その言葉に意味を足したい――Jan.

温もりに縋る

 ツイていた。世那せなのクラスのホームルームが、他よりも早く終わった。

 だからこうして、世那は隣のクラスから人が出てくるのを、待ち伏せすることができた。

 引き戸がガラリと開き、教師が出てくる。世那のこと訝しがった男性教師に続いて、生徒たちが次から次へと教室の入口から吐き出された。皆、部活へ行こうというのだろうか、賑やかながらも何処かせわしない。


「世那?」


 目の前の教室から出てきた一人の女子生徒が、ポニーテールを揺らしながら、世那に近づいた。


「どうしたの? 何か用事?」


 ずり落ちかけた鞄のベルトを直しながら尋ねる親友に、世那は首を横に振った。


「ごめん。今日は愛美まなみじゃなくて――」


 と。世那の目が、後ろの入口から出てきた人物を捉えた。人波に紛れ出ていこうとするその男子生徒を、世那はすかさず呼び止める。


笠居かさいくん!」


 張り上げた声に、世那はたちまち注目を浴びる。件の男子生徒はビクリと足を止め、おそるおそるといった様子で世那のほうを振り返った。


「一緒に帰らない?」


 瞬時に事情を理解した愛美に手を振って別れ、世那は彼に近づいた。周りの好奇な視線が鬱陶うっとうしかったが、気づかないふりをして、彼の手を掴む。彼は動揺し、おどおどと握られた手を見つめ、狼狽うろたえた。

 彼――笠居みなと若山わかやま世那は、付き合っていた。いわゆる恋人同士というやつだ。特に秘密にもしていないが、公表もしていない。付き合ったばかりだから、知れ渡ってもいない。だから周囲は意外そうに世那と湊を見つめ、遠巻きにこそこそと噂している。


「えっと……」


 湊は逡巡しゅんじゅんした。背を反らせ、けれど俯き気味で、視線を左右に彷徨わせている。頬が若干赤いのは、世那の行為に照れているのではなくて、周囲の注目を浴びているからだとすぐに分かった。

 それでも世那はじっと彼の顔を見つめ、静かに答えを待つ。目立つタイプではない彼が、こうして大勢の前で〝彼女〟に誘われて、狼狽えることなど織り込み済み。あとはただ祈るだけだ。彼が世那を拒絶しないことを。


「…………いいけど」


 拒絶の言葉が出ないことにほっとしつつ、世那は笑みを作った。


「じゃあ、行こ」


 湊の手を引っ張って、廊下を突き進む。階段を下り、下駄箱へ。そこで一旦お別れして、上履きからスニーカーに履き替える。

 世那が少しもたついている間、湊は逃げずに待ってくれていた。ブレザーの上に羽織ったコートのポケットに手を入れて、下駄箱にもたれて。ガラス戸の外を真っ直ぐ見つめている。見えるのは学校のロータリー。ただでさえ色気がない上に、冬枯れていて景色は灰色。それに見入るような表情をしているのはどうしてか。

 彼の視線がこちらを向いた。


「どうかした?」


 世那は我に返った。


「ううん」


 なんでもない、とへらりと笑って、世那は湊の傍に行く。


 外気は毛穴から強引に滲み入るような冷たさだった。世那はマフラーを巻いているのにも関わらず首を竦めた。身体が強張る。少しでも暖を取ろうと身を抱きしめるが、スカートから飛び出た剥き出しの足はどうしようもない。せっせと足を動かして、身体を温める。

 校門を出て、通りに出て、学校の窓から見える川の橋に差し掛かるまで、二人の間に会話はなかった。湊は、女慣れどころか人慣れしていないようで、軽く眉根を寄せて、若干俯き気味で歩いている。世那は、そんな途方に暮れた彼を、ちらちらと横目で見上げている。

 カップルの甘い雰囲気など一切ない。


「ね」


 思い切って、世那は話し掛けた。

 湊の少し驚いたような目が、こちらに向く。


「今日、なんかあった?」


 どこからどう見ても、場を繋ぐために仕方なく選んだ話題だった。世那の口の中が苦々しくなる。しかし、こうでもしないとコミュニケーションが取れない。


「いや、別に……」


 湊は気まずそうに視線を逸らし、川の流れのほうにいく。


「ああ、でも」


 からっ風が川の流れに沿って吹き下ろし、身を切るような寒さに襲われた。それでも世那は、立ち止まってしまった湊の言葉を辛抱強く待つ。


温井ぬくいさんが――」

「愛美?」


 先程別れた親友の名を繰り返して話を促しながらも、世那は話題を察した。


「――うん。温井さんに、また、ピアノの伴奏を頼まれて」


 ああ、とだけ返事をする。愛美は合唱部で、湊も合唱部。湊は合唱の伴奏を担当していたらしい。

 だが、湊は、夏に部活を辞めている。

 それだけに、触れにくい話題ではあった。


「断った、の?」

「…………うん」


 湊の視線は、川から橋の欄干に移動した。つまり、俯いたのだ。

 世那は目を伏せた。

 湊は、よりによって合唱コンクールのときにミスを犯してしまったそうだ。それを苦にして、湊は合唱を辞めた。愛美はそれでも湊に伴奏をして欲しくて、部に戻るよう何度も誘っているわけだけれど、湊のほうは失敗を引きずっていて、ずっと断り続けている。


「……そっか」


 戻ればいい、と世那は思っていた。過去の失敗はどうであれ、湊は必要とされているのだから。それに、湊はまだピアノが好きなのだ。だから愛美に強く出られない。

 でも、気軽にそうは言えなかった。当時のことを何も知らない世那が、おいそれと彼の傷口に触れていいはずがない。

 世那にできるのは、ただ湊の気持ちを受け止めるだけ。

 代わりに、湊に手を伸ばした。風に冷たくなった指先を包むように、軽く握り込む。

 湊は目を瞠り、世那を見下ろした。

 手は振り払われなかった。だから世那は、自分の手を湊の指先から掌に移動させた。

 戸惑いがちに、握り返される。どちらともなく歩き出した。橋を渡り、住宅街に差し掛かる。

 こんなときなのに、心が少しだけ浮き立った。自分はきちんと湊に求められているのだという喜びで。自分たちはまだ恋人らしい恋人ではない。そのことがずっと気になっていたから。


「これから、何処か行く?」


 掌に伝わる温もりは、世那の気を大きくさせる。


「ごめん。今日、塾だから」


 断られても、気落ちはしない。


「そっか。じゃあ、また終わるまで待ってるね」


 湊は心配そうな顔をした。湊の塾は夜からだ。終わるのは、夜遅く。そんな時間に女の子が一人歩いているのが気になるのだろう。

 だが、世那にしてみれば慣れたものだ。世那は、たびたび夜に外を出歩いている。世那の家は父子家庭で、父親は娘に興味がない。家に居場所がないから、夜の街に逃げ込むことが多かった。

 他クラスである湊と親密になったのも、そもそもそれがきっかけだ。


「若山さん。あんまりそういうの――」

「大丈夫」


 勇気を出して咎めてくれる湊に、世那は微笑み返した。それしかできない自分に、悲しくなりながら。

 湊は仕方なさそうに溜め息を吐く。


「送ってくから」

「ありがと」


 嬉しくなる一方で、不安にもなる。面倒を掛けていないか、とか――そもそも、この関係すら迷惑なのではないか、とか。


『私たち、付き合わない?』


 告白したのは、世那のほうだった。何度か交流を重ねて、心根に触れて、湊に強く惹かれていった。気まぐれでも打算でもない。本当に湊に恋をしていた。

 だけど、そのときは、〝好き〟だとは言っていなかった。きちんと恋人として付き合いはじめるには、世那の言葉が足りなかったのだ。

 だからなのだろう。湊は、世那が本気で自分のことを好きなのだと信じていない節がある。時折見せる不思議そうな目が、そう訴えている。

 彼は、告白に承諾こそしてくれたが、実のところどう思っているか、世那は不安だ。彼は自己肯定感が低いから。それに、優しすぎるところがある。もしかしたら断れなかっただけなのかもしれない。

 その疑心が、世那を躊躇わせていた。本当はピアノを弾いて欲しいのに、そう促すこともできない。


 日はもう沈み、空は薄暗くなってきていて、一足早く街灯が点いていた。住宅街を抜ける道は、下り坂になっていく。道が分かれるまでに、まだもう少し猶予があった。

 世那は繋いだ手に、少し力をこめた。不思議そうに湊が見下ろしてくるが、気づかないふりをした。ただ、この手から自分の想いが伝わるように念じる。今さら〝好き〟とは言えなかった。それこそ気持ちを押し付けてしまいそうで。相手を困らせることになりそうで。

 あのときに戻れたら、と世那は思う。そうしたら、絶対に自分の想いを伝えるのに。

 だが今は、ただ祈るのみだ。彼が正しく世那の告白を受け止めてくれているように。言葉足らずだった〝お付き合い〟の申し出に、きちんと真意が足されているように。

 失敗を引け目に感じている彼が、誰かに好かれるに足る人間であると伝わるように。

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