見上げれば降るかもしれない――Dec.
星は遠く届かずとも
外に出ると、冷たい夜気が肌に染み入った。吐く息は白い。クルロはシャツだけを羽織った身体を震わせると、階段を下りて庭に降り立った。芝だけが植えられた広場。観賞用の花木は、もう少し離れた場所にある。もっとも冬を前にして、そこに彩りはなかったが。
黄色くくすんだ芝を踏みつけて、真ん中に立つ。傍らに抱えていたのは、夜の空気より冷たい刃を持つ剣。クルロの足の長さほどの刃渡りを持つ剣は、クルロが十四になってようやく身体に馴染むようになった。それだけ成長したのだ、と実感する。
……実感はするが。
剣を構え、闇を見据える。向かいには誰も居ない。が、クルロはそこに相手がいることを想定して、剣を振った。振り下ろした剣を、仮想の敵は受け止める。鍔迫り合うことなどせず、すぐに剣を翻す。足捌きを意識して、二度、三度、と攻める。受け流され、躱される。何度も何度も相手に切り込んで……しかし、柔軟な剣捌きをする仮想の相手にさえ、クルロの剣は届かなかった。
息があがる。芝生の上に膝を付く。冷たい空気が肺の中に押し入る。いつの間にか汗を掻いていて、身体は先程よりも冷えていた。寒さは堪えるが、それ以上にクルロは悔しさに身を震わせた。クルロが頭の中で戦った相手は、実在する人物だ。クルロがまだ一度も勝てていない相手。想像の中でさえ勝つことができなくて、己の未熟さに歯噛みする。
「くそ……っ」
悪態が漏れる。その間にも激しい呼吸音。自分が如何に至らないかを思い知らされた。
「くそ、くそ、くそ……っ!」
剣を持たぬ手で、芝生の上を殴りつけた。地面が抉れる。すぐに後悔した。庭師が丁寧に管理してくれている芝を、自分の癇癪で傷つけてしまうなんて。
「……くそっ」
幼さを自覚する。まだまだ自分は大人には程遠い。どれだけ未熟なのか、と目に涙が滲んだ。悔しい。夜の中に一人蹲る。せめて浮かぶ涙を流すまい、ときつく目を瞑る。息遣いを数えて、どうにか自分を落ち着かせようとしたとき――
「風邪を引くよ」
凜としたアルトがクルロの耳に飛び込んできた。
慌てて顔を上げれば、クルロが先程でてきた扉から、一人の娘が出てきた。豊かな黒髪を靡かせて、階段を下りる。その姿は、ネグリジェにガウンを羽織っただけの恰好で、クルロは目を瞠った。
「
剣を放りだして、悠々と庭に降り立った娘に駆け寄った。血の繋がらないこの姉は平然としているが、クルロは気が気ではなかった。身体を動かしていた自分でさえ身を震わせるほどの気温の低さなのに、彼女の恰好は厚着とは言い難い。
「寒いから早く中に入って!」
「それは君もだと思うけど?」
彼女は
「ほら。こんなに冷えて。汗も掻いているじゃないか。このままでは本当に風邪を引いてしまうよ」
夏の海のような青い目が、クルロの目を覗き込む。穏やかな光を宿しているが、有無を言わさぬ力があった。クルロはばつが悪くなって、視線を逸らす。
「……片付けたら、入ります」
「身体も拭いてね。いや、それより風呂に入ったほうが良いかな」
「いや、そこまでは……」
クルロは遠慮した。風呂を入れるとなると、既に休んでいるだろう使用人を働かせることになってしまう。この夜更けに。それはさすがに申し訳なくて、拒んだのだが。
「入るように。いいね?」
義姉イネスは、許さなかった。階段を上り、邸内に通じる扉を開ける。そこに誰か控えていたらしく、イネスはその誰かに風呂の用意を言い渡す。クルロはその場で俯いた。迷惑を掛けてしまった後悔が滲む。
義姉は、そのまま邸内に入ることはせず、立ち尽くす義弟の傍に下りてきた。身を抱くようにしてガウンを掻き合せると、溜め息を吐いて夜空を見上げた。
「熱心だね」
クルロの剣の訓練のことだと、すぐに分かった。
「……貴女に勝つのが、俺の最低限の目標ですから」
不貞腐れたように答えるクルロの旋毛に、軽い笑いが落とされる。今こそ儚げな姿をしたこの義姉が、相当な剣の使い手であるとクルロは身を以て知っていた。クルロに剣の手解きをしてくれているのは、他でもない彼女だ。
剣を振って二年余り。クルロは一度も彼女に勝てていない。
「なら、最高の目標はなんなのかな?」
「……この国の英雄に、届くことです」
クルロの脳裏に浮かぶのは、その英雄の姿――ではなかった。一人の少女だ。クルロがまだ幼いとき、英雄に連れて行かれて生き別れた、愛しい幼馴染だった。
クルロが一心に剣を振るうのは、彼女のためだった。彼女に再び逢うため、そしてその手を掴むために、クルロは強くなろうと努力していた。
……だが、その道は険しい。当初自分が思っていたよりもずっと。
剣を扱うとはいえ、いち令嬢でしかない義姉にさえ、まだ届いていないのだから。
「それは、まるで星を掴むような話だね」
クルロは唇を噛み締めた。馬鹿にされたわけではない。が、無理だと言われているような気がした。頭上に広がる夜空は果てなく遠い。そこから光を投げかける星は、雲よりも高い位置にある。いくら手を伸ばしても届かないという点で、星を掴むのは雲を掴むより難しい。
「それでも君は、星を掴もうとするんだね」
イネスの言葉に、クルロは顔を上げた。義姉を睨むかのように、強い意志を以て、青い瞳を見返した。イネスの言う通り、不可能だと言われても引き返す気などなかった。無理でも手を伸ばさなければ、あの少女には届かない。
クルロの覚悟を、イネスは柔らかい表情で受け止めた。無謀な挑戦をする義弟を慈しむようだった。血の繋がらない――そして、たった二年前に来たクルロを、義姉は、本当の弟のように愛してくれていた。
「君の覚悟は素晴らしいものだと思う。……でもさ、ほら」
イネスは、天を指差した。つられてクルロは空を見上げる。邸の屋根の向こう、落ちていきそうなほど深い闇洋の空には、銀砂を巻いたような星屑が広げられている。
クルロは、眉を顰めた。
イネスは笑みを深める。
「見上げていれば、星のほうから降ってくるかもしれないよ?」
ますますクルロは眉を顰めた。いくら睨みつけるように見つめてみても、銀砂の海はそこで瞬くばかりだった。星は高みに在り続けるだけ。クルロは肩を落とす。
――と。
まるで雫が落ちるように、空を一筋の光が流れていった。
クルロは目を見開く。
「ほら」
イネスは愉しそうに、光が消えた先を指差した。
――星が、降った。
呆然と義姉を見上げるクルロの肩を、イネスは軽く叩いた。
「あまり肩肘張るのではないよ。そのほうがかえって見落とすものもあるからね」
クルロの肩から手を離したイネスは、踵を返して階段を上っていった。そして扉の前で振り返る。
「それではおやすみ。……ちゃんと温かくして寝るんだよ」
扉は静かに閉められて、クルロはそこで我に返った。挨拶を返す間もなかった。迂闊な己に、小さく溜め息を溢す。
階段を離れて、芝生の上に戻り、転がしたままの剣を拾い上げた。ずっしりとした重み。宙で軽く振るってみせる。
イネスはああ言ったけれど。
クルロは結局、努力を怠ることはできないだろう。
剣を振り続けることだけが、今のクルロにできることだった。もしも届かなかったら――その恐怖がクルロを突き動かす。
ただ見上げて待つことなど、できはしない。
「それでももし、君のほうから来てくれるなら――」
クルロは夜空に目を凝らす。星はやはり瞬くばかりで、先程のような奇跡など起きはしなかった。
だが、〝もしも〟を想像して、クルロの頬に笑みが浮かぶ。
――きっとどれほど幸せだろう。
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