あるいは幸運なミステイク――Nov.
スクリュードライバーに翻弄されて
「ああクソっ! 俺はなんてツイていないんだ!」
地上からのサーチライトで辺りが眩くなった三階建ての建物の屋上で、
「先週バーで口説き落とした女が、〈怪盗コレット〉? 冗談にも程があるだろ」
「あるいは幸運な
嘆く久登の目の前で、その女は笑った。アシンメトリーなボブカット。猫のようにしなやかな肢体に、
「キミが私を口説き落としたからこそ、今〈コレット〉を追い詰めた。そうでしょ?」
腰に響くハスキー・ヴォイス。吊り目がちな流し目に、酔いしれたのは金曜の夜のこと。カクテルを飲み交わし、魔法のような時間と熱に溺れたあと、風のように去ってしまった女。またあのバーに行けば会えるだろうか、と密かに期待を抱き、しかし仕事の忙しさに機会を得ぬまま迎えた今日。まさか、思いがけぬ再会を果たすとは。
〈怪盗コレット〉。近頃巷を賑やかす、華麗なる窃盗犯。狙うは宝石に美術品。小説のように予告状を送りつけ、警察の警備を掻い潜って標的を奪い去る愉快犯。
秋山久登は、その〈コレット〉に頭を悩ませる、捜査三課の一員だった。御年二十六歳。大卒で警察に入り、四年近くずっと窃盗専門の捜査官として務めている。ベテランとは言えないまでも、そこそこの経験値(自称)。
だが、予告状以外の手掛かりを残さない〈コレット〉には、久登に限られずとも警察は手を焼かされていた。手掛かりはほとんどなく、捜査は難航。警備課と連携して〈コレット〉を捕らえんと試みるも、姿さえ捉えられぬままあっさりすり抜けられて。警察の威信も何もあったものではない、と上司に叱咤されながら臨んだのが、今日この現場。大粒のダイアモンド〈女神の涙〉をいただく、と予告状のあった美術館。
久登はビルの間に設けられた敷地内に建てられた二つの建物の片方――別館の屋上に立っている。奇抜な恰好をした、明らかに警察関係者でない女と一緒に。
「別に、〈コレット〉が居ると思って、ここに来たわけじゃないさ」
久登は苦々しげに言う。
警備課の者に警備を任せ、遊撃隊として周囲を巡回していた久登。〈女神の涙〉が展示されていない別館に来たのは、予告時間までの暇に飽かせて、最近体験した一夜の恋を思い出していたからだった。
『仕事をするときはね、まず遠くから目標を眺めるの』
どういった話の流れだっただろうか。カウンターに頬杖をついて、カクテルグラスの縁を指先でなぞる。酒精に酔っていたのだろうか、彼女はうっとりとした表情で、自らの心得を語った。
『全体を俯瞰する。そうすると、目標に至る道が見えてくる。あとはそこを通り抜けるだけ。危ない道だったとしても、それはそれで楽しいし』
もしかしたら〈コレット〉も似たようなことを考えるのかも、と思い至り、なんとなく別館の屋上に出てみたのが、ついさっき。そうしたら、この不審者と鉢合わせ。それが発言者当人だというのだから、久登の驚きと落胆は計り知れない。
「それでもキミは私を見つけた」
高いヒールのブーツを鳴らし、〈コレット〉は前に出る。二歩、三歩と近づいて、腕を後ろに組んで前に屈む。上目遣いに久登の渋面を見上げると、女は妖艶に笑った。
「私への愛が、キミをここへ引き寄せた」
「自惚れるな」
一晩一緒にいただけで〝愛〟だなんて、大袈裟だと思ったが。
「〝あなたに心を奪われた〟」
覚えのない台詞に、久登の眉根が寄った。
「スクリュードライバーを奢ってきたんだから、そんな嘘には騙されない」
身を起こした女は、片足を軸にくるっと一回転。久登から距離を取る。伸ばした久登の右手が宙を掻いた。女を捕まえ損なって、思わず舌打ちをする。
〈コレット〉は笑い声をあげた。わずかに上気した頬。この状況を楽しんでいる。愉快犯めが、と久登は奥歯を噛み締めた。怪盗なんぞやっているあたりからして頭がおかしいとは思っていたが、正体がバレても慌てることなく笑っていられるなんて、やっぱりこの女どうかしている。
……そして、そんな女に心奪われた自分も、また。
捕まえるべき犯人だと知りつつも、久登は現在、胸の高鳴りを抑えられていなかった。惚れている。見惚れている。いつかバーで口説いたときのように、今宵も彼女に。
だからこそ、悔しい。
「俺が警察と知って、誘いに乗ったのか」
「まあ、気づいてはいたけれど」
そう答えられて、久登の心は傷付いた。誘いに乗ったのは、打算の上だったのか。そうだと思うと、落胆した。すぐに見ないふりをしたが。
「でも、そうね。キミの誘いに乗ったのは、キミに興味があったから」
トン、と女は跳ねて、久登の前に立つ。久登の頬を包むように両手を伸ばしたのは、いったいどんな気の迷いからか。
目の前の妖艶な笑みを、久登は強がって睨みつけた。
「……逮捕する」
しかし〈コレット〉は不敵な笑みを崩さない。
「できないよ」
女は久登の顔を覗き込む。挑戦的な眼差しが、久登の脳髄を射貫く。
「今宵、私はまだ何も盗んでいない。私が〈コレット〉だという証拠もない」
「厳戒態勢の今、一般人が侵入している時点で十分怪しいだろ」
「〈コレット〉を見に来ただけの野次馬かもしれない」
「……その恰好で?」
「可能性は捨てきれないんじゃない?」
食っても食えない悪戯な表情。だから逮捕なんかできないよ、と重ねて言う。そうだろうか、と一瞬でも逡巡してしまったが最後。〈コレット〉はひらりと身を翻し、久登の手の届かないところへ行ってしまった。
「そんな可愛いところばかり見せないで。刑事なんだから、もっとカッコイイところを私に見せてよ」
「何を……っ」
からかうような物言い。近づいたり離れたりと翻弄する動き。馬鹿にされているように思えて、久登の頭に血がのぼる。
「今日のところは、キミに免じて、何も盗らずに引き下がってあげる。私の予定を狂わせたんだから、そこのところは誇っていいよ」
「……お前っ!」
久登は歯ぎしりした。
「でも、諦めたわけじゃないから」
だから、私を捕まえてみせて。
犯行予告に挑発行為。あまりにふてぶてしく、もはや憎らしさまでも感じた。
「だったら今、大人しく捕まれよ」
「駄目だよ、そんなの。キミが私を追って、追って、追いかけて、執念の果てに捕まえてくれるようじゃなきゃ」
ロマンがないでしょ、と女は再び口元に指を立てる。何がロマンだ、と久登は青筋を立てた。そんなことより警察としての矜持だ。久登は床を蹴り、怪盗に手を伸ばす。これからもずっとこの女に翻弄されるのかと思うと、我慢ならなかった。
しかし〈コレット〉は猫のようにしなやかに、屋上を囲うフェンスに飛び移る。
「それじゃあ、またね」
フェンスの上に腰掛け、久登に向けて手を振った。そのまま背中から落ちていく。
久登は、慌ててフェンスの傍に駆け寄った。
「クソ……っ」
ぶつかる勢いでフェンスにしがみつき、その向こうを憎々しげに睨みつける。夜闇の中で目を凝らしても、女の姿はどこにも見つけられなかった。
墜落したわけがない。逃げたのだ。逃げられた。煙のように消えてしまった。これでは追おうにも追うことができない。
これまででより一層、久登の中に悔しさが滲む。あまりに悔しくて、夜闇に向けて久登は叫んだ。
「絶対……絶対俺の手で捕まえてみせるからな! 〈怪盗コレット〉!」
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