第39話 悪魔の落とし子

 街外れの道を小屋に向かってみすぼらしい格好の少女がトボトボと歩いていく。先ほど伊織達がその後ろ姿を見かけた少女だ。

 俯いた顔は赤みがかったプラチナブロンドの髪で半分ほど隠れて表情は見えないものの、どことなく打ちひしがれた風情で足取りは重い。

 それもそのはず、少女の仕事である海岸の岩場での貝やカニの採取が、見知らぬ男女が狩り場に居たことでできず、いつものように採取した物を売ってパンを買うことができなかったからだ。

 少女にとって磯での採取は唯一の収入源であり、それができなければ食事にありつくことはできない。

 海が荒れた時には何日もろくに食べることができず、小屋の周辺に生えている雑草を海水で茹でた物でしのがなければならないこともある。

 

 かといって、あの見たことのない大人達が居る傍で貝の採取をすることはできなかった。

 少女にとって大人は恐怖の対象でしかない。

 見知った街の大人達でさえ少女を見ると嫌悪を露わにして助けてくれるどころか近づこうとすらしないのだ。

 どれだけ貝やカニを持っていこうがわずかな銅貨しか払ってくれない食品店の男や売り物にならないような固く乾燥したパンしか売ってくれないパン屋の女など、相手をしてくれるだけまだマシなほうだ。

 ましてや見知らぬ、街の外の人間と思われる男女など会えばどんな目に遭わされるか分からない。

 

 小さな身体で、傷だらけの素足を引きずるようにしながら小屋に戻った少女は小さな瓶を持って水を汲むために小屋を出る。

 と、その直後、大きな怒声が響き、少女がビクリと身を固くした。

「おい、居たぞ!」

「逃がすなよ!」

 これまで街の人間が少女が住むこの小屋まで来ることなど一度もなかった。

 それなのに突然、それも4人の男が、明らかに少女を目掛けて足早に歩み寄ってくる。

 何よりもその表情は憎しみを込めた冷たいものであり、少女はわけがわからないものの咄嗟に瓶を投げ捨て踵を返す。

 

 ガチャン!

「チッ! 逃げたぞ!」

「待てっ!」

「きゃっ! 痛っ!」

「手間掛けさせんじゃねぇよ! このガキ!」

 逃げたところで所詮は小さな少女である。大人が追いかければ逃げ切れるものではない。

 ほんの数十メートルも行かないうちに追いつかれ、髪を掴まれて引き摺り倒されてしまう。

「い、嫌、わたし、何もしてない、放して」

 髪を掴んだままの男の手を押しのけるように必死に力を込めるが、非力な子供の力では大した抵抗にもならない。

 

「うるせぇ! 黙って付いてこい!」

 なおも暴れる少女に苛ついたように男は手をあげて殴りつける。

 痛みよりも恐怖でそれ以上身体を動かすことができなくなった少女を男の一人が抱え上げ、少し離れた場所に置いてあった手押し車に乱暴に乗せた。

 そして少女の首にロープを巻き付ける。

「うっ!」

「おい! 絞めすぎるな。死んじまったら意味がないだろ!」

 苦しそうに首のロープを掴んだ少女を見て別の男が叫ぶと、巻いた男は舌打ちしながら少しだけ首元を緩め、ロープの一方を台車の持ち手の部分に縛り付ける。

 

 台車には他にも荷物が載っているらしく、そこから腐った肉のような匂いがしている。

 少女は何が起こっているのかまったく判らず、ただただ恐ろしさで台車に蹲ることしかできなかった。

 それからは男達は無言で台車を押しながら荒れた道を歩いていく。

 鉱山へ向かう道との分岐を北側に逸れて、さらに半刻ほど歩いてようやく男達は台車を止めた。

「降りろ!……チッ、さっさとしろ!」

 ドサッ。

「い、痛っ!」

 周囲を見るような余裕もなく身体を丸めていた少女を、男はまた髪を掴んで引きずり下ろす。

 

「ここで良いのか?」

「ああ、バイデの奴が見たのはここら辺のはずだ」

 引きずられ、殴られ、また地面に叩き落とされてあちこちから血を流しながら苦しむ少女のことなどまるで気にせずに男達が話をしている。

 ここは周辺の街の者が“トコロの遺跡”と呼んでいる場所だ。

 といっても50メートル四方が石畳に覆われているだけで建物跡も何も無い、ただ所々草が石の隙間から伸びているだけの場所だ。

 周囲は木々に覆われ、近くに小川が流れていることからウサギに似た動物や雉のような鳥を食材の足しにしようと鉱夫が帰り際弓を持って立ち寄ることがある。

 バイデという男が数日前に立ち寄ったときにここでバルーガを見かけたらしい。

 

 男達は手早く台車から太い木の杭を降ろすと、それを地面に突き立てて大きな木槌で打ち付けていく。

 1メートルほどの杭が半分地面の下に埋まると、少女をそこまで引き摺って行き、今度は後ろ手に縛り、首に繋がっている方のロープを杭に縛り付けた。

「逃げないように足でも折っておいたほうが良いんじゃないか?」

「手を後ろで縛ってるし子供の力じゃ解けやしない。それにバルーガがすぐに来るとは限らないから、痛めつけ過ぎてバルーガが来る前に死んだら生け贄にならないだろう。第一、あんまり関わりすぎて呪いでも掛けられたらどうする」

「チッ、わかったよ」

「おい! 終わったならさっさと行くぞ。腐肉の匂いでバルーガがきたら困る」

 

 少女には男達の会話の内容は理解できない。

 どうして自分がこんな目に遭うのかも、バルーガというのが何なのかもわからないが、ただ、“生け贄”という言葉だけは何となくわかった。

 あの男達の、少女を見る冷たさと蔑んだような目は、少女のこれからの運命を悟らせるには十分な鋭利さを持っていたのである。

 男達が去り際に撒き散らしていった腐りかけた肉の匂いが辺りに立ち込め、少女はただ絶望で身体を杭に預けたまま身動みじろぎすることもできず、虚空を見つめるだけだった。

 もはや涙さえ流れず、体中を苛む痛みもどうでもよくなっている。

 

 少女が物心ついた頃には既に父親はおらず、母と二人であの小屋で暮らしていた。

 母の話では少女が生まれた頃は街に住んでいたらしいが、少女にはそんな記憶は残っていない。

 母は少女と同じように毎日海岸まで降りて貝やカニ、海老や魚などを捕っては街に売りに行き、引き替えにパンなどを手に入れてきた。

 少女が歩けるようになってからは一緒に海で採取をしていたりもしたのだが、1年ほど前に母は病気になって起きることができなくなってしまう。

 少女は母の代わりに貝などを捕り、街へ売りに行った。

 そして母を助けてもらおうと色々な人に声を掛けたり教会の聖堂にも行った。

 だがそこで少女に浴びせられたのは氷の様に冷たい視線と、自分を“悪魔の落とし子”と呼ぶ数々の罵声だった。

 

 もちろん助けてくれる人など一人もおらず、母の薬すら手に入れることができず、程なく母は亡くなってしまう。

 唯一人少女に優しくしてくれた、笑いかけてくれた、温かい食べ物をくれた、唯一人、少女を愛してくれた母。

 どうしたら良いか分からず、少女は泣きながら街に行った。

 少女自身はその時のことをあまり覚えていない。

 だが、数人の立派な服を着た大きな男が数人小屋にやってきて、床に横たわったままだった母の亡骸を荷物のように引きずり出して、小屋の横に掘った穴に放り込み埋めていった。

 男達は母の亡骸に取りすがった少女を、まるで蠅のように振り払い、一切少女に目を向けることなく去っていった。

 

 それから少女は一人だけで暮らしてきた。

 貝を売って手に入る銅貨も日を追う毎に少なくなる。

 ただ母が今際の際に少女に言った「生きていて、いつか幸せに」それだけを胸に懸命に命を繋いでいた。

 杭にもたれ掛かったままぼんやりと空を見つめているとこれまでの思い出が浮かんでは消えていく。不思議と辛いことではなく、母と過ごした暖かな光景ばかりだった。

 気がつくと、空は紅く染まり始めており、少女の居る遺跡の縁の辺りは木の陰になって薄暗くなってきている。

 

 ガサッ、バキバキ……

 不意に少女の背後の森から何か大きなものが歩いてくるような物音と、フッフッ、という息づかいが聞こえてきた。

「っ!!」

 少女の身体を再び恐怖が襲う。

 絶望していても、それでも尚生きよう、生きたいと思うのは生物としての本能だ。

 杭から身体を起こし、ロープで首が絞まるのも構わず物音の方から少しでも離れようとする。

 そんな少女の目に映ったのは、木々を掻き分けるように姿を現した、山のように大きな身体と、少女を一口で呑み込むことができるほど大きく、ビッシリと鋭い歯が並んでいる口を持つ獣だった。

 

 

 

「英太! 突っ込め!」

 伊織がジープラングラー・ルビコンを運転する英太に指示する。

 遺跡に通じる小道から突然現れた車に巨大な獣、バルーガが足を止めて威嚇する。

 得体の知れない大きな物体が自分に向かってきているとはいえ、バルーガの姿はさらに巨大だ。

 体高が優に2メートルを超え、尾を含めた体長は5メートル近い。

 さらに目を引くのがその巨大な頭だ。

 見た目の印象は猪と虎が合体したような、地球で4000万年前に生息していたという哺乳類の中で歴代最大の陸生肉食獣、アンドリューサルクスの復元予想図に近い外見をしている。

 バルーガにとっては自分の狩りを邪魔する乱入者といったところのようで、逃げずに身体を低くして辺りに響くような低い唸り声を上げて威嚇していた。

 

 

 砂浜でクルーザーを収納し、食事を終えた伊織達一行は崖の割れ目を伝って上に登った。

 しばらく歩いて街道とも呼べない粗末な道に出たところで再び異空間倉庫を開き移動用の車を出したのだが、まずは街に行く前にどこか人目に付かない場所に一時的な拠点を作り、以前森の中でしたように周辺の地図を作成することにしたのだ。

 なので、ランドクルーザーではなく、オルストで遺跡探索に使用した小回りの利くジープラングラー・ルビコンを使うことにして、街の方角と思われる方とは逆の森に向かって移動したのである。

 今回はそれほどの長期間居座るつもりはなく、適当な場所を探して小道を走っていたところ遺跡のような石畳が見えたので向かった。そこで出くわしたのが石畳の広場の隅に子供らしき人影と今にも襲いかかりそうな巨大な動物だったというわけである。

 

 少女とバルーガの間はおよそ10数メートル。巨大な獣にとっては一跳びの距離だ。

 そこに英太がルビコンを割り込ませ、そのままの勢いでその頭に激突する。

 いくらジープを越える巨体とはいえ生き物である。推定で500kgは優にあるだろうが、車体だけで2t超の金属の固まりであるジープに突っ込まれたのではたまらない。

 もの凄い衝突音が響き、バルーガが弾かれ、地面を転がった。

 同時にさすがの世界的RV車もバンパーとフロント部分が大きくひしゃげ停まってしまった。

 すかさずドアを開けて飛び降りた伊織は、ホルスターからデザートイーグルを抜いて、少し足を縺れさせながら逃げようとしていたバルーガの後ろ足に狙いを定めて撃つ。

 

 ドギャン!ドギャン!ドギャン!

 拳銃らしくない金属音混じりの破裂音が響く。

 だが、その全てが命中しているにも関わらずバルーガは森に向かって走ろうとするも、さすがに足取りは重く、撃ち抜かれた方の足は力が入らないようでヨタヨタとした歩き方だった。伊織は今度は後頭部目掛けて撃っていく。

 そこに少し遅れて車から降りた香澄が合流し、M4カービンで逆側の足を狙って打ちまくる。オートで数秒、あっという間に撃ち尽くした弾倉を入れ替える頃には、さすがに頑丈さを誇るガルーダの後ろ足も千切れ、巨体は地響きをあげて横倒しになった。

 なおも逃げようとするガルーダの頭部を伊織がデザートイーグルの.50AE弾で打ち抜き、ようやく絶命した。

 

「ふぃ~! っつか、何? この辺ってこんなのが生息してんのかよ」

「いや、マジでこれヤバくないっすか? 象よりでかいって聞いたことないっすよ」

 伊織と英太がガルーダを見ながら顔を顰めているのを、少女はポカンとした表情で見ていた。

 そんな少女には香澄が話しかける。

 多分、小さな子供なので二本差しの男子や無精髭の怪しいオッサンよりも女子高生の方が良いと思ったのだろう。子供を助けるために突っ込んだのにあまりにでかい獣を仕留めてすっかり頭から抜け落ちたなんてことはないはずだ。

「大丈夫? 怪我はない? 安心して、私達はあなたに何もしないから」

 

 目線を合わせて怯えさせないように優しく訊ねる香澄に少女はコクンと小さく頷いた。

 そこに、危険は無いと判断して車から降りたリゼロッドが合流する。

「イオリ! この子縛られてるわよ? それにあちこち怪我してる!」

 リゼロッドの声に、伊織も少女の傍に膝を付く。

 伊織は少女の状態にザッと目をやると眉を顰め、低く穏やかな声で少女に話しかけた。

「ロープを切るからちょっとだけジッとしててくれ。よし、あと手の方も」

 伊織は恐がらせないように太もものコンバットナイフではなく、ブーツに隠し持っていた小ぶりなナイフを取り出して少女の首元と両手のロープを切る。

「英太、車から水のペットボトルを持ってきてくれ。2Lの、ぬるいやつな。それと折りたたみの椅子も」

 伊織の指示にフロントの潰れたジープの後部にあった箱からペットボトル2本と折り畳まれたアウトドア用の椅子を持ってくる英太。

 伊織はそれを受け取ると、ナイロン製の椅子を広げて少女を座らせ、手足の傷を洗う。

 

「っ!」

「バイキン入ると化膿するかもしれないから、ちょっとだけガマンしてなぁ……とりあえずは骨は大丈夫だな。他に痛いところあるか?」

 見かけによらない丁寧さで少女の手足の傷を洗い流し、気を利かせた香澄が差し出したタオルで優しく拭く。

 そして注意深く様子を見てから少女を見下ろし訊ねる。

「……だい、じょう、ぶ、っ!!」

 伊織を見上げてそう言った少女は、何かに気がついたように肩を震わせると両手で目を押さえて俯いた。

「目がどうしたの? 痛いの?」

 その様子を見た香澄が少女の肩に手を当てながら優しく訊く。

 だが、少女は何も言わず首を振るだけだ。

 

 今少女の心を支配していたのは驚きと嬉しさと、そして恐怖だった。

 街の男達に無理矢理連れてこられ、縛り付けられ、恐ろしい獣に喰い殺され掛けた。

 もう自分は死ぬのだと思った直後、見たことのない人達が現れ、獣を倒し、自分に優しい声を掛けてくれた。縛り付けていたロープからも解放してくれて、優しく傷を洗ってくれた。

 母親以外から初めて優しくしてもらえて、泣きそうなほど嬉しく、それでも自分の瞳を見られたらまた街の人達と同じように罵倒してくる。

 優しくしてもらった分、少女はそれが恐かった。

 

「ん~、大丈夫だから見せてみ? 片眼の色が違うんだろ? 病気が原因ってこともあるから、一応、念のため確認するから」

「!?」

 伊織の言葉にビクリと大きく肩を震わせ、少女は恐る恐る口を開く。

「わたしの目、見たら呪われるって、街の人が、悪魔の子だ、って」

「はぁ? あぁ、無知な阿呆が言いそうなことか。大丈夫だ。お嬢ちゃんは悪魔の子なんかじゃないし、目の色が違うのも別に変なことなんかじゃない。だから安心して見せてみな」

 少女の言葉に一瞬呆れたような声をあげた伊織だったが、次いで優しく頭を撫でながら言いきかせる。

 それでもしばらく葛藤するように動きを止めた後、少しずつ手を降ろしていく少女。

 伊織も急かすことなく待った。

 

「わぁ~……綺麗」

 手を降ろしてもしばらく固く瞑ったままだった目がようやく開かれると、思わず香澄の口から感嘆の声が漏れる。

 小声だったが、それでも一瞬またギュッと目を閉じた少女だったが、やがてまたゆっくりと目を開いた。

 少女の瞳は右が金色に近いアンバー、左は見事なバイオレットだ。

 そしてその開かれた目に映ったのは、優しげに微笑んだ男の人の顔だった。

 その男、伊織はその笑みを崩すことなく、少女に目のことや体調、親のことなどをいくつか質問する。

「うん。先天性の虹彩異色症、ヘテロクロミアだな。他の遺伝性疾患があるかどうかは詳しく調べなきゃわからんが、今のところ問題なさそうだし大丈夫だろ」


「あの……恐く、ないの?」

「ん? たかが目の色が珍しいってだけだぞ? まぁ、金色の目はかなり北の方じゃないと少ないと思うし、紫色の目はもっと少ないだろうからかなり珍しいのは確かだけどな。

 それでも、ヘテロクロミア自体は程度の差はあっても1万人に1人か2人くらいは生まれる。目が3つあったり手が4本あったりするのに比べりゃ大して驚くことじゃない。

 原因もある程度解明されてるし、単に綺麗な目をしてるってことだ。間違いなく俺達の居た世界に生まれてたら人気者になるだろうよ」

「そうよねぇ~! 私、こんな綺麗な瞳見たの初めて。良いなぁ~」

「うわぁ~、ホントにすっげぇ綺麗。2次元以外にこんなのあるんすねぇ」

「こんなに綺麗な瞳は私も見たことないけど、左右の目の色が違う子供はバーラやオルストだと“精霊の愛し子”って言われて大切にされるって話を聞いたことあるわね」

 少女の瞳を覗き込みながらののんびりとした会話に、少女はポカンと口を開けて唖然としている。

 

「っつか、とにかくこの辺臭いから何とかしちまおう。英太、ユンボで穴掘ってそのでかいのと周りに散らばってる悪臭の元を埋めてくれ。香澄ちゃんとリゼはその後に石灰撒いて」

「うぃっす」

「伊織さんはどうするの?」

「丁度良いからここに拠点作ろうとおもってな。時間的にこれ以上遅くなると面倒だし、その子の治療もしなきゃならないからな」

「でも、多分明日にでもその子をここに連れてきた連中が来ると思うわよ。どうするの?」

 指示を出しながら魔法陣を広げる伊織にリゼロッドが訊ねるが、それにはニヤリと笑みを浮かべるだけのオッサン。

 間違いなくろくなことを考えていない。

 

 取り残された形の少女だったが、伊織はひとつ頭を撫でるとヒョイと抱き上げてジープの後部ハッチの縁に座らせ、ペットボトルのミルクティーをキャップを開けて手渡す。

「ちょっと珍しい物が色々出てくるけど心配すんな。真っ暗になる前に準備しなきゃならないからな。それが終わったら風呂と飯だ。

 だから、それ飲みながらここでちょっと待っててくれな。危ないから動かないように」

 その言葉に少女はコクンと小さく頷き、ペットボトルに口をつける。

 口に入ってくる優しく甘いミルクティーの味に驚く少女。

 それを見て笑みを浮かべながら頷く伊織の顔を見て、少しずつ飲み始めた。

 

 

 辺りがすっかり暗くなった頃、以前に森の中の湖に設置したコンクリート土台のフェンスで遺跡の周囲をぐるりと囲み、そのど真ん中に拠点を設置し終えた。

「それにしても、もう呆れるのも馬鹿らしくなってくるわよね」

「まぁ伊織さんだし」

「そうね」

 新たに設置した拠点を見上げて呆れた様子のリゼロッド、英太、香澄のコメントをサラッとスルーして、使った重機類と前部が潰れたジープを戻し、大人しく待っていた少女を抱き上げて拠点の扉を開ける伊織。

 

 その拠点は、家と言うにはあまりに無骨な箱にも見える物だった。

 縦・横・高さが約15メートルのほぼ立方体。

 窓の部分は外側に頑丈そうな格子がはめ込まれており、全体の色はベージュ。

 玄関は地上から階段で登る必要があり高さは2メートル近い。

 一軒家として見るとかなり大きな家だと言える。いや大きさ的には小さなマンションに近い。

 伊織の説明では今回は面積的に各自のトレーラーハウスを置けるだけのスペースがないし、遺跡の石畳で浄化槽も設置できない。

 そこで今回は過酷な環境で使用することを想定してアメリカでシェルターを製造・販売する会社が開発した地上設置型シェルター住宅を使うことにしたらしい。

 

 厚さ5センチの鉄板と20センチのコンクリートと断熱材で作られた外壁で覆われ、窓ガラスは厚さ7センチの5層防弾防爆ガラス。

 屋根の上全面に太陽光パネルが設置されており、建物の3階部分は80立方メートルに及ぶ水のタンクと蓄電装置、ディーゼル発電装置が置かれている。

 玄関の下側、地階と呼ぶべき場所は水の浄化・循環システムと廃棄物を乾燥・焼却する設備がある。

 実質的な部屋は2階建ての12部屋、トイレは3か所、大浴場や広いリビング、娯楽室まで備え、食料さえ充分に備蓄すれば一年以上無補給で引き籠もることができる、ほとんど要塞のような建物なのだ。

 一体全体、何をどう想定すればこういう物を用意しようと思うのだろうか。

 

 金庫のような分厚い扉から中に入る。

「今風呂の準備してるから、適当に部屋の準備しておいてくれ。1階の一番奥の部屋が倉庫になってて、そこに服とか靴とかが置いてある。この子の分も適当に頼む」

 そう言って伊織は抱き上げていた少女を床に降ろすが、少女は伊織の服の裾を掴んで離れようとしない。

「あらら、随分懐かれたわね。いいわ、私達で選んでくるからそうしてあげてて」

 リゼロッドが笑いながら請け負い、香澄と英太もそれに続いて出ていく。

 伊織は頭を掻きながらもう一度少女を抱き上げてダイニングの椅子に座らせた。

 

 それからまずは女性陣が先に風呂に入る。少女も一緒だ。

 まだ小さいとはいえ女の子。さすがに伊織が入れるのもどうかということになり、香澄とリゼロッドと入ることにしたのだ。

 最初は少女が伊織と離れるのを不安がっていた様子だったが、香澄が優しく「一緒に行こう」というと素直についていった。

 待っている間に伊織が食事の準備をする。英太はその手伝いだ。

 まともに食事をしていなかったように見える少女のためにスープと柔らかいパン。後はソーセージや卵を焼いてサラダも用意する。

 朝食のようなメニューだがボリュームはたっぷりなので大丈夫だろう。

 一通りの準備を終えると、英太と一緒に地図を作るための打ち合わせを行う。

 

 地図はヘリで上空から写真を撮影し、その写真をパソコンに取り込んで専用の地図作成ソフトを使って作る。

 ヘリの操縦の練習にもなるので、今回は主に英太が撮影を行うことにした。

 とりあえずはこの拠点から北側に300キロ程の距離を1週間ほど掛けて撮影する予定となる。英太の補佐兼撮影機材の操作は香澄だ。

 そうこうしているうちに女性陣が風呂から出てきた。

 香澄やリゼロッドは久しぶりの風呂にツヤツヤした肌と満足そうな表情を浮かべていたが、なにより見違えたのは少女の方だ。

 赤みがかったプラチナブロンドはシャンプーでくすんだ色から輝くような艶を取り戻していたし、香澄が斬バラだった髪を綺麗に切って整えたらしい。

 服もボロボロの簡頭衣から可愛らしい白いワンピースに代わっている。

 後は痩せ細った身体に相応の肉が付けば日本ならすぐにでも子役のスカウトがきそうなくらいの美少女になるだろうと思わせる。

 

 続いて伊織と英太が風呂に向かい、30分程度で戻ってくる。

 何故か英太がどんよりとしていたが、あえて誰もそこには触れることなく食事を始めた。

 少女、香澄とリゼロッドがお風呂で聞きだしたところによると、名前は“ルア”というらしい。

 ルアは目の前に置かれたスープと白いパンを見て固まっている。

「食べられるだけ食べると良い。明日もちゃんと食事は出すから、無理はしないようにな。他にもソーセージや卵焼きも欲しかったら食べな」

 伊織はそう言って、桃の香りがついた天然水っぽい物をコップに入れてルアの前に置く。

 

 恐る恐るパンに手を伸ばし、伊織が頷くと掴み取る。

「?!」

 柔らかさに驚いて視線をキョロキョロと彷徨わせるルアに笑みを溢しながら伊織達も食事を始めた。

 その様子に安心したのか、ルアは少しずつ大切に味わうようにパンとスープを口に運んでいった。

 

 

「寝ちゃった、みたいね」

 リゼロッドがリビングのソファーに座っている伊織の隣で服の裾を掴んだまま小さな寝息を立てるルアの顔を見ながら言う。

「伊織さんにすっかり懐いてるわね。私だっていっぱい世話したし優しくしたのに、何か悔しい」

 対面のソファーで香澄が口を尖らせる。

「多分、本能的にイオリが私達のリーダーだって感じたのよ。だから離れようとしないんじゃないかしら」

 リゼロッドは憐れむようにルアを見ながらその髪を撫でる。

 

「この子、杭に縛り付けられてたよね。それってやっぱり」

「あのクソでかい獣の餌にしようとしてたんだろうなぁ。生け贄なのか飼い慣らそうとしてたのかは知らんが」

「信じらんない! こんな小さな子を」

「やっぱりこの目が理由で迫害されたってことっすよね」

「そうでしょうね。でもこれからどうするの? 多分、いえ、間違いなくこの子を生け贄にしようとしてた連中が来るわよ?」

「ん? そんなのは放っておけば良いだろ? この子自身がどうしたいかは訊かなきゃならないが、連中はこの子がいらないから見捨てた。だったら俺達がもらっても文句いわれる筋合いは無いだろ。とりあえず当面はこの子の面倒を見てやろうと思ってる、んだが、良いよな?」

 途中で勝手に決めてしまっていることに気付いたのか、伊織は最後だけちょっと疑問系である。

 これには3人は苦笑いだ。

「あんなの見たら見捨てられないっすよ」

「私もそう思うわ。というか、イオリはそれ以外考えてなかったでしょ」

「私も賛成よ。っていうか、もういっそ伊織さんが父親になっちゃったら?」

 

 

 

「……ところで、伊織さん、本当にこの子を生け贄にしようとした連中、放っておく気?」

「……あ、ぜってぇ何か企んでる」

 

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