七月の七分七十七秒のゆくえ――Jul.

コージ・テキシン=サバイバル

 梅雨が明けたばかりだというのに、気温は早くも三十五度を越えていた。

 そんな中を迂闊にも、冷房を付けずに過ごしていたものだから、大変だ。

 汗で黒のポロシャツが身体に貼り付くのがいい加減我慢ならず、柑次こうじは読んでいた本をローテーブルに置き、寝そべっていたソファーから起き上がった。座り込んだ途端、ふらつく頭。頭から血が引いていく感覚とともに、視界が黒いシミのようなものに塗り潰される。立ち眩み――起立性低血圧だ。意識が遠のく中で必死に頭を低くして、視界がもとに戻るのを待つ。

 目の前の光景が再び自分の部屋に戻ると、柑次は息を吐き出した。


「全く、忌々しい」


 悪態を吐く。まあ、熱中症の初期症状を迎えるくらい、本に集中していたということだろう。どのくらいの時間本を読んでいたのだろうか、と室内でも腕に着けていたスマートウォッチを覗き、柑次は眉を顰めた。


『7:77』


 いつの間にか付いていたタイマーの画面には、そう表示されていた。


「……目がおかしくなったか」


 目頭を指で挟んで揉み込んだ。

 それもこれも、暑さの所為だ。柑次はアイボリーのソファーの背もたれに手をついて、ゆっくりと立ち上がった。ごくごく軽い吐き気。頭の中が虚ろになる感覚がまだ残っている。もとより血圧が低いため立ち眩みには慣れた柑次だが、この不快感は何度経験しても慣れることがなかった。

 これも全て、横着して冷房を付けなかったのが悪い。


 ソファーの後ろへ回り、そのままキッチンへ。柑次が住むのは2LDKの一人暮らし用のアパート。リビングとダイニングとキッチンが一体化した部屋のエアコンのリモコンは、キッチンの横手にある扉の傍に掛けられていた。

 リモコンのスイッチを押し、エアコンが冷気を吐き出すのを確認したあと、今度はリビングを横切ってベランダに通じる窓を閉じる。一瞬だけ浴びた日光は殺人級。皮膚が焼かれるかと思った。

 遮光カーテンを引いて、日差しをカット。部屋の中が暗くなったので、再び部屋を横切って明かりを点ける。己の行動の効率の悪さに軽く嫌悪をしつつ、エアコンから吹き出す冷気を浴びる。汗の引いていく感覚。汗で身体に貼り付いたシャツの不快感も消えていく。ようやく人心地が着いた。

 もう少し遅ければ、本格的に熱中症になっていたかもしれない。

 己の迂闊さに自重しつつ、冷蔵庫から麦茶を出す。グラスに注いだ一杯を直ちに飲み干し、更に注ぎ足す。今度は口付けず、持ったままソファーへ――


 ガシャン


 手からグラスが滑り落ちた。フローリングの上で、グラスは粉々に砕け散る。中身が裸足にかかったが、柑次は気に留めなかった。

 それどころではなかった。

 一人暮らしの部屋。誰も招いていない柑次の居室。それなのに、柑次以外の人が居た。

 先程まで柑次が寝そべっていたソファーに、男らしき人物が脚を広げて座っている。


「――誰だ!」


 誰何の声を発すると同時に、恐怖が柑次を襲う。知らぬうちに他人が家に押し入ってきた恐怖。

 空き巣か、それとも――


「俺だよ」


 腰を落とし身構える柑次を前に、返事をする侵入者。〝俺だよ〟などと言ってみせるが、心当たりなどあるはずがない。

 ないはずだ。

 柑次は混乱に陥った。確かに、勝手に人の家に上がり込むような無頼漢の知り合いはいない。けれど、男の顔は見知ったものだった。

 面長な顔と、吊り上がった眼と、肩まで伸ばした長い髪。

 他でもない、柑次と瓜二つの顔。

 メタルフレームの眼鏡だけないが、相手はまさしく〝俺〟だった。


「そう驚きなさんな……って言っても無理か」


 絶句する柑次を前に、もう一人の柑次が口を開く。膝に手を付き、鷹揚に立ち上がった彼は、柑次には見慣れない服装をしていた。身体にピタリと貼り付いた半袖の黒いシャツ。砂色のサルエルパンツ。金の縁取りがされた白いベスト。何故か室内で履かれている白い沓。一見してエスニックな恰好。

 柑次は唖然と口を開き、目を瞬かせる。自分と同じ顔をしているのも信じられなかったし、恰好もあまりに奇妙すぎた。夢でも見ているのかと疑う。


「夢じゃねぇぜ?」


 柑次の思考を読んだかのように、相手は言う。役者のように腕を広げる仕草でこちらへと歩み寄る。軽薄な口調は、よく他人に『堅物』と評される自分にはないものだった。


「なんなんだ……」


 ようやく溢れた声は、喉に貼り付いていた。柑次はただ得体の知れない相手を前に、中途半端に身構えることしかできなかった。

 動揺しきった様子の柑次を眺めた相手は、獲物を甚振るような優越に浸った笑みを浮かべた。


「俺はな、紛うことなきお前だよ。お前と同じ魂を持った、別の世界の自分」

「別の世界……?」

「そう。俺たちは元々一つの苗。その苗に付いた花の一つがお前で、別の一つが俺」

「何を言っている……?」


 解んないか、と相手は頭を掻く。


「まあ、とにかく俺もコージだっていうことを知っておいてくれれば十分だ。あとは――」


 もう一人の自分――コージは、己の左胸の前に手を置いた。そこから緑白色の光が染み出す。魔法のような現象に柑次が面食らっていると、コージは自らの心臓を掴み出すような仕草をした。コージの手の中の光が強まる。あまりの眩しさに柑次は手を翳して目を庇った。

 光が弱まったとき、自分と瓜二つの相手が持っていたのは、三日月刀シミター

 硝子のように透明な刃が、柑次に突き付けられた。


「――その心ノ臓を俺に差し出してくれさえすればな」




 ピピ、と短く電子音。左腕のスマートウォッチが振動した。

 時報の音かと思ったが、確かめる余裕など柑次にはなかった。



 相手が自分を殺しに来たのだ、と知ったとき、柑次の頭に浮かんだのは『ドッペルゲンガー』の逸話だった。曰く、自分と同じ顔を持つ相手と会うと死ぬ。どうやらそれは、限りなく真実に近いものであったらしい。

 柑次は、三日月刀シミターを凝視したまま立ち尽くす。


「……どうして」


 緊張に絡んだ声が溢れ落ちた。背中を冷たい汗が流れる。忍び寄る死の気配にたじろげば、背中が冷蔵庫のドアにぶつかった。


「どうして? そりゃあ俺が生き残るためさ」


 心臓が激しくなる中で、柑次は眉を顰めた。コージの言うことをそのまま捉えるのであれば、柑次が相手の命を脅かしていることになる。しかし、今さっきまでもう一人の自分の存在を知らなかった柑次には、相手の命を狙う理由はなかったというのに。


「これも解んねぇか。わかりやすく言うとな、お前がいるだけで、俺のところに養分が回ってこないのよ」

「間引く、というのか」

「そういうことだ」


 柑次は後ろに右手をついた。冷蔵庫の左隣には、流し台シンク。きれいに片付けられたそこには、柑次が縋るものなど何もない。

 ――だが、さらにその隣なら。

 洗い上げられた食器の置かれた洗い籠の中に、包丁があることを柑次は思い出す。

 ぱ、と身を翻し、柑次は洗い籠の中から素早く包丁を拾い上げた。鳩尾の前で両の手で柄を握り締め、鈍い切っ先をコージに向ける。


「そんな小さいもんでどうするつもりだ?」


 コージはその長い広刃を見せびらかすように|三日月刀を掲げた。包丁の四倍ほどの刃渡り。あれを掻い潜って相手を傷つけるのは、どれほどの困難か。柑次は包丁を握った拳を震わせた。


「立ち向かう度胸は認めてやるけどな」


 無謀だぜ、と言いながらコージは刀を握る右手を引き、腰を低く構えた。

 刃が薙がれると知り、柑次はとっさに右に飛んだ。流し台から離れて、台所側面の壁際に。三日月刀は柑次の胴があった位置を真横に切り払った。あのまま動かずにいたら腹を割かれていたことだろう。包丁を握る柑次の右手に汗が浮かび上がった。


「良い勘だ」


 犬歯を見せつけるような獰猛な笑みを浮かべるコージ。黒い左眼がぎらりと輝く。

 コージは一歩左へ踏み出すと、剣を振り上げた。袈裟懸けに振り下ろされる剣。柑次は床に尻もちをつくようにして躱した。

 同時に、手から滑り落ちる包丁。

 拾う余裕さえなく、柑次は這うようにして壁際から離れて居間の真ん中へと逃げ込んだ。

 命からがら逃げ出す自分の無様な姿。悲鳴をあげないことだけが救いだ、と他人事のように考える。死に怯える一方で、頭の何処か片隅は冷静だった。


 手近にあったソファーを頼りに立ち上がり、盾にするようにその裏へと回り込む。次の攻撃が来ても良いように、腰を低くして身構える。

 やはり面白がっているもう一人の自分を前に、喉はカラカラに干上がった。背中は汗でぐっしょりと濡れ、冷房の風も相まって身体は冷える。しかし、心臓は激しく音を立て、柑次自身は昂っていた。


「いいねぇ。お前が俺なら、そう来なくっちゃ」


 コージはゆっくりと振り向くと、三日月刀を正眼に構える。


「でも、あんまり手こずらせてくれんなよ」


 沓を履いた足が床を蹴る。後退する柑次を追いかけて、ローテーブルを踏み、ソファーを飛び越えて、刀を頭上に振り上げる。とっさに身を屈めた柑次の背後で、レースのカーテンが引き裂かれた。

 頭を低く屈めたまま、コージの横を通り抜け、また居間の方へと逃れる。

 舌打ちが聞こえた。忌々しげにしたコージがゆっくりとこちらを振り向く。そこに焦りを見つけて、柑次は訝った。追い詰められているのはこちらなのに、相手は何を気にしている――?


「いい加減、往生しやがれぇ!」


 ダン、と大きく床を踏み鳴らし、コージは跳躍する。目を見開いた柑次は、それでも冷静に大振りになった相手の刀の軌道を見極めて、身を躱した。一薙ぎ、二薙ぎ。自分でも驚くほどの奇跡的な体さばきで、相手の刃を掻い潜る。

 だが、奇跡は長く続かない。とうとう柑次は足を縺れさせ、フローリングの上に倒れ込んだ。

 完全に笑みを消した、冷徹な殺意を浮かべたドッペルゲンガーが柑次に歩み寄る。


「く……っ」


 強く噛み締めた歯の隙間から、声が漏れた。床に手を付いて半ば身を起こしたまま、襲い来る刃に目を瞑る。


 けたたましい電子音が響いたのは、その瞬間ときだ。


 目を開けば、目を瞠ったドッペルゲンガーが刀を振り上げた体勢のまま硬直している。

 柑次はおそるおそる己の左手に目を向けた。音源はそこからだった。柑次のスマートウォッチがアラーム音を喚き立てている。


「くそ……っ、時間が……」


 コージは声を搾り出すと、三日月刀をゆっくりと横に下ろし、よろよろと窓際まで後退した。


「命拾いしたな」


 囁くように静かに言い残して、コージの姿がふっと陽炎のように消えた。


 くらり、と目眩がして、視界の端から暗くなる。床に倒れ込みそうになる身体を手を突っ張って耐えた。右手で頭を抱える。


「助かった……のか」


 再び戻った視界。そこはいつもの自分の部屋だった。切り裂かれたはずのカーテンも戻り、先程までの騒動が嘘のように片付いた部屋が広がっていた。

 未だけたたましいアラーム音を立てるスマートウォッチを操作する。表示は『0:00』。どうやらタイマーが動いていたらしい。

 ピタリと音が止む。部屋の中は静寂を取り戻す。

 柑次は膝を立てて座り込んだまま息を吐き、額に貼り付いた前髪を剥がした。

 夢だったのか、と一瞬疑う。実際、カーテンはきれいなままだった。だが、床に転がった包丁と割れたコップが、夢であることを否定した。


「なんだったんだ……」


 どれだけの間座り込んでいたのだろうか。柑次は手をついて立ち上がると、床の上の包丁を拾い上げた。それを流し台に持っていくと、今度は割れたコップを片付ける。すべてを終わらせると、部屋の角に置かれていたデスクへと近寄った。閉じられたノートパソコンを立ち上げると、インターネットを開き、『ドッペルゲンガー』を検索する。

 やがて、一つの記事に行き当たった。


「心臓を刳り抜かれた、猟奇殺人……?」


 それは、ここ数ヶ月世間を騒がせている事件だった。全国的に発生し、今月までで七件の被害。先にも言った通り被害者は全員心臓を刳り抜かれていて、警察は関連性も含めて捜査しているとニュースでやっていたのを、柑次は思い出した。

 それが何故ドッペルゲンガーに関わるのか。柑次はその記事の本文を読み上げた。


「〝第一発見者であるN氏は、こう語った。『確かに心臓を刳り抜かれた死体を見つけたことには驚きました。でも、頭の何処かで違和感のようなものを覚えていたんです。それがなんなのか、警察の取り調べを受けて落ち着いた後に思い出しました。被害者の死体を発見する直前、自分が被害者とよく似た人物とすれ違っていることに気がついたんです』〟――」


 思い出すのは、もう一人の自分の言葉だ。彼は柑次に三日月刀を向けて言った。『心ノ臓を俺に差し出せ』。偶然とは思えない一致。

 つまり、今回のことは、柑次以外の人の身にも起きているということで。


「いったい、何が起きている……?」


 『ドッペルゲンガー』の見出しの文字を睨みつけながら、柑次は呆然と口にする。

 立ち眩みを起こしてから七分七十七秒で塗り替えられた世界を前に、柑次はただただ戸惑っていた。

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