第7話 肉が食べたい
7 肉が食べたい
父は麻相場に賭けていた。ひと相場あてれば、10年はらくに暮らしていける。そんなことをウソブイテいた。よく座禅をくみ、あすの相場をみとおすのだといっていた。神がかりなことをいっていた。この期間、相場に賭けているときだけは、なぜか時計の針を合わせて、正午を告げる12番目の音が最後の一瞬において、同時に家じゅうにひびきわたらないと、不意に瞑想からさめて、獣のように吠えたてた。13番目の時鐘をきいたときには、それは一層凶暴なものとなった。……なぜだろうか?
そうした奇癖がどこからやってくるのか……ぼくにはわからなかった。ぼくのやったことといえば、だから時計に油をさし修理するといった口実のもとにいまわしい機械を壊しまわることだった。
母の部屋から食事を要求する合図の鈴が鳴る。その音でぼくとミチコとの口論、父の存在に対する認識のちがいはそれでうちきられることになる。話題はにわかに日常次元の生臭さをとりもどすことになる。
――困ったわ。きょう5の日だってこと忘れていたのよ。お肉屋さん……やすみなの。
――肉でなければ、ダメなのか?
――もちろんよ。血のしたたるようなビフテキが、お母さんのいちばん好きな肉料理。なにか不安なことがあると、食欲がスゴクでるみたい。
血がながれている。母の口元からは生肉からしたたる血が、鮮やかな赤い粘糸がしたたりおちていた。咬筋をふるわせる。みだらな咀嚼音をたてる。一滴また一滴と、血はしたたり、ぬめぬめとしたみだらな口蓋音をいつまでもたてつづけている。
――おふくろは昔からだ。いまにはじまったことではない。あの異常な食欲は。だから、太ってるんだ。お金はある?
――もう、あまりないわ。どうしたらいいの。毎日、あの歳で、肉をはんぱじゃないほどたべつづけている。すこし異常だとおもわない。信じられない。とても、信じられないわ。〈母はミチコの倍くらいの肉体、体重をしている〉
――まるで怪物だな。
――そうよ。まるでモンスター。唇から血をしたたらせて上目づかいにみられると、ゾーッとするわ。
金庫を開け、月末の手形決済のためにとっておいた札束から1000円だけぬきとって、妻にわたす。肉をあたえなかったら、片時も休みなく飢えつづける母、老いても貪婪な食欲をうしなわない哀れな母は、微笑をたたえながらいうだろう。
――おまえ、わたしは病気なんだよ。お腹が空いてたまらないのだよ。病気が肉をぜんぶたべてしまってわたしのほうには、まわってこないの。肝臓がわるいから、栄養を貯蔵しておくことができないのだよ。毎日、肉をたべないと死んでしまうからね。病気がたべさせるの。わたしを飢えさせないでおくれ。
――困ったわ。大谷お肉屋さん……おやすみなのよ。どうしょうかしら……。それに、桃代の明日のお弁当のおかずも買わなくては。
ミチコは遠く離れたスーパーまででかけていった。
母は廊下にでて、子どもが肉をたべさせてくれない。子どもがイジメル。と大声でどなっている。陰々とひびく母の声は大気のなかにひとまずとどこおって、やがて周囲にながれだす。叫び声は内容からすれば、切実な飢えの訴えときけるが、口調からすればいやがらせの害意がみえみえで、かなしかった。怒りさえ感じるあの声。
――母はすっかりかわってしまった。
あんな母ではなかった。命がけで、父に虐待されるぼくを守ってくれた母だったのに。ぼくとミチコが母と父を養うために命がけで働いているのが、まったくわかっていないようだった。ぼくは肥厚した母の背中をだまってみつめていた。ミチコの帰りが、やけに遅いようで気になった。妻はひとしれず、どこかで、泣いているのではないだろうか。
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