その言葉に意味を足したい――Jan.
温もりに縋る
ツイていた。
だからこうして、世那は隣のクラスから人が出てくるのを、待ち伏せすることができた。
引き戸がガラリと開き、教師が出てくる。世那のこと訝しがった男性教師に続いて、生徒たちが次から次へと教室の入口から吐き出された。皆、部活へ行こうというのだろうか、賑やかながらも何処か
「世那?」
目の前の教室から出てきた一人の女子生徒が、ポニーテールを揺らしながら、世那に近づいた。
「どうしたの? 何か用事?」
ずり落ちかけた鞄のベルトを直しながら尋ねる親友に、世那は首を横に振った。
「ごめん。今日は
と。世那の目が、後ろの入口から出てきた人物を捉えた。人波に紛れ出ていこうとするその男子生徒を、世那はすかさず呼び止める。
「
張り上げた声に、世那はたちまち注目を浴びる。件の男子生徒はビクリと足を止め、おそるおそるといった様子で世那のほうを振り返った。
「一緒に帰らない?」
瞬時に事情を理解した愛美に手を振って別れ、世那は彼に近づいた。周りの好奇な視線が
彼――笠居
「えっと……」
湊は
それでも世那はじっと彼の顔を見つめ、静かに答えを待つ。目立つタイプではない彼が、こうして大勢の前で〝彼女〟に誘われて、狼狽えることなど織り込み済み。あとはただ祈るだけだ。彼が世那を拒絶しないことを。
「…………いいけど」
拒絶の言葉が出ないことにほっとしつつ、世那は笑みを作った。
「じゃあ、行こ」
湊の手を引っ張って、廊下を突き進む。階段を下り、下駄箱へ。そこで一旦お別れして、上履きからスニーカーに履き替える。
世那が少しもたついている間、湊は逃げずに待ってくれていた。ブレザーの上に羽織ったコートのポケットに手を入れて、下駄箱にもたれて。ガラス戸の外を真っ直ぐ見つめている。見えるのは学校のロータリー。ただでさえ色気がない上に、冬枯れていて景色は灰色。それに見入るような表情をしているのはどうしてか。
彼の視線がこちらを向いた。
「どうかした?」
世那は我に返った。
「ううん」
なんでもない、とへらりと笑って、世那は湊の傍に行く。
外気は毛穴から強引に滲み入るような冷たさだった。世那はマフラーを巻いているのにも関わらず首を竦めた。身体が強張る。少しでも暖を取ろうと身を抱きしめるが、スカートから飛び出た剥き出しの足はどうしようもない。せっせと足を動かして、身体を温める。
校門を出て、通りに出て、学校の窓から見える川の橋に差し掛かるまで、二人の間に会話はなかった。湊は、女慣れどころか人慣れしていないようで、軽く眉根を寄せて、若干俯き気味で歩いている。世那は、そんな途方に暮れた彼を、ちらちらと横目で見上げている。
カップルの甘い雰囲気など一切ない。
「ね」
思い切って、世那は話し掛けた。
湊の少し驚いたような目が、こちらに向く。
「今日、なんかあった?」
どこからどう見ても、場を繋ぐために仕方なく選んだ話題だった。世那の口の中が苦々しくなる。しかし、こうでもしないとコミュニケーションが取れない。
「いや、別に……」
湊は気まずそうに視線を逸らし、川の流れのほうにいく。
「ああ、でも」
からっ風が川の流れに沿って吹き下ろし、身を切るような寒さに襲われた。それでも世那は、立ち止まってしまった湊の言葉を辛抱強く待つ。
「
「愛美?」
先程別れた親友の名を繰り返して話を促しながらも、世那は話題を察した。
「――うん。温井さんに、また、ピアノの伴奏を頼まれて」
ああ、とだけ返事をする。愛美は合唱部で、湊も
だが、湊は、夏に部活を辞めている。
それだけに、触れにくい話題ではあった。
「断った、の?」
「…………うん」
湊の視線は、川から橋の欄干に移動した。つまり、俯いたのだ。
世那は目を伏せた。
湊は、よりによって合唱コンクールのときにミスを犯してしまったそうだ。それを苦にして、湊は合唱を辞めた。愛美はそれでも湊に伴奏をして欲しくて、部に戻るよう何度も誘っているわけだけれど、湊のほうは失敗を引きずっていて、ずっと断り続けている。
「……そっか」
戻ればいい、と世那は思っていた。過去の失敗はどうであれ、湊は必要とされているのだから。それに、湊はまだピアノが好きなのだ。だから愛美に強く出られない。
でも、気軽にそうは言えなかった。当時のことを何も知らない世那が、おいそれと彼の傷口に触れていいはずがない。
世那にできるのは、ただ湊の気持ちを受け止めるだけ。
代わりに、湊に手を伸ばした。風に冷たくなった指先を包むように、軽く握り込む。
湊は目を瞠り、世那を見下ろした。
手は振り払われなかった。だから世那は、自分の手を湊の指先から掌に移動させた。
戸惑いがちに、握り返される。どちらともなく歩き出した。橋を渡り、住宅街に差し掛かる。
こんなときなのに、心が少しだけ浮き立った。自分はきちんと湊に求められているのだという喜びで。自分たちはまだ恋人らしい恋人ではない。そのことがずっと気になっていたから。
「これから、何処か行く?」
掌に伝わる温もりは、世那の気を大きくさせる。
「ごめん。今日、塾だから」
断られても、気落ちはしない。
「そっか。じゃあ、また終わるまで待ってるね」
湊は心配そうな顔をした。湊の塾は夜からだ。終わるのは、夜遅く。そんな時間に女の子が一人歩いているのが気になるのだろう。
だが、世那にしてみれば慣れたものだ。世那は、たびたび夜に外を出歩いている。世那の家は父子家庭で、父親は娘に興味がない。家に居場所がないから、夜の街に逃げ込むことが多かった。
他クラスである湊と親密になったのも、そもそもそれがきっかけだ。
「若山さん。あんまりそういうの――」
「大丈夫」
勇気を出して咎めてくれる湊に、世那は微笑み返した。それしかできない自分に、悲しくなりながら。
湊は仕方なさそうに溜め息を吐く。
「送ってくから」
「ありがと」
嬉しくなる一方で、不安にもなる。面倒を掛けていないか、とか――そもそも、この関係すら迷惑なのではないか、とか。
『私たち、付き合わない?』
告白したのは、世那のほうだった。何度か交流を重ねて、心根に触れて、湊に強く惹かれていった。気まぐれでも打算でもない。本当に湊に恋をしていた。
だけど、そのときは、〝好き〟だとは言っていなかった。きちんと恋人として付き合いはじめるには、世那の言葉が足りなかったのだ。
だからなのだろう。湊は、世那が本気で自分のことを好きなのだと信じていない節がある。時折見せる不思議そうな目が、そう訴えている。
彼は、告白に承諾こそしてくれたが、実のところどう思っているか、世那は不安だ。彼は自己肯定感が低いから。それに、優しすぎるところがある。もしかしたら断れなかっただけなのかもしれない。
その疑心が、世那を躊躇わせていた。本当はピアノを弾いて欲しいのに、そう促すこともできない。
日はもう沈み、空は薄暗くなってきていて、一足早く街灯が点いていた。住宅街を抜ける道は、下り坂になっていく。道が分かれるまでに、まだもう少し猶予があった。
世那は繋いだ手に、少し力をこめた。不思議そうに湊が見下ろしてくるが、気づかないふりをした。ただ、この手から自分の想いが伝わるように念じる。今さら〝好き〟とは言えなかった。それこそ気持ちを押し付けてしまいそうで。相手を困らせることになりそうで。
あのときに戻れたら、と世那は思う。そうしたら、絶対に自分の想いを伝えるのに。
だが今は、ただ祈るのみだ。彼が正しく世那の告白を受け止めてくれているように。言葉足らずだった〝お付き合い〟の申し出に、きちんと真意が足されているように。
失敗を引け目に感じている彼が、誰かに好かれるに足る人間であると伝わるように。
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