第2話墓地の朝露

2 墓地の朝露


 宝蔵時の墓地をとりかこんだ有刺鉄線の柵。

 そのかずかずの針の先で朝露が滴となり、水玉となって草むらにおちる。今朝、この無数の水玉の輝きをみたのは、ぼくらがはじめてではない。

 ――バアチャン、マダサンポシテルヨ。モモヨガアサネボウダカラ、イツマデモネテイタカラ、バアチャン、ヒトリデサンポ、ヒトリデカワイソウダネ。

 昨夜。熟睡することのできなかった頭のなかでは、幼いぼくが、母に手をひかれて散歩している。輝かしい未来に向かって笑い声をあげて走っている。ぼくはそのぼくの影をひねりつぶす。こんな生活のなかへ走りこんでくるために生きてきたわけではなかった。錯綜し、袋小路へとつらなる道で、おちぶれて、おたおたうごめいている。ひきかえすこともできない。道の両側から迫ってくる草の露にすっかり靴がぬれて重くなる。回り道をすればよかった。 

 さきほどまで、ぼくの手にあった鳥の骸はすでにない。思いきり高かく、ケヤキの梢になげあげておいた。墓地になげすてておくわけにはいかなかった。朝ごとにぼくの母と散歩にやってくる幼い娘の目に、小鳥が乾いて、風雨にさらされ、むごたらしく腐蝕していく過程を見せるのはしのびない。 

 ――パパ。トリ、ドウシタノ?

 ――とんでいってしまったよ。

 ――ウソ。ドコカヘステタンデショウ?

 ――とんでいったよ。ほら桃代の心のなかへ。

 小さな胸をつつく。ウワァ、クスグッタイヨ、パパ。と身をよじる。どんなことがあってもこの娘は守らなければ、家庭を崩れるにまかせておくわけにはいかない。病に倒れた両親をミステル決断がつかず介護のために故郷にもどって七年ほどの歳月が過ぎていた。結婚した。桃代が生まれた。六歳になっていた。鳥を遺棄するといった目的ははたしたのだから、ぼくは一刻も早く家にもどって作業にかかりたかったが、ぼくの思惑や感傷とは無縁の娘は墓石のあいだをぬって、この時刻にバァチャンがいるはずのわが家の墓地のある場所へぼくを連れていく。

 朝の散歩は、母の日課のはじまりである。朝の早い老いた母は、たいていぼくら夫婦が寝ているうちに家をでてしまう。いつごろから、つきだした習慣か、ぼくには思いだせないが、膝の軟骨がすりへって痛みを訴えだしたころからだろう。肥厚した軀を、老いたものにはめずらしく、毎朝の習慣で墓参の場所へ、意志的歩調ではこんでいく母の動きには生への執着がひめられている。先祖代々の墓碑が立ち並ぶわが家の墓地で母はなにを御先祖様に語りかけているのだろうか。

 墓地には人影はない。桃代はだが叫ぶ。

 ――バァチャン! ホエァーュ―?

 樹木の影と光が交差する初夏の空に桃代の甘ったるい声が高くひびく。返事はもどってこない。

 だが、桃代の誘導してくれた領域に、母は巨大な墓石の影に腰をおろし、西を向き合掌した姿勢で死んでいた。死んでいるのかと思ったほど不動の姿勢をしていた。半眼に開いた目には意外と生きいきとした光が宿っていた。やはりきき耳をたてていたのだろう。孫をみて喜びに満ちた顔がふりかえる。アゴのたれさがった肉をふるわせながら老人特有の声でぼそぼそとクドキ文句を紡ぎだす。しゃべりつづける。こちらの意向は無視していた。

 ――ゆうべは、ひと晩じゅう、おとうさんが、痛んで、うなかりどうしでね、一睡もしてないんだよ。

 父は直腸ガンを患っていた。患部を手術するには手遅れで、人工肛門をつけた。

 ――あまり無理しないほうがいな。お母さんだって健康な体ではないんだから。すこしはほったらかしておけばいいんだ。どうせ助からないんだから。

 いくたびかくりかえしてきたためにすっかり常套句となってしまった。いつもの言葉をぼくはくりかえす。ぼくの声は非情で怨磋の毒をふくんでいた。

 ――助からないとわかっているから、なおさらかわいそうで……。おとうさんはじぶんの病気のことだって、ガンなんて、知っちゃいないんだからね。おまえはそんなひどいことをよくいえるね。だいたい、おまえたちは、親に冷たいんだよ。

 もう涙声になっている。母は墓石の陰で合掌した姿勢のまま動こうとしない。

 母の言葉が永劫にひびく呪いのこだまとなってぼくの内部にひびきつづけるだろう。母は涙をこぼしながら、今度はぼくを睨みつけている。まだ生きている父を、死んでしまっているようにつきはなしているぼくをたしなめているように。会話のおかしな淀み、異様さに気づき桃代が泣きだしそうな顔でぼくを凝視している。

 母は憎悪をイッカシヨにしぼりこんでくるような目でぼくをにらんでいた。どんなそぶりをされても、いまのぼくには弁護してこちらの立場を理解してもらおうとする情熱に欠けている。気力がなかった。理解してもらったところでこの苦境からぬけだせそうになかった。ぼくらは朝からケズリブシを、それもお湯をかけるとなまぐさいにおいをたてるサバのケズリブシだけで食事をしていた。

 それが、5年もつづいた。頭のなかまでかさかさケズリブシの音がすると、妻にいやみをいったのは昨夜のことだった。

 ――でも余分な、オカズにまわすお金がないのよ。こんなことつづけていたら、わたしたちのほうが、先に死んでしまうわよ。

 母は季節ごとに高価な初物の魚や野菜を食べていた。魚は白身でないと食べない。血のしたたるようなビフテキを三枚も食べることすらあった。

 ――わたしたちが食べているとおもっているのよ。ずいぶんゼイタクしているね、と近所の人にいわれるの。

 ところが、栄養がたりなくて妻は、乳がすぐにあがってしまって、桃代はよく夜泣きしたものだった。


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