第14話 中有にただよう父
14 中有にただよう父
父の病室に入ることをためらった。
だが、ぼくは母の言葉にすなおに従う行動にでたわけではなかった。
なかば自己規制。
親のいうことには従順にしたがうというながいあいだの習慣に従った。
ぼくの入室を拒む母の言動には強制的なものがあった。
そうなのだろうか。
母にこの場から立ち退くように言われたからなのか。
いや、ぼくがその場に立ち留まりドァを開け一歩父の病室に踏みこむことをためらったのは、その理由は、恐怖によるものだった。
ドァの向こう側からとげとげしいというより、鋭利な槍衾を突きつけられたような恐怖がせまってきたからだ。
すこし時間がたっと、これはおかしいとおもうようになった。
父の看病のためにすべてをなげうって帰省してきた。
もしなにか妖しいことがあったら、それを排除しなければいけないのだ。
それが長男の役目だ。
いくら父とのあいだには親密な関係は築けなかったからといっても、父の症状を週に一度くらいは確認しないではいられない。
ベットに拘束されでもしたかのように父は仰向けに寝ていた。
便のにおいが部屋には充満していた。
父は微動だにしない。
なにかオカシイ。ここではもう時間は止まってしまっている。
これは――気づく。
病室は『中有』の闇にとざされ、死霊が満ちみちていた。
はっきりと視認できるわけではない。
そう感じた。
死霊はとりつくものをもとめて禍々しく渦まいていた。
いまならタスカル。
いまならまだ父には死霊はとりついていない。
一瞬おくれていたら、父は三途の川に誘われていた。
父がぼくを呼んだのだ。
ぼくは父に呼ばれたのだ。
中有に父はいる。
ぼくは必死で父の名をよび、幼いころ父に教え込まれた降魔の呪文をとなえ、胸に両手を重ね蘇生法を実施していた。
少し時間がたった。
これはおかしいぞ、助からないのかもしれない。
父はすでに死神にとりつかれ三途の川にむかって歩きだしているのかもしれない。
父は病床で身動き一つしない。
貪るように父の顔を見た。
そのときだ、ハッと息をはきだした。
顔に赤みがさした。
「お父さん」
ぼくは父に声をかけた。
父の瞼ピクッと痙攣した。
そして開いた。
そして、父は見つめている。
父の視線の先、窓の外は夕暮れだった。
雨はあがっていた。
作業場には斜陽がさしこんでいた。
父はぼくが作業に励んでいるのを、芯縄の天日干しを広場を見まもっていたのだ。
庭の木立をすかして、ぼくの働く姿をみていたのだ。
父は毎日ぼくが働く姿をみていた。その父が苦しそうに口を開いた。
「おれは正一、おまえに帰ってくるようにとはいわなかった。それなのに帰って来た。うれしかった。これで江戸時代からつづいた麻屋のノレンをおろさなくてすむ。うれしかった」
窓の外の事物の輪郭が闇にぬりつぶされようとしている。
父は語った。なんども相場をはったが負けた。わが家は悪霊憑きの家系なのかもしれない。合成繊維で芯縄を作るくらいなら、おまえの代でアサヤのノレンをおろしてもいい。さきほどのよろこびのことばとは矛盾していた。おれの世話のために帰ってきてくれた。それだけで満足だ。うれしかった。父の言葉はとぎれとぎれだった。
「ダメ。出ていきなさい」
母がさきほどの言葉をまたくりかえしている。
「お父さん」
「ソンナ目で見るな。おれはまだ生きている」
――まだ生きている。ようやく虹彩をとりもどした父の眼が言っている。
「おれはまだ生きている」
(ぼくはなんということを想像していたのだ)
父の死をねがっていたのか。
「近寄らないで」
母が絶叫した。ぼくをつきとばした。
よろけながら、このとき、ぼくは見た。
ふるえながら父の手が上掛けを払いのけた。
下半身は裸だった。
左の脇腹にうがたれたストーマ、人工肛門がいたいたしい。肉色のバラのようだ。花芯がうごめいている。いや、ナメクジのような軟体動物が穴からはいだそうとしている。肛門からでる便であるはずがない。臭いもなにもしない。タダ不気味にはいだしてきた。
「さがりなさい」
母が邪険に叫ぶ。
ぼくの腕をひく。どこにこんな力を母は温存させておいたのか。ぼくはよろけた。
父のベットの向こう側に黒い影がよどんでいる。影はピョコンと父の胸のうえにとびのった。そんなバカな。ムンクの「死の床」に描かれていた。臨終の病人の体の上にのっている悪魔の姿に見えた。
「見えるんだね。正一。おまえにも、お父さんのように、わたしのように、悪魔が見えるようになったのだね」
「もういい。このままいかせてくれ。呼びもどさなくていい」
父が苦しい声をしぼりだした。
この部屋には父と母とぼくしか存在していないはずだ。
だが、見える。
黒い影。悪魔。
あれが幻影であるわけがない。
「やめろ。父をどこにつれていこうというのだ」
「正一。ムダよ。あきらめなさい。それより、この部屋からはやく、でていきなさい」
あわてふためく母とぼくを悪魔が見つめている。
「正一。逃げて」
母の視線の先でナメクジがぬらぬらとこちらにはってくる。
「あれは癌のようなものよ。あれにはいりこまれたら、もう助からないの」
「だったら、母さんも逃げよう」
「わたしはお父さんから病気をとりのぞこうと、進んでアイツを受けいれたの。だからお腹がすくのよ」
「逃げよう。母さん」
ぼくがこんどは母の手を引いた。85キロの母はびくとも動かない。
悪魔が笑ったように感じた。あいつは幻影だ。そうあってくれ。
光の屈折がつくりだした幻だ。
蜃気楼だ。
いや、あれは異界からこちら側に、この現世に迷いでてきた異形のものだ。
こちら側に存在してはいけない。悪魔だ。
「おれは病気なんかじゃない」
父が怨念をこめて低くつぶやいた。
「きさまらが。よってたかっておれを呼びにきた」
悪魔に怨みの声をかけている。
――その非難はおかどちがいだな。悪魔から声にならない声がながれだしてきた。おれたちは分業なのだ。死の病を処方するものはそこにいるヤッの仕事だ。
悪魔はナメクジを指さして哄笑している。
父が直腸癌で倒れたから、家業を継ぐため、父と母の看病をするために帰省したのだ。
父を助けるために帰ってきたのだ。ダメ、もうこれまでだ。助けることができない。
なんてヒドイことをかんがえていたのだ。例えこのまま進めば、明日ぼくと妻と娘の家族が破滅するとしても、目前の父のサルべージが必要なのだ。
例え、いちどでも父の死をねがった罪は許されない。生活の苦しさから、労働の辛さから父の死を望んだ。妻や娘を優先してかんがえた。全ての罪はわたしがひきうける。
「父をたすけてくれ。父をつれていかないでくれ。父を助けてくれ。わたしの寿命をちぢめてもいい。父にあたえてくれ」
ここで諦めて部屋から退散することなんかできない。
わたしはまずナメクジを踏み殺そうとした。
あざける悪魔を無視した。
さっと足をもちあげた。
「やめて!!」
母が絶叫した。
ナメクジが天井に跳ねた。天井をはってぼくの頭上に移動してくる。
母がわたしを突きとばした。
おちてくるナメクジを口でうけのみこんでしまつた。
ぼくは悪魔に挑んだ。かかえあげた。父の胸の上から引きずりおろそうとした。
引き離そうとした。青白いスパーク。この閃光はテレキネスだ。悟った瞬間、父のベッドの反対側にハジキとばされた。頭蓋骨に直接ひびいてくる嘲笑。
「おまえも、一緒にいくか」
一緒にいくか? 悪魔が嘲りながら誘っている。
黒い悪魔の体のなかで、そこだけ青白く光っている双眸。
青い炎がふきだしているようだ。
あるいは、おどかしている。こんなヤツとはどう戦えばいいのだ。
母は白眼をむいて倒れたままだ。
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