第15話 荒廃した家
15 荒廃した家
ぼくは父のとなりに座っていた。身近に父を感じていた。
夏。そう、やはり夏だった。
まばゆい夏の光のなかでぼくらは病室の窓から庭をみていた。花壇には鮮烈なダリヤが咲いていた。
手術をきらって、病院にいくのはいやだという父を中庭の片隅に追いつめて、やっと病室につれてきたところだった。
――手術はいやだ。そんなことを、したら、死んでしまう。医者に殺されてしまうぞ。どうして手術をするんだ。どこがわるというのだ。
家族で説得して宇都宮のK病院に入院させた。
やはり、なぜか赤いダリヤが花壇で風にゆらいでいた。ぼくは父がながすであろう、血の色をイメージし不吉な思いにかられた。白衣の看護婦が花壇の草花に水をやっていた。白衣が風にはためいていた。
父らしくない弱々しい声だった。入院費のこともさすが商人、気にかけていた。手術費は確かにぼくらの一年分の生活費ほどかかった。老人医療がない時代だった。それでも父の命が助かるのだったら、高利貸に借金しても、なんとか金は工面する。どういっても親子なのだから。ぼくは決意していした。
――おれは病気ではない。病気なんかじゃない。おれを病気だといったのは、おまえのお母さんだ。おれはどこもわるくはないぞ。手術なんかするものか。手術なんかいやだ。
泣きだしていた。父が泣くのを初めてみた。泣きながら話す。訴えるように泣きながら話しつづけることで、手術の不安からり逃れようとしていた。
青白い衰弱した顔……皺々のあつまりのなかでクボンダ目。虹彩。なぜかその窪みがぼくには父の肛門のように見えた。
一滴の血液がトイレの便座に付着していた。
その発見は母によってなされた。
平穏であった家族の安泰がおびやかされた。
暗闇にわが家がつきおとされたのは、あの赤い一個の球状のしたたりによるものだった。
――医者が診断したのだから。お酒の飲みすぎだよ。お尻にイボができてるんだって。それをちょっと、とるだけだよ。
平凡な会話しかできないことが、つらかった。
あの日も夏の午後だった。ぼくのこころは、闇にとざされていた。ぼくがおそいくる闇を感じた、初めて害意ある闇にトリカコマレテいると意識した日だった。
病院。
噴水のある中庭。
天使が舞っているような、噴水の周りの塑像。
実際に羽の生えている像がかなりあった。
どうしても病室にもどろうとしない父と肩をならべてベンチに座り水音をきいていた。
けっしてここは天国の庭なんかではない。むしろ地獄だ。それを実感できるのはもっとあとになってからだった。
なにか重大な過失をおかしているようで不安にった。父の入院する病院も、手術の予定日も、医者にさえぼくは会っていなかった。
すべて長姉の富子が采配を振るっていた。あまり父がまだ元気に病であることを否定するので、ぼくまで懐疑的になってしまった。ほんとうに病気でなかったら、誤診だったら……父を屠殺場に追いこむようなものではないか。
ぼくを平気で殴るくせに、痛みにたいしては過敏なほど弱い父だった。もし顔を傷つけたらと髭を剃るのにカミソリも使えない。肌が敏感でクリームもぬれない。その父に直腸癌の手術をうけさせるのは――。
明るくきらめく噴水をみつめていた。
父は黙ってしまった。ぼくは花壇に咲き乱れる夏の花の香りをすいこんだ。
だまって父の手をにぎった。父の手は震えていた。
なにか、いままでぼくに鉄拳をあたえてきた手がなつかしいものに思えた。
ぼくはさらにつよく握るために手に力をくわえていた。
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