きみと息がしたくなる――Oct.

気分は人魚

 学校の図書室の中は、しん、と静まり返っていた。停滞した空気。微睡みたくなるような日差し。外から入ってくる音はフィルターが掛かっていて、何処か遠い。午後三時。午前中だけの授業を終えて、図書室で取り組んだ受験勉強は、これ以上ないほど遅々として進んでいなかった。

 シャープペンシルを弄ぶ。人差し指と中指の間に軸を取ったクリアブルーのペンは、本来の役目を果たさずくるくると回っていた。罫線ノートの上に影が落ちる。ページの半分は三十分以上白いままだった。

 クリアブルーの円弧が止まる。溜め息が溢れる。――息が詰まる。


「水の中みたいだね」


 ぼんやりとした頭に、向かいから声が飛び込んだ。耳に心地の良いアルト。視線を上げれば、中性的に整った顔立ちがあった。短めの髪。すっと切れた眦。頬杖をついた顔は、窓の外を見つめている。遠くを見つめた物憂げな横顔は、宗教画みたいだった。精緻な絵に、宮内みやうち清花せいかは魅入られる。長いまつげ。高い鼻梁。抜けるように白く、きめ細かい肌。さくらんぼのような唇。彼女――田辺千智ちさとは完璧だった。少年のようなその仕草も含めて。

 やがて、清花の視線に気がついたのか、千智は瞳をこちらに向けた。心臓が跳ねる。流し目に息の根を止められる。彼女の関心を引いた。それだけで、まるで神に拝謁したかのような陶酔。


「どうかした?」


 口の端が持ち上げられて、清花は我に返った。不躾に他人の顔を見つめていた羞恥に、頬が熱くなる。気まずさに視線を逸らせば、小さく笑う気配がした。


「〝水の中みたい〟って?」


 追及を避けるように、問い掛ける。


「図書室。静かで、緩やかで、息が詰まる。まるで水の中にいるみたいだ」


 最後の言葉は、唾棄するかのようだった。そこに、清花は発言の真意を得た。


「……勉強に飽きたの?」

「流石だね、清花。きみはいつも私のことを解ってくれる」


 彼女は嬉しそうに顔を綻ばせる。理解もなにも、自分も同じような状況にあるだけなのだが。悪い気はしないので、そこは笑っておく。

 清花は図書室が水に沈んでいる様を思い浮かべた。ようやく訪れた秋の冷たさもあって、その光景はすんなり自分の中に入ってきた。静かで、緩やか。そしてそれを壊してはいけないような雰囲気は息苦しい。なるほど、確かに図書室の中は、水で満たされているようだった。


「嫌になるね」


 再び外に目を向けた千智が溢す。

 清花は自らの手元に視線を落とした。半分だけ埋まったノート。黒鉛で書かれた数式がシミのように広がっている。びっしりと文字が敷き詰められた問題集。全然内容が頭に入ってこない。

 完全に行き詰まった。

 清花はシャープペンシルを放り出す。


「ねえ」


 彼女は再び清花を見ていた。そこに物憂げな色はない。形の良い眼には、いたずらっ子のような輝きが宿っていた。


「外行こっか」

「……外?」

「息抜き」


 先程までの停滞ぶりが嘘だったかのように、彼女はてきぱきと机の上のものを鞄にしまいはじめる。清花も慌てて片付けをはじめた。もたもたしていたら、置いていかれる。それは嫌だ。

 受験生なのに勉強しない罪悪感が胸をよぎったが、どの道勉強に身が入っていなかった。このまま何処かに遊びに行こうと、図書室に籠もっていようと、進み具合には大差はないだろう。


 清花たち三年生は午前中だけだったとはいえ、他学年はまだ授業中。足音を殺して校舎内を駆け抜けると、そのまま駐輪場に向かった。自転車を引っ張り出し、敷地から出る。

 咎める者はいないだろうに、清花は他人の目を盗んでいるような気分に陥った。だからこそ、二人で学校を抜け出すことに高揚感があった。

 千智との逃避行。甘美な響きである。


 閑静な住宅街を抜け、十分ほど自転車を漕いで辿り着いたのは、山の麓にある神社だった。神主が常駐しているような、それなりに大きな神社。玉砂利の敷かれた駐車場の隅に自転車を停めて、鳥居から境内に入り込む。社殿は訪問せず、参道の途中にある山を上がる階段を登った。

 およそ四百の長い石階段。どちらが早く登れるか競争するのは、まだ自分たちが子どもだからだろうか。


 息を切らしながら必死に駆け上がった先で、清花はふらふらしながら街並みを見下ろす展望デッキに近寄った。設置してある簡素なベンチには、満面の笑みを浮かべた千智がいる。勝負は彼女の勝ちだった。


「ずるいよー、もう」


 途切れ途切れの呼吸の合間に、抗議する。


「吹奏楽やってた千智のほうが、体力あるもん」

「もう二ヶ月も前に引退したけどね」


 だが、基礎体力が上であることには変わりはない。


 千智の隣に腰かける。深呼吸を何度も繰り返して、息を整えた。秋の空気が肺を冷やす。

 落ち着いてくると、眼下の景色に意識を向ける余裕ができた。足元にはさっきまで居た学校。住宅ばかりの田舎だが、遠くとなると町の中心にある駅ビルやら、住民御用達のデパートやら、車でしか行けないような遠くまでが視界に入る。

 住み慣れた町の俯瞰風景。


「はあ……」


 溜め息が声となって漏れる。下界から離れてようやく、息ができるような気がした。肺の中が酸素で満たされる。

 隣でベンチの座面に後ろ手をついている千智も、たぶん同じことを感じているのだろう。彼女も満たされたような表情をしていた。


「いいね」


 千智は満足そうに息を漏らす。わずかに開いた唇が官能的で、思わず清花の目を引いた。


「良い景色だ」


 目を閉じ風を感じる千智の、美しいこと。

 静寂が二人の間を支配する。聴こえるのは、風が色づきかけた木の葉を揺らす音。下界を走る車の走行音もかろうじて届くが、他の音はない。煩わしい世界から二人だけ隔離されたかのよう。

 海の底から水面に出た。そんな気分。


「こういうところにいるとさ、トランペットを吹きたくなるんだ」


 清花が頭の中で眼下の景色を水没させていると、おもむろに千智が口を開いた。千智は部活に在籍時、トランペットを吹いていた。確か自前の楽器を持っていたはずだ。そこからして、彼女がどれだけ部活の青春を捧げていたのか解ろうもの。


「楽器、触ってないの?」


 だからこそ、千智の呟きに隠された悲哀の感情に、清花はいち早く気がついた。


「触ってない。だって受験生だよ?」


 手にするだけで親に目くじら立てられる。唇を尖らせた彼女は、少し寂しそうで。

 おそるおそる、清花は千智の手に自分の手を重ねた。

 温もりを感じてか、千智がこちらを向いて微笑む。


「ああ、部活やってた頃は良かったな」


 肩に千智の頭が乗った。彼女の髪に首筋をくすぐられ、清花は笑い声を漏らす。


「大学に行ったら、また吹けるよ」

「もちろん、そのつもりだよ」


 でもそれまでが苦しいな、と千智は溜め息を溢した。統一試験まで三ヶ月。国立の一般試験も含めると四ヶ月強か。それまで清花たちに自由はない。


「清花は? 大学に入ったら、合唱はやらないの?」


 肩に頭を乗せたまま見上げられ、清花は表情を曇らせた。

 千智が吹奏楽部なら、清花は合唱部だった。だが、引退したわけではない。中退だ。二年生のとき、部活の先輩との折り合いが悪くてやめた。向こうの引退を待つこともできなかった。そのままでは歌うことを嫌いになってしまうところだったから。

 後悔はない。――だけど。


「正直に言うと、迷ってる」


 千智は頭を上げた。目を瞠った彼女は、真剣なまなざしでこちらを見る。


「歌いたい、ような気もする。でも……なんのために歌いたいのか、わからなくなってる」


 部活動をやめたことで、清花を嘲笑う人がいた。姉だ。すでに大学を卒業し、就職をしている。もう仕事をして三年目だったか。

 彼女は、悩んだ末の決断をした清花にこう言ったのだ。就活のときに困るよ、と。面接官に、高校時代の生活を尋ねられたらしい。陸上をやっていた姉は胸を張って質問に答え、その会社に就職できたらしいが。

 それができなくなるよ、と姉は清花を憐れんだ。


 自分の決断が、将来の影響する。部活をやめただけで、自分はつまらない人間に成り下がる。そのことに愕然とした。 

 それから思ってしまったのだ。大学に入って、サークルに入るとして。それは純粋に歌うためなのか。それとも、就活の面接のネタのために所属するのか。

 たかが一瞬いっとき、そんなことのために歌わないといけないのか。

 歌うか歌わないかくらい、自分の好きにさせてくれないのか。


 せっかく呼吸ができたと思ったのに、また息苦しくなる。町を沈めた海の水位が上がる。世間が清花の足を絡め取り、海の底に引き摺り込もうとする。

 ――つらい。


 清花は立ち上がった。展望デッキの端まで歩き、手すりを掴む。そのまま身を乗り出し、叫ぼうと息を吸い込んで……だが、声にはならなかった。

 ただ、胸から息を押し出した。

 清花の心の叫びは、緑と黄色に色づいた斜面に絡め取られていく。決して下界に届きはしない。


「なんなんだろうね」


 ベンチの千智を振り返り、清花は欄干にもたれた。目を丸くして、ベンチから腰を浮かせた千智が目に入る。心配してくれたのだろうか。


「好きなことくらい、好きにやらせてくれればいいのにね」


 受験、就活、世間体。眼下に広がるこの世界は、清花たちをそんなものでがんじがらめにして、清花の自由を認めない。心さえも枠に填めて、息苦しい社会に沈めていく。

 それが正しい、と清花たちを否定して。顧みもしない。

 なんて腹立たしく、虚しい世界。


「好きでいていいよ」


 千智が前に立つ。そのきれいなかんばせが歪められているのは、清花のためだろうか。

 泣き出しそうな表情をした彼女は、清花に縋り付くように抱きついた。強く掻き抱かれて、がらんどうだった清花の心が再び満たされていく。


「好きでいようよ」


 抱き合ったまま、潤んだ眼を見つめ合う。秋風が上気した頬を撫ぜる。爽やかな空気の中で、お互いの温もりが愛おしかった。――離れることができなかった。


「聴きたいな、きみの歌」


 落とされる囁きに、彼女の腕の中で、うん、と応じる。彼女だけは、清花を肯定してくれる。

 清花は千智の肩に頬を擦り寄せた。


「私も、千智のトランペットが聴きたいよ」

「聴かせてあげるよ。いくらでも」

「受験が終わったら?」

「まあ……そうなるね」


 憂鬱だ、とばかりに溜め息を吐く。うんざりとした千智の様子がおかしくて、清花はくすりと笑った。


 水位が下がる。

 清花は息を吹き返した。


「そろそろ帰らないとね」


 日暮れはあっという間に訪れる。いつの間にか空は赤く染まり、山は影を濃くしていた。清花と千智は互いの手を繋ぎ、黄昏に沈む町並みを見下ろしていた。

 いつまでもこうしていたいところだが、二人には現実が待ち受けている。ひとまず、受験勉強だ。進学を決めたからには逃れられない。

 組み合わせた手を、ゆっくりと解く。指先が名残を惜しんで宙を掻いた。

 未練がましく手元を見つめていると、千智の視線に気がついた。夕日に照らされた彼女の顔が苦笑を浮かべている。


「そんな顔しないの。また会えるんだから」


 学校で。受験生で週一になってしまったが、登校の機会はある。そうでなくても、会うことくらいできるだろう。なんなら一緒に勉強する約束でもすればいい。

 それでも、名残惜しくなってしまうのは、どうしてだろうか。

 清花は、繋いでいた手で千智の袖を引っ張った。


「また来ようよ……二人で」


 上目遣いに見上げると、彼女は目を細めて頷いた。


「そうだね。また二人で」


 四百段の長い階段を、二人でゆっくりと踏みしめるように降りていく。下に着いた頃には、日はもう山の向こうに沈んでいて、夜の闇が町に広がってきていた。

 自転車に乗り、別れを告げて帰路に着く。灯火したライトが照らし出す道のりは細い。慣れた道なのに、薄暗闇に心細さを覚えた。

 千智がいない。それだけで、清花の世界は翳っていく。

 清花は、さっきまで居た高台を振り返る。景色が良いだけで何もない場所。それでも、千智と来たというだけで特別な場所だった。

 また行こう。心に決める。約束が履行されるのは、案外早いのかもしれない。


 だって、この世界はやはり息苦しい水の底のようだから。

 水面の上で、きみと息がしたくなる。

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