人間もどきの終焉
麻屋与志夫
第1話 空から小鳥が墜ちてくる
されば人の親の年いたう老いたるは、必ず鬼になりてかく子をも
食はむとするなりけり――今昔物語
1968年 夏
1 空から小鳥が墜ちてくる
「キャー」という声。
妻が――恐怖のために声帯をふるわせたことは確かな叫び声をきいて、ぼくは屋上への階段をかけあがる。鉄製の13階段はぼくの靴底との接触面で、この世の終わりのような暗く重い音をひびかせた。
妻がいた。
ぼくは階段を登りつめただけで、ぜいぜい息切れがして、すぐには声をだせないでいる。
ビニロン芯縄を片手にさげた彼女が塑像のように立っていた。
だらりとさげた芯縄のさきからは濃い乳白色のボンド溶液が黎明の光をうけて、燐光を放ち、滴り落ちていた。
その白い溶液はフェルメールの「牛乳を注ぐ女」のミルクの滴りを思いださせる。
本来なら、初夏のさわやかな日射しの中にいるはずの彼女なのに、なにか黒い霧のなかにいるように感じてしまうのはぼくが疲弊しているからなのだろうか。それとも、彼女が恐怖におののいてしいるからなのか、ぼくにはいまのところ断言はではない。
うっすらと口を開き、おののきをすこしからだをそらした姿勢に凝固させた彼女は、勾配の急な階段をかけあがったために息切れがして声をだせないでいるぼくに、一瞬すがるような視線をむけてくる。
妻のミチコとぼくのあいだには、遮蔽物はない。
周囲の屋根に輝きはじめた朝日を逆光にあび、ひどく遠い場所にいるような妻。やつれて……さらにやせほそっていく感じの彼女をみてぼくは、黙ったまま近る。手がだらりとさがり、開かれ、いままで握っていた芯縄が屋上の床にバラバラとばらまかれる。
20センチほどに切られた200本のマエツボ用の2ミリほどの極細のビニロンロープ――芯縄が彼女の手を離れ、スダレが切り落とされたようにナダレテ……床に落ちた。これで切り口につけたボンドはべったりとロープ全体についてしまい、100足分の鼻緒の前坪がムダになった。
――鳥……とりが死んでるわ。
発問をしようとすると、彼女のほうから言葉が虚空にひびく。甲高い声が朝の大気に拡散して消えていった。
朝の静寂がもどってきた。妻はぼくの胸に顔をおしつける。ボンドの溶液が入っているポリ容器のかたわらに小鳥がいた。
小鳥の羽根は風に顫動していた。いま空から舞い降りてきたばかりといった、でもすでにムクロとなったことは明白な小鳥であったものを、排除するために上体をかがめようとすると、彼女はそうはさせまいと、しっかりと抱きついて、腕に力をいれる。ぼくの胸にホホを寄せてくる。ふるえている。ぼくも彼女を安心させようと強くだきしめ、背中をさすっていた。心配いらない。なにも怖がることはない。怖がることはないのだ。
ウナジと額にほつれた髪をかきあげ、彼女は息をはずませている。まだふるえている肩を抱きよせてやりながら、小鳥の死骸を眺める。
――死んだ鳥をみたぐらいで叫ぶヤッがあるか、おどかすなよ。(そのうち……親たちの死をみとってやらなければならない、ぼくらじゃないか) とつづけていおうとしたが、後の言葉は喉の奥にのみこんだ。声にはならなかった。
――でも怖い。
射殺された小鳥の胸には血が小さな星形にかたまっている。鋭く細いクチバシはかたく閉ざされて……いまはその鋭いクチバシで虫をついばむことができないでいるのが哀れであったが、乾いた泡状の血が胸のウモウをつたってそのクチバシまでたっしていた。妻に恐怖をあたえた鳥の、風にゆれる翼は、飛翔する機能を欠いているにもかかわらず、いまにも空に舞いあがるのではないかと期待させる。
――パパ、ドウシタノ?
聖母幼稚園にこの春からかよいはじめた娘の桃代が、階段の下でぼくらを見上げている。
――鳥が死んでいてね。それをママがみつけてオドロイタのさ。
――ドウシテシンデルノ? モモヨニモミセテ。
――はやく、どこかへ、やってよ。
妻の愁訴する言葉は、邪険にひびく。怖いわ。青ざめた顔をしている。妻の恐怖の発作はおさまりそうになかった。
彼女が小鳥を一刻もはやく捨てることを望むならしかたあるまいと、ぼくは、路地裏からいきなり通りへでた。通りのすみにプラスチックのゴミすて容器が置いてある。
フワッと空間が広がった感じがして、ぼくは奈落におちこむような目まいに襲われる。疲れているのだ。ぼくも妻も、父の看病と母への気苦労のためすっかり疲れきっている。
昨夜もほとんど一睡もしていなかった。健康な日常にぼくら家族が在ったなら、小鳥の死骸くらいで妻もとりみだしはしない。ぼくは明るく広い空間にでたくらいで、よろめくことはない。
――ネエ、ママハ、ドウシテ、コワガッタノ?
小鳥の足をもって歩きだしていたぼくに桃代が追いすがる。
――パパハコワクナイノ? モモヨニモサワラセテ……ネエ、パパオネガイ、チョットダケサワラセテ。
――ほら……。
手わたそうとすると、幼女らしい屈託のない明るい表情がさっと翳る。だしかけた手をひっこめてしまう。
――イヤ。モモヨモコワイ。
手を後ろにまわしてしまって、おそるおそる鳥とぼくの顔を交互にみてから、たずねる。
――ネ……ダレガ……コロシタノ?
しなやかな髪を朝風になびかせ、追いすがってくる。
――さあ、だれだろう。だれが撃ったのだろう。
小鳥を撃つために空気銃をもちあるく男がいまでもいるのだろうか。ここはsanctuary
(鳥獣保護区)になっている。近所のハリスト正教会の前に「禁猟区」と掲示板が立っているではないか。
――ドウシテウツノ?
――おもしろいからさ。
――トリヲコロスト、ドウシテオモシロイノカナ。カワイソウジャナイノ。オソラトベナクナッタトリハドコヲトベバイイノカシラ? ネエ……パパ、ドコヲトベバイイノ?
――桃代の胸のなかをとぶさ。
――モモヨノ……ムネノナカ?
おまえの記憶の空をいつまでも鳥はとびつづけるかもしれない。
だが、ぼくはいう。こころのことさ。この表現も桃代にはむずかしすぎる。
――ココロノナカハヒロイノ? ヒロカナイト、オモイキリトベナイト、カワイソウダモノネ。
――ああ、広いよ。あの空ぐらい……いや、空よりも広いかもしれない。
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