月を飛ぶ蝶のように――Sep.
箱庭の蝶
黄色の花が咲き誇る庭園を飛んでいる蝶に、ケイラの視線は引き込まれた。白い羽の蝶だ。八重咲きのルドベキアの間を縫うようにひらひらと彷徨っている。
「どうかした?」
正面から柔らかな声が掛けられて、ケイラは我に返った。頼りなげな昆虫から視線を外し、向かいに座る貴婦人――エルレインに戻す。彼女は青空色の瞳に穏やかな光を宿し、慌てるケイラをじっと見つめていた。
「何でもありません! ただ……」
背筋を伸ばしたケイラは、思わず大きくなってしまった声量を、一呼吸置くことで抑えた。年嵩のエルレインは目元に深く皺を刻んで、ケイラが落ち着くのを待ってくれている。
「まさか月に蝶が居ると思いませんでしたので、驚いてしまって」
色とりどりの姿を見せる庭園。そのはるか頭上には、この都市に蓋をする灰色の天井。果てのある空には、太陽の光に替わっていくつもの照明がぶら下がっている。
ここは月の
だが、いくら緑があるとはいっても、月に虫が居るとは思いもしなかった。
ケイラはもう一度視線を花壇に戻した。花の間を彷徨っていた蝶は、今はルドベキアの一輪に止まり羽を休めている。ゆっくりと羽を開いたり閉じたりする様子は、かつてケイラが地球で見たものと変わりない。本物の蝶であることは疑いようもなかった。
エルレインもまた蝶の姿を見留めたらしい。しかし彼女はケイラと違って驚いた様子を見せず、ああ、と口元を綻ばせただけだった。
「取り寄せたのよ。地球から」
何気なしに発せられた言葉に、ケイラは目を剥いた。エルレインは驚くケイラを可笑しそうに眺める。
「先代がね、蝶が好きだったらしくって。蛹をいくつも取り寄せて、この月の上で羽化させたのよ」
もの好きな。口には出さなかったが、ケイラはそう感想を抱かずにはいられなかった。せっかく地球上の自然から隔離された環境に、わざわざ虫を招き入れるなんて。
「今でもうちでは蝶を飼育しているのよ。卵から孵化させて、幼虫を育てて」
「増やしているんですか!?」
専用の小屋がある、と聴いて、ケイラは慄いた。ケイラの脳裏には、蚕よろしく箱の中で飼育された無数の青虫の姿が浮かび、肌が粟立った。ケイラ自身も他の女の子と同じく、虫嫌いな幼少期を過ごした。二十歳を越えた今は無様に喚き立てることはしないが、それでも苦手なことには変わりない。
「管理しているのよ。付近に花があるのは此処だけだし、住む場所もなくて、あまり増やしても困るもの」
残念そうに溜息を吐くエルレインを不思議な――というより奇妙な目で見たケイラは、不躾な視線を誤魔化すようにカップの紅茶に口付けた。
だが、一度レモンの風味の付いた液体を飲み干すと、考えが変わる。彼女は慈愛に溢れた人だ。その対象が虫にまで向かったとしても、おかしくはない。
「わたくしは、生き物が好きなの」
ケイラから視線を外し、庭を見つめるエルレインの瞳には、先程のような朗らかな色はなかった。
「虫も、鳥も、獣も。もちろん、害虫や害獣は困るけれど。この都市が数多の命で満たされたら素敵だと思っていたのよ」
でも、もうそれは夢のまた夢ね。
エルレインは、溜め息を溢した。
「アルテミスは地球に矢を向けた。もう地球と交わることはない」
私の名で、戦争が始まったのだから。
言葉を落とすエルレインの瞳には憂いの色が宿っている。それをみとめたケイラの胸中はたちまち翳った。
いま起きている、月と地球間の戦争。その宣戦布告が、アルテミスの総統エルレイン・ケンジットの名で行われたのは、月周知の事実だ。しかし実際は、彼女に戦争の意思はなく、ただ名を貸しただけ。実際のところ月の政治は軍部に委ねられていて、彼女はその傀儡でしかなかった。
その状況が、どれほど彼女の負担になっているか、ケイラには想像しきれない。
加えて、ケイラは彼女に宣戦布告をさせた軍の一員だった。こうして同情なんてしてみせるが、本来ならば彼女を利用する側の人間で――。
こうしてお茶をともにすることすら、あり得ない関係。けれど、エルレインはこうしてケイラを懐に入れてくれている。それがケイラには非常に申し訳なく思え、ただ心の内で謝罪する。
「早く、終わらないものかしら……」
ポツリ、と落とされた本音。しかし同調することもできず、ケイラはただ俯いた。その願いは叶わない。叶ったとしても、彼女の望む未来は来ない。
アルテミス。三十年前に〝沈黙〟した月面都市。
交流が断絶した地球では滅びたと噂されているようだが、月に取り残された人々は、細々と生き長らえてきた。
限りある資源の中で、生きる道を模索して。
白で構成された摩天楼の間を、卵型の車両がゆっくりと走り抜ける。ケイラが運転する二人乗りの軽車両。銀色の
港の入口に設置された駐車場に自動車を停めたケイラは、聳えるように立つ軍施設へと入っていった。更衣室で軍服に袖を通す。白のジャケットとタイトスカート。黒のストッキング。かっちりとした衣装に身を固めると、ふう、と一つ溜め息を吐いた。
ロッカーを閉ざすと、更衣室を出る。長靴の硬い靴底が、リノリウムの床を打ち鳴らす。向かった先は、上官の執務室。扉の前で訪問の旨を告げると、許可が下りた。
「ご苦労だったね」
入室するなり労ってくれる上官は、三十手前とまだ若い。軍人とは思えないすらりとした長身で、顔つきも穏やか。空色の瞳は思慮深い
先程まで眺めていたものと寸分違わぬ瞳を前に、ケイラは背筋を伸ばした。上官の座る机の前で敬礼をする。
「スターレット少尉。ただいま戻りました」
「そう堅苦しくしなくて良いよ。ただのお茶会の報告だ」
上官はケイラの様子が可笑しいのか、くすりと笑う。ケイラは眉を下げ、ゆっくりと腕を下ろした。
「それで? どうだった、母上は」
机の上で両手を組んだこの上官は、ブレンダン・ケンジットという。ケイラが先ほどまで訪問していた貴婦人エルレインの息子だった。ケイラは彼に頼まれて、今日エルレインの邸を訪ねたのだ。
「お元気そうでいらっしゃいました。顔色も良く、お食事もきちんと摂られているようで」
「そう。……どんな話をしたの?」
ケイラは眉根を寄せて口籠った。立ち入ったことを訊かれるとは思っていなかったし、そもそも他愛のないことしか話していないのだ。
しいて話題を上げるなら――
「蝶を……育てていらっしゃることをお伺いしました」
「ああ。あれね」
落ち着いたブレンダンの声音に嘲りが混じったのを、ケイラは聞き逃さなかった。目を瞠り上官を見ると、彼は口元を皮肉げに歪めている。
「あの邸は、母の箱庭だ。好きにさせているけれど……」
ブレンダンは組んでいた手を解き、椅子の背にもたれて深く息を吐いた。
「まるで夢見る少女のようだよ、母は」
足を組み、膝を人差し指で苛立たしげに叩いた。眉を顰めたその様子から、彼が母を好ましく思っていないことが見て取れた。
「蝶などと。虫けらに慈悲をくれてやるとはね」
ケイラは無表情を努めた。が、その胸中は曇っていた。ケイラはケイラなりに、エルレインのことを慕っていた。喩えブレンダンの評に一理あったとしても、息子が母の悪口を言うのを平然と聞いてはいられなかった。
「母はもっと別のことに目を向けるべきだ。仮にも、この月を統べる者なのだから」
そうは思わないかい、と尋ねられて、ケイラはぎこちなく首肯した。だが、内心ではエルレインに対して憐憫を抱かずにはいられなかった。少女のように純真なあの貴婦人が、月と地球の争いの立役者にされているという現実が苦しかった。
「嘘が下手だな、君は」
ブレンダンが席を立つ。机を迂回して、ケイラの隣に立った。肩に手を置かれ、耳元に顔を近づけられ、ケイラの身体が硬直する。
「母に同情するのは結構だが、君もこちら側であることを忘れるな」
――君も、私と同じく母を利用する側なのだよ。
つきり、とケイラの胸が痛んだ。自分もまたエルレインを利用する軍の一員であることを、理解していても受け入れ難いことを、突きつけられた。
唇を噛み締め俯くと、そこにブレンダンの親指が触れる。彼はそのままケイラの唇を嬲ると、彼は愉快そうに息を溢した。
月では見られない青空が徐々に近づく。ケイラは静かに目を瞑り、口づけに応えた。
ケイラが酸欠に喘ぐ頃、唇が離された。頬を上気させたケイラを見て、ブレンダンが満足そうに笑う。
「そういえば君も、地球から連れて来られた蛹の一つだったね」
うっそりと笑う上官の顔から、ケイラは視線を逸した。脳裏に浮かぶのは、十年前からの出来事。
月と地球のラグランジュ・ポイントにある宇宙ステーションへと向かうシャトルに、少女だったケイラは乗っていた。しかしそこに、銃を持った男たちが押し入り、ケイラは月まで連れられた。以後、ケイラはこの月で軍の精鋭として育てられ――人型機動兵器のエース・パイロットとして羽化を遂げた。
この、ブレンダンの手によって。
「……なるほど。私も母のことを笑えはしないね」
ブレンダンの手が、ケイラの髪を梳く。まるで愛玩の扱いに、ケイラもまた、自身とエルレインの蝶を重ねた。
――地球から連れてこられ、月で管理された生き物。
月の人間の思うがままに生かされているという点で、ケイラと蝶に変わりはない。
上官の戯れから解放されたケイラは、ひとけのない廊下を覚束ない足取りでふらふらと歩いた。リノリウムの床が、不規則に音を立てる。
窓から遠くに見える演習場。そこで白い機体の人型機動兵器〈モルモー〉が訓練している様子が目に入った。
虚ろな瞳の自分の虚像が映り込む窓ガラスに手を当てる。
白い機体が宙を飛んでいる。灰色の空の下を駆けていく。
ケイラもそこに行きたい衝動に駆られた。宙にいる間は、束の間の自由を感じられる気がして。
ひらひらと花の間を舞う蝶の姿が、ケイラの脳裏に浮かんだ。
箱庭の中で育てられた蝶も、飛んでいる間は自由を感じているのだろうか。
「……だとしたら、私と同じね」
窓ガラスからそっと離れ、ケイラは廊下の先を進んでいく。
目指すは格納庫。自らの翼のある場所へ。
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