第46話 光神教弱体化計画

 侯爵領行政府の応接室でイライラとした様子を隠すことなく舌打ちと貧乏揺すりを繰り返す1人の男。

 白い法衣を纏いながらもでっぷりと太り、脂ぎったその姿は聖職者というよりも悪徳商人といわれた方がよほどしっくりとくる。

 ソファーの真ん中で偉そうにふんぞり返っている男の後ろには、それよりは少し簡素な印象の法衣の2人の男が立って控えていた。

 2人とも座っている男ほどではないがやはり太り気味で不健康そうな肌つやをしていることには変わりない。

 

 男が不機嫌さを隠そうともしないのは部屋の中に自分達以外の者の姿が無くその様子を見られることがないというのもあるが、何よりも侯爵子息の治療にわざわざ出向いてきたにも関わらず半刻(約1時間)以上もこうやって待たされているからだ。

 それも、これまで男達が治療に来ればすぐに私邸である奥の建物に通されていたのに今日は行政府を兼ねた公邸の応接室だ。

 光神教の高位聖職者として司教の職にある自分はこれまでパーシェドル侯爵領においても様々な面で優遇されている存在だった。

 とはいえそれは侯爵との関係が良好だったからというわけではない。

 領内の多くの民衆が光神教徒であることと共に、生活に不可欠となっている魔法道具の多くが実質的に教会の専売であり、怪我や病気の治療ができる治癒魔法の使い手が全て教会に所属する司教や司祭、神官しかいないからだ。

 

 そんな優遇されることに慣れきった司教の男だったが現在の扱いに対して不満に思うのと同時に心当たりもあった。

(いつもならば侯爵令息の治療が最優先だったはずがこれほど待たされるということは、どうやら助からなかったか)

 カタラ王国有数の高位貴族である侯爵家令息の治療だ。当然光神教としてもいいかげんな治療はできない。だからこそ領内で最も治癒魔法に長けた司祭2人が治療にあたっていた。

 だが、治療開始直後は単純な怪我としてすぐに回復が見込まれていたものの、日を追う毎に容態は悪化していった。

 無論、治療には全力を尽くしてきたし、自分達に手抜かりがあったなどとは考えていないが、2日前の治療ではもはや手の施しようのない程衰弱し、身罷るのも時間の問題という状態だった。

 

 思考がここに至り、司教は責任回避の術を模索する。

 とはいえ、傷病によって助からないことなどよくあることであるし、治癒魔法は万能ではない。

 心証は良くはないだろうがそれを気にしていては治療などできないし、侯爵にもその程度のことはわかっているだろう。直接責任を問うようなことはしないだろうと楽観していた。司教という立場である自分が今回同行しているのも教会として全力を尽くしたという証明になるだろう。

 そう考えて司教の男は落ち着きを取り戻してソファーの背もたれに身を沈めた。

 

 それからさらに4半刻ほど経過してようやく応接室の扉が開かれ侯爵が部屋に入ってきた。

「待たせて申し訳なかった。少々たて込んでいたものでな」

 立ち上がって頭を下げた司教達に心のこもらない口調でパーシェドル侯爵が声を掛け、そのまま対面のソファーに腰掛ける。

「いえいえ、お忙しい侯爵様がこうして時間をつくって頂けているだけで望外の事。ところで、初めて目にする方がいらっしゃるようですが」

 そう言って司教は一緒に入ってきただけでなく、侯爵の隣に使用人達が運んできたソファーに座った伊織とリゼロッドに目をやる。

 侯爵の後ろに控える薬師の老人はこれまでも毎回立ち会っていたので彼等のことでは当然無い。

 

「彼等のことは後ほど話すこととして、司教殿にはこれまで息子の治療をお任せしてきたわけだが、少々気になることがあってな。

 今日はどのような治療をするつもりなのか確認させて頂きたい」

 侯爵の言葉に訝しげな表情をするものの問いには答えなければならない。

「率直に申し上げて御令息の容態は芳しくありません。我等の力が及ばぬ事は忸怩たる思いですが、最期まで全力を尽くす所存であります」

「本日は少しでも苦しみが除かれるよう、教会に伝わる『霊薬』をお持ちしました」

 司教に代わって後ろに控えていた2人の司祭が質問に答える。実際の治療を行ってきたのはこの者達なので侯爵もそれを咎めることはしない。

 

「ほう、『霊薬』ですか」

 侯爵は身を乗り出して司祭の1人が懐から取り出した小瓶を渡すよう手を差し出す。

 その行動に、司祭は対応を目線で司教に訊ねるが頷いたのでそのまま侯爵に渡した。

 ところが、侯爵は確認する事もせずにそれをそのままリゼロッドの手に乗せる。

「蒸留した水にグラマの根とアセカミの葉を混ぜて煮だした物ね。それに水銀が微量。多少の倦怠感を取る効果はあるけど治療には何の意味もないわね。むしろ常用すれば身体を壊すわよ」

「な?!」

 リゼロッドが素早くテーブルに簡素な魔法陣を描くとその上に『霊薬』を乗せて調べる。おそらくは錬金術の一種なのだろう、内包する含有物を正確に言い当てた。

 続いて告げられた『治療に効果は無くむしろ毒』という言葉に司祭達が驚愕の声を上げる。

 

「……なるほど。どうやら教会の方々はこの期に及んで効果のない薬を高値で売りつけるつもりだったようだな? 侯爵家も随分見くびられたものだ」

 憎しみすらこもっているような侯爵の言葉に司教が慌てる。

「で、出鱈目を言ってもらっては困ります!『霊薬』は教会でも長年効果が認められているもの。生命の力を高め、より強い身体を作る効果があるのです。

 そちらの方がどなたかは存じませんが、おおかた教会の権威を面白く思わぬ輩が差し向けてきたのでしょう。

 確かに御子息に関しては我等の力が及ばず、侯爵様のご心痛はいかほどのものかと……」

「まるでツヴァイが既に死んだとでも言わんばかりの仰りようだが、残念ながら息子は生きている。既に病状はかなり回復し今は休んでいるがな」

 

「?! か、回復した、ですと?」

 信じられないといった表情で司教と司祭達が顔を見合わす。

 彼等の見立てでは足の怪我からは病魔が入り込んで全身を侵し、もはや死を待つだけの状態だったはずだからだ。

「し、信じられませんな。治療にあたったこの司祭達は教会でも屈指の治癒師です。その者達が手の施しようがなかった御子息を。そ、それに、カタラ王国の治癒師は全て教会に所属しているはず…」

「彼等が息子を救ってくれたのだよ」

 唾を飛ばしながら言い募る司教の言葉をぶった切って侯爵が伊織とリゼロッドを手で指し示す。

 

 3人の視線が伊織達に集まるが、当の伊織は鼻をほじりながら小馬鹿にしたように司教達に視線を返している。

「あ~、まぁ、どこかの馬鹿で無能な奴がクソみたいな治療したせいで死にかけてたのが気の毒でなぁ。

 本来なら最初にきちんとした処置をしてればとっくに歩けるようになってたはずなのに、意味がないどころか害でしかない“お医者さんごっこ”で、可哀想に結局片足を失う羽目になった。おまけにもしかしたら後遺症も残るかも知れん。

 で、今回そのクソがノコノコやってきたって聞いたんで、顔を見てやろうと思ってな」

 伊織の容赦ない言葉に司教達3人の顔色が変わる。

 

「ぶ、無礼な! 教会に所属していないということは貴様等は治癒師でもない、素人であろう! 何を根拠に我等を侮辱するのだ! 理由によっては…」

 司教という立場から、教会内の主だった治癒師の顔はある程度把握している。

 といっても写真などは存在しないし、都市間の行き来にかなりの時間が掛かる中近世然とした異世界なので会ったことのない者も多いのだが、それでもそれほど実力のある治癒師ならば話くらいは聞いたことがあるはずだ。

 にもかかわらず伊織達のような者の話は聞いたことがないし、彼等に対する態度からもとても教会に所属している者ではないと察せられた。

 さらに言葉を重ねようとした司教の額に、伊織の指が弾き飛ばした物が当たって言葉が途切れる。

 

「侯爵閣下の御子息の患部から出てきた物だ。

 どうやら落馬したときに突き刺さった木片の欠片が残っていたらしいな。

 怪我をしたときは傷口を洗浄して異物を全て取り除くのは基本中の基本だ。まして朽ちた木片なんざ雑菌の温床だからな。

 そんな当たり前のことすらせずに体内にそれを残したまま魔法を使って傷口を塞ぎ、あまつさえ全身ではなく患部にだけ活性化の魔法を掛けたことで病原菌まで活性化させた。

 さらに、そのせいで炎症を起こした患部を、原因を確かめもせずに強引に炎症を抑えたことで免疫反応が抑制されて壊死が始まった。

 挙げ句の果てに薬師の処方した薬を拒否して効きもしない薬を飲ませるだけで放置。

 よくもまぁ、ここまで間違ったことを堂々とやらかしたとある意味感心するねぇ。

 初期治療さえきちんとしていれば魔法なんざ使う必要すらなく治ったはずだし、少なくとも全身に治癒魔法と生命力を活性化させる魔法を施せば重症化することはなかったはずなのに、わざわざ重病患者を作りだしたんだ。

 ……いったい何がしたかったんだ?」

 

 言葉を失う司教達。

 言われた内容は半分ほどしか理解できなかったものの、傷口を洗浄し異物を除去しなければいけないことは経験則から広く知られているし、炎症が続いている以上患部に何らかの異常があることはわかったはずだ。

 だが、神の奇跡などと称して視覚的にインパクトを与えるために手っ取り早く傷口を塞いだり腫れを引かせたりする見た目重視の治療が治癒師の常套手段となっていることは確かだし、魔力を節約するために病気治療以外では患部のみにしか魔法を使わないことが多い。

 これは教会が経済手段としてしか治癒魔法を捉えていないという証左であるが、それ以上に病理学の知識が決定的に不足しているからだ。

 教会は単純に治療に使える魔法を古代文明の文献から拾い出して都合良く利用しているに過ぎないのである。

 

「まぁいいや。とりあえず、最初の段階から何をどう判断してどういう治療をしたのか、順を追って説明してくれや。

 侯爵閣下も同じような理由で領民が苦しむことがないように、しっかりと原因究明と再発防止策を執りたいらしいからな。

 教会が傷病者の治療を一手に引き受けてるなら当然そっちにも対策を取ってもらわなきゃならないし」

 呆然としている司教達に、実に素晴らしい笑顔を向けながら伊織は言った。

 もちろんこれは教会の対応に不満を持っているパーシェドル侯爵の意を受けた伊織の意趣返しという面が強い。

 そもそも司教達を一刻近く待たせていたのも、治療を終えた伊織達と侯爵達がゆっくりと朝食を摂り湯浴みをして身繕いをしていたからであり、そこに教会に対する敬意などというものはまったくない。

 

「そ、それは……」

 経緯を説明しろなどと言われても、ろくに考えることもせずに単にいつも通りの手順をなぞっているだけの司祭達に詳しい説明などできるはずもない。

 だが明確に対応の間違いを指摘されている以上無言を貫くことはできないし、相手が王国有数の領主であり、教会の権威で押し通すのは今後の事や教会本部からの評価を考えれば避けなければならない。

 結局、しどろもどろの言い訳をしながら治療の不手際を謝罪し、これまで支払われた治療費の返却を約束して司教達は辞去していったのだった。

 

 

 

 

「さぁ、大したもてなしはできぬが好きなだけ召しあがってもらいたい。外国からの方々の口に合えば良いのだがな」

 そういって機嫌良さそうにグラスを掲げながらテーブルにこれでもかと並べられた料理を勧めるパーシェドル侯爵。

 この場にいるのは侯爵自身と妻であり生死の境をさまよった息子の母親であるパーシェドル侯爵夫人、伊織、ルア、リゼロッド、香澄、英太、それに薬師であるラディウスと騎士団小隊長であるバンゼルクである。

 

 光神教の司教達が帰って行った後、用意された部屋で一眠りした伊織達は目覚めると侯爵令息であるツヴァイの診察を行った。

 まだ多少の発熱はあったが意識は回復しており、切断した右足の状態や身体の状態などを調べ、いくつかの問診も行った。

 幸い意識障害などは無く、敗血症の後遺症と思われる全身の痛みや痺れはあるものの時間の経過とリハビリで改善できそうな範囲で収まったようである。

 もちろん診察に立ち会ったパーシェドル侯爵は大層喜び、今回の関係者を集めたパーティーが急遽行われることになったわけである。

 

 上機嫌な侯爵夫妻はもちろん、大陸西部諸国で摂る初めての料理を無遠慮にがっつく伊織と英太。目を輝かせてワインを楽しむリゼロッドとそれらを少々呆れながら見ながらも同じく料理を楽しむ香澄。ルアも伊織とリゼロッドに挟まれておずおずと一口一口大切そうに食べている。

 心配した虹彩異色症ヘテロクロミアの瞳も、最初は少し驚いたような反応をされたが特に悪い態度を取られることもなく、侯爵夫妻の表情も変わることはなかった。

 

 ラディウスは年相応の落ち着きを見せながらも肩の荷が下りたような穏やかな表情で笑みを溢す夫妻を見ていた。

 少々気の毒だったのは小隊長のバンゼルクで、さすがに甲冑姿ではなく質の良い礼服に身を包みながら緊張でガチガチに固まりながら機械的に料理を口に運んでいた。折角の料理の味もまったくわかっていなさそうだ。

 領所属の騎士団の小隊長とはいえ、領主と晩餐を共にする機会などこれまでなかったのだろう。

 

「イオリ殿、料理の味はいかがかな?」

「大変満足してますよ。何より料理はもちろん、給仕してくれている人達も我々をもてなそうという気持ちがこもっていて、侯爵閣下が普段どれほど慕われているかよくわかります。それに、ワインも極上ですね」

 この捻くれたオッサンが手放しで賞賛するのは実に珍しい。

「恩人たるイオリ殿にそう言って頂けるのは嬉しいですな。普段は厳しいばかりでさぞ煙たい領主だと思われているでしょうが、それでもこうして息子の回復を一緒になって喜んでくれる使用人達や、病状を心配しイオリ殿達を連れてきてくれたバンゼルクのような忠勤の騎士がいる。私は幸せ者ですな。

 そうそう、恩人に閣下などと呼ばれるのは面映ゆい。どうかタスベルと呼んでいただきたい」

 

 タスベルは伊織だけでなくリゼロッドや英太達も恩人として遇するように使用人達に指示していたらしく、対応は至極丁寧で心のこもったものだった。

 食事を終えるとバンゼルクはそそくさと退出していき、眠くなったらしく目を擦り始めたルアは香澄が用意された部屋まで連れて行った。英太もそれに同行している。

 魔術師・錬金術師として薬草にも造詣の深いリゼロッドにラディウスはいたく感銘を受けたらしく、薬品談義に花を咲かせていた2人を呼んで別室に移動した侯爵夫妻と伊織は改めて差し向かいで話をすることにした。

 

「改めて息子の命を救ってくれたこと、お礼を申し上げる。

 バンゼルクから大陸西部地域の情報や遺跡に関することを知りたいと聞いている。国の内情に関しては詳しくは話すわけにはいかないが、教えられる範囲でまとめておこうと思っている。

 だが、それだけでは私の気が済まない。何か力になれることがあれば何なりと言ってもらいたい」

「そう何度も礼を言う必要はないさ。

 とにかく俺達は西部地域に来るのは初めてだしオルストやバーラで聞きかじった程度の情報しか知らないから、それを教えてもらうだけで報酬としては十分だ。

 ただ、人捜し、っていうか、十数年前に西部地域から追放された魔術師の足跡を追っているんだが手がかりが少なすぎるんでな。

 どうもその追放も魔術師を独占したい光神教が絡んでいるようだし、連中のことに関しても情報を得たいんだが」

 

 伊織の言葉にタスベルは頷いた。

 口調がいつもの砕けたものに変わっているが、これはタスベル自身が『畏まらないでほしい』と望んだものだ。

「ふむ。私も詳しい経緯を知っているわけではないが、元々カタラ王国には魔術師は多くなかったし、少ない魔術師も詐欺紛いの者が大半だったらしい。

 それに魔術師は、何というか、変わり者というか偏屈な者が多くてあまり周囲の者と馴染んでいなかったという話だな。

 だから教会が市井の魔術師を取り締まるように働きかけても反発する者は少なかった。私自身特に関心を持っていたわけではなかったしな。

 それに治癒術師などは教会が取り込んでそれまでと変わらず治療を行うことを約束していたから特に反対する者もいなかったのだ。むしろ騙して治療もせずに高額な金銭を要求するような詐欺師も多かったために歓迎する向きもあったほどだ」

 

 宗教が伝播し広がるには相応の理由がある。

 その理由として最も大きなものが武力による強制と世俗的な利益だろう。教えの内容そのものは国家的な広がりにはなり得ないのだ。

 光神教もまた遺跡から発掘された遺物を基にした経済力をもって帝国中枢に勢力を広げ、その力を背景に他者の力を削いでいきながら地盤を固めていった。そして魔法と医療というこの世界では欠かせないものを独占することによって今の影響力を築いたのだ。

 ある程度満たされた環境ならば思想だけで拡がることもある。先進国で新興宗教が広がるのと同じ理由だが、この中近世然とした発展途上の世界では実利のない思想だけの宗教などに傾倒できるような環境がない。

 

「ただ、最近の教会には不満を持っている者も多くてな。といっても真面目に聖務をこなし民衆からの支持も篤い者達もいるから一概には言えないのだが」

 そう言うタスベルの顔は複雑なものがよぎっているようだった。

 タスベルが教会に不満を持っていることは確かだが、それでも彼自身光神教の信徒でもあるのだ。

 これも別に不思議な事ではなく、光神教の首脳部達の質はともかく教えそのものは普遍的な価値観と地域に根ざした風習や生活の知恵、共同体を維持するための戒めなどを光の神であるキーヤ神への信仰という形で纏めたものだ。

 だから大陸西部地域で光神教を信仰する民衆は多く、タスベルだけでなく多くの貴族も同様にある程度の信仰心は持っている。

 

「なるほどねぇ。まぁ別に誰が何を信じたところで俺達は構わないんだが、とりあえず俺達が知りたい情報は教会が持ってる可能性が高いんだよなぁ。

 ……ひとつ聞きたいんだが、生活必需品と医療なんていう生活に密接したふたつが国以外の組織に独占されてる状況をどう考えてるんだ?」

 伊織のこの質問にタスベルは苦虫をまとめて口に放り込んだような顔をする。

 その表情が全てを物語っているようだ。

「それに関しては迂闊だったとしか言いようがない。言い訳にもならんが。

 ここに来て陛下や我々高位貴族も危機感を抱いてはいるのだが、技術が教会にしか残っていない現状ではせいぜい薬師を教会の影響から引き離して保護下に入れることと王家直轄の研究機関を創っている程度だ」

 

 タスベルの言葉に伊織は頷くと、壁際に控えていた使用人に伊織が宛がわれている部屋からバッグを持ってくるように頼んだ。

 重要なことだと考えたのか、ほんの2分程で戻ってきた使用人からデイパックを受け取ると、中から紙の束をいくつか取りだしてタスベルとラディウスの前に置いた。

「?……! イオリ殿、これは……」

「医学書と解剖学の資料をこっちの言語に翻訳したものといくつかの魔法道具の設計図面、魔法薬の製法を記したものだ。まだ製本していないから見てくれは悪いけどな」

 

 伊織の説明を聞きながらもタスベルは信じられないといった表情のまま紙束を捲り続ける。

 同様に薬師であるラディウスも解剖学の資料から目を離せなくなっていた。

 現代地球の医学は数百年に及ぶ年月と幾百万もの膨大な犠牲の上に積み上げられたものだ。そしてその多くは当時の、いや現代の価値観でも非人道的、外道という誹りを免れないような実験と観察を経て纏められたものが基礎となっている。

 この世界の医療水準を現代地球と同等に高めようと思ったら、魔法という特殊な技能を考慮したとしても似たような数の犠牲が必要となるだろう。

 無論世界が異なる以上、全てを適用できるわけではないだろうが、それでもそこに暮らす人間は地球の人間との差異はほとんど見られないのだ。

 タスベルもラディウスもこの世界の人にとってこれらの資料がどれほどの価値があるかわからないほど無能ではない。

 

「その資料を基に人材を育成すれば1年もあれば今の教会よりはマシな治療ができると思う。

 元々治療のための魔法で重要なのは魔力よりも知識だ。もちろん適性のある人間を探すのは手間が掛かるだろうが、それほど特殊な才能が必要というわけではないからそれなりに集めることもできるはずだ。

 魔法道具に関しては素材を揃えて組み込む魔法陣を間違えなければ普通の職人でも作れるものが多い。

 この資料をきちんと製本して必要な数だけ用意するから各国・各地域で医者と職人を育成してはどうだ?」

 伊織はそう言ってニヤリと口元を歪めた。

 

 

 

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