太陽の音を忘れない――Aug.
雨降る都
その都は、長きに渡り雨が降り続いていた。期間にして一年。ずっと晴れ間を見て居ぬという。
城の尖塔に突き刺さりそうなほど低い曇天。灰色の雨が石畳を叩く。街に人影はない。おそらく昼夜一貫して灯されている街灯が、石造りの街を浮き立たせていた。
もともと雨の多い土地ではあったらしい。街の通りには、屋根が掛かるところが多かった。硝子の
荷袋を肩に担いだまま、一人漫然と回廊を歩く。静まり返った商店街。
雨水の河が流れる通りを何度渡っただろうか。
そこは円形の広場となっていて、中央に像が建っていた。後ろ脚で立ち上がった馬に乗る一人の勇ましい男の像。片手に剣を掲げている。豪奢な衣服に身を包み、マントを靡かせたその人物は、おそらくこの国の王を象ったものだろう。雨止まぬ苛酷の地にあって、彼の者は雨から守られていた。
「おや」
……像に見惚れていた所為だろうか。私は、像を囲む花壇の石に座った人影を見落としていた。
背の高い男だった。白いシャツと褐色のホーズに、灰色のマントを纏っていた。石壇に腰掛け、長い脚を組み、くすんだ金髪の下から青灰の瞳をこちらに向けていた。端正な顔立ちである。楽器こそ抱えていないが、吟遊詩人のようだと私は思った。
「珍しいな。旅の者か」
男は、広間の入口に立ち尽くした私に声をかける。私のような余所者に対して、親しげな物言い。あるいは、男も
私は円形の広場を横切り、男の前へと立つ。
「ようこそ。輝かしき《太陽の庭》へ」
「太陽の庭?」
不躾にも挨拶を忘れ、問い返す。私は天井を見上げた。硝子張りの丸天井。なるほど、雨天でさえなければ、この場所は存分に陽の光を取り入れられたことだろう。
私は視線を男へと下ろした。男の腰掛ける花壇は、土塊に力ない枯れ草ばかりが横たわっていた。
その前で男は私を見つめ、にこりと微笑みかける。
「長旅で疲れたことだろう。ここで休んでいかないか」
男はぽんぽんと自身の隣を叩いた。そこに座れとのことだろう。
では遠慮なく、と私は男の隣へと腰掛ける。
雨が天井を叩く音が降りしきる。広場を見渡せば、王像に花壇、端に飾られたモニュメント。一角にある建物の壁には凝った大時計が飾られていた。かつてここは憩いの広場だったのだろう、と思いを馳せる。人の往来が目に浮かぶようであった。
だが、今は名ばかりの《太陽の庭》。ここはまるで水底のような静寂に満ちていた。人影も男以外になし。ずいぶんと寂れたものである。
「キールという」
隣の男は手を差し出し、名乗った。その手をおずおずと握り、私自身も名乗り返す。
「ここの住人ですか?」
と尋ねれば、「縁はある」と答えがあった。
「なに。今は行きずりの身さ」
意味を受け取りかねて、私は眉を顰めた。が、相手の事情に立ち入ることは避けた。それは放浪者の心得でもある。
「わびしいことだろう。これでも昔は栄華を誇っていたのだが」
キールは語る。先程私が推測したとおり、ここは雨の多い土地だった。だが、それだけに貴重な晴れ間を有り難いものとして、太陽を崇めていたのだ、と。
それが今どうしてこのように、太陽も垣間見えない土地となったのか。私はそれが気になった。
「この都はいったいどうしたのですか。何か事情はご存知で?」
「さて、ね。色々と囁かれてはいるようだよ。雨乞いに禁術を使ったとか、神の怒りに触れたとか。……だがまあ」
キールは雨妨げる天井を見上げた。灰色の空を見透かさんとする瞳は、不思議と水面のように澄んでいた。現状の憂いの影など何処にもない。それが不思議で、私は彼の横顔に見入った。
「いずれにせよ、祝福ではなかろうな」
そうして彼は空を仰いだまま目を閉じた。じっと雨の音に耳を澄ませているようだった。
それを邪魔して良いものか。私は判断に迷いながらおずおずと口を開く。
「街の人は――」
「みな、引き籠もっているよ。長きに渡る雨に、陰鬱な気分に浸っているらしい」
「あなたは違う?」
「違うな。私はまだ悲観してはいない」
「何故?」
一年も陽の差さない状況など、悲観しかないと思うのだが。
キールは私を見下ろし、一笑した。
「この街は未だ、細く生き永らえているからさ」
またしても私は眉を顰めた。人の行き来のない都は、活気とは程遠い。陰鬱な静けさはいずれ衰退を齎してしまいそうなものであるが……何処に希望など残されているというのか。
「あれを見ると良い」
疑わしい眼差しを送った先で、キールは腕を持ち上げ広場の一角にある大時計を指さした。文字盤だけもずいぶんな大きさだ。天宙を指し示そうとしている長針など人の身長を越えるだろう。
その中、針を支える中央の軸の下に、塗り潰された窓があった。おそらくからくりの類。時間になれば、あそこから何かしらの人形が顔を出すに違いない。
……その、からくり時計がどうかしたのか。私は訝る。
「頃合いだな」
眼差しを時計に向けるキールは薄く笑んだ。私の眉根がますます中央に寄る。
彼と同じように視線を時計に送った先で、黒い長針が天を指し示した。
腹の底にまで響く、鐘の音が鳴る。
閉じられた窓が開く。人形の載った台が窓から飛び出し、赤い民族衣装を纏った女の子が、くるくると踊りだす。
鐘が紡ぎ出すのは、まるで天上から鳴り響いているかのような、荘厳な旋律。灰色の空を割って金の光が差し込むのではないか、と錯覚するほどの。
舞台の上の少女は、まるでその光を一身に受けるかのように、両手を掲げ踊っている。
鐘の音は二小節の旋律を四度繰り返した後、時の数を数えて沈黙した。
雨の音ばかりが響く、静寂が戻る。
呆然とした私に、見ただろう、と男は時計を指し示した。だが、私には何のことだかさっぱり解らない。
「あの曲は《太陽の奏》という」
ここでもまた太陽か。私は胸の内で呟く。この都の人たちが太陽を崇拝していたのは本当のようだった。
「このからくり時計は繊細でね。誰かが管理しなければ、たちまち動かなくなってしまう」
「つまり、誰かが手入れしていると?」
「その通り。未だ太陽の音を忘れまいとしている者が居るのだよ」
キールは舞台の上でやるかのように大きく両手を広げた。その目はキラキラとして、確信に満ち溢れていた。
しかし私は相手を胡乱な目で見ずにはいられない。
「あなたが手入れしているのではなくて?」
「違う。私ではないよ」
だからこそ希望が持てるんだ、とキールは言う。
少し疑いが過ぎたか、と私は反省した。
「この街の人の中にも、希望を忘れていない人がいる。だからこそ私も悲観せずにいられるのさ」
キールはそれこそ太陽を思わせるような、眩い表情で笑った。
たかが時計の鐘の音一つ。これで何かが変わるとは、とても思えない。
それなのに、この男はこうも希望が持てるのか。私には少しばかり信じられなかった。
呆然とその笑顔を見つめる。
あまりに見つめすぎたのか、キールは怪訝そうな表情を浮かべた。
「どうかしたかい?」
「……いえ」
気まずさに視線を逸らす。その先には、あの像があった。灰色の空に剣を突き立てんとしているように見える。この像もまた、反抗の象徴なのだろうか。
私は、腰を上げた。
「おや? もう行くのかい?」
キールは不思議そうにこちらを見上げる。
「はい。もう十分休みましたから」
「そうか。……足元が悪い。どうか気をつけて」
ささやかな気遣いに礼を言って、私は《太陽の庭》を立ち去らんとした。
「健闘を祈っているよ。……それしかできないが」
背後から掛けられたその言葉に、思わず振り返りそうになった。……いったい彼は、何処まで知っているのか。
首を動かしそうになるのを堪え、答えを得ないまま、私は今度こそ《太陽の庭》を後にする。
またしても
そうして辿り着いたのは、都の中心に位置する城だった。
下ろされた橋。閉ざされた扉。砂色の外壁に作られた小さな窓は暗い。街と同じく、ここもまた陰鬱な雰囲気が漂っていた。雨雲はいよいよ低くなり、尖塔の屋根が見えなくなっている。
雨が木で造られた橋を強く叩いた。水飛沫が跳ねている。気をつけないと足を滑らせそうだ。
私は慎重に橋を渡っていく。
重い扉に手を掛けて、そっと押す。蝶番の軋む音と共に私の目の前に現れたのは、深い闇。城内には明かり一つ灯されていない。
私は荷袋から角灯を引っ張り出し、火を点ける。
橙色の光にぼんやりと浮かび上がる城内。赤い絨毯が敷かれた
「……当たり、かな」
呟きが溢れる。
一年もの間、降り続ける雨。この雨が自然なものであるはずがない。
だから私は、事態の解決を図るため、ここに派遣された。
角灯を携え、人の居ない城の中を歩き回る。赤い絨毯を辿った先にある空の玉座。警備も使用人もいない内宮。いくら都が静まり返っているからといって、普通城の中まで沈黙しているはずがない。
ここに生きとし生ける者たちは、いったい何処へ行ったのか。
城内を巡り巡って辿り着いたのは、地下牢の更に下にある広大な空間だった。
角灯の光さえ端まで届かぬほどの地下施設にいたのは、ローブで全身を覆った黒い影。
――祝福ではなかろうな。
キールの予想は当たっていたわけだ。
これは呪いだ。あれは呪いが具現したものだ。
私は荷袋を隅に放り、腰に佩いていた剣を抜いた。広間の真ん中で佇んでいた魔物はこちらに気付いて、フードの下からこちらを見つめた。
黄色い歯が口から覗く。
「……いざ」
だん、と足を踏み鳴らし、私は魔物に対峙する。
この都が、真に太陽を思い出すまで、もう少し。
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