騎士が立っていた。
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