まつろわぬ者の哀歌(後)
ハルピュイアは元来空を飛ぶ生き物だ。種族的特徴として、人間よりも体が軽くできている。
だから、屋根と屋根の間を飛び移ったりすることなども造作もない。
黒のマントで全身を覆い夜闇に溶け込んだリリアは、ある屋敷の窓から外へと飛び降りた。一度庭に降り、すぐさま塀の上に飛び移る。身軽さは、少し身体を動かせばすぐに手に入れることができた。人の姿でも、翼などなくても、跳ぶことができる。
塀を渡り、別の屋敷の屋根へと飛び移る。これを何度も繰り返し、リリアは寝静まった高級住宅街から離れていく。
住み慣れた下街に戻ったところで、一度マントの下に隠したものを確かめた。十六夜月の光を跳ね返し、赤く輝くルビーの首飾りが一つ。ほう、と一つ溜め息を吐くと、月の眼からルビーを隠し、自身も路地裏へと姿を隠した。
チップでは、魔法薬の代金を賄えない。
だからリリアは、盗みを働くことにした。
裏路地に店を構える闇商人にルビーを見せる。商人はすぐさまその価値を見極めると、リリアに金を寄越した。商人は品物の出処を探るような余計な真似はしない。リリアが商人の目利きを疑うことも。盗人と商人は言葉を交わさないまま取引を終える。
路地裏の角を曲がったところで、リリアは建物の壁に身を預けて、細く差し込む月明かりを頼って入手したばかりの硬貨を数えた。金の光を弾く硬貨が四枚。収益は十分だ。向こう二ヶ月は人に紛れて暮らしていける。リリアは安堵した――そのとき。
「悪い子ね」
路地の向こうから声を掛けられて、リリアは顔を上げた。咄嗟に硬貨を手の中に隠し、夜闇の中で目を凝らす。こちらを覗き込むようにしてそこに居たのは、黒いマーメイドラインのドレスの女――ロンディーヌ。
「薬のために盗みまでするなんて。しょうがないこと」
「……咎める気?」
「いいえ」
警戒をあらわにするリリアに、路地裏に入ったロンディーヌは首を横に振る。彼女の魔性の微笑みは、今宵も変わりがなかった。
「騒ぎ立てる気はないわ。私に咎める資格はないし」
リリアは緑の目を眇めた。咎めるつもりがないというのなら、彼女が声を掛けてきたその真意はなんなのか。
そもそも何故ここに居るのか。
訝しむリリアの目の前で、ロンディーヌは悠然と片手を頬に当てて立ち止まった。
「ただ、そうね。やっぱり惜しい気はするの。そんなことしなくても、私のもとでならありのままで生きていけるのに」
昨日と同じ勧誘の言葉。そうまでしてリリアを引き込みたい理由が気にはなったが、リリアの答えは変わらない。
リリアはロンディーヌの眼をまっすぐに見据えた。
「私には、私の生活があるの」
「神の教えに背いてまで?」
「神様なんて!」
リリアは低く嗤う。ロンディーヌまでが神を語るのが、なんだかおかしかった。
「私は亜人よ。神に見放された種族」
自身の胸に手を当てて、リリアは語る。
昔々、神は生き物を選別した。その中に、人魚やハルピュイアといった亜人は入っていなかった。人間と動物の混じった生き物を、神は愛さなかったのだ。
だからリリアは神を信じない。ましてやリリアはできそこないだ。神を信じる理由がない。
「そうね」
黒い手袋の繊手が、リリアの頬を包み込んだ。頭を掴まれ、顔を上げさせられて、リリアの緑の瞳が揺れる。黒い瞳が近くに見えた。接吻でもできそうな顔の距離に戸惑う。
ロンディーヌの瞳は、夜闇の中で、憐憫の色を宿して黒真珠のように輝いた。
「だから私は、あなたみたいな子たちを集めているのだけど」
突然の展開に身体が強張ったのも束の間、ロンディーヌの指先が離れていく。その名残を思わずリリアは目先で追った。
しかし彼女はあっさりと、未練などないかのようにリリアに背を向ける。なんだったのか、と呆然とするリリアから遠ざかる。
「気が変わったら、声を掛けて」
昨晩と同じ台詞を残して、ロンディーヌは路地裏から立ち去っていった。
その後ろ姿を黙って見送っていたリリアも、しばらくしてその場所から離れていった。
次の日もまた寝坊をした。
情けなくも、また朝食の支度を恋人に任せてしまった。
「気にしなくていいよ」
申し訳なくて縮こまるリリアに、ソーマは朗らかに笑って見せる。
さすがに二日連続での夜更かしは自重しよう、と密かに決意しながら、昨日と同じ朝食が並べられた席に着く。そんなリリアの向かいで、ソーマがなにやらそわそわしていることに気が付いた。
「……どうかした?」
いつもの祈りはどうしたのだろう、と疑問に思っていると、うん、と神妙に恋人は頷いて、立ち上がった。踵を返し、作業台へと向かう。
「朝食の前にどうかとは思うんだけど……」
見て欲しいものがある、とソーマはリリアの前にそれを置いた。
木彫りの像だった。ソーマが彫ったものだ。いつもと違うのは、それが聖母像ではなく、天使像だったこと。祈りの形に手を組んで立ち、ローブの背中から大きな翼を生やしている。
リリアは像を手にとって、翼に指を這わせてみた。指先からも伝わってくる繊細な削り。羽根の部分も丁寧に彫られている。
――これだけ大きな翼があったなら。
ついそんなことを思って溜め息を吐いたリリアに、神妙にソーマは告げる。
「それ、君なんだ」
どきり、と胸が一つ大きくなった。身体を強張らせながら、もう一度天使像へと視線を落とす。
――まさか。
背中にひやりと冷たいものが落ちる。まさか彼は自分の正体を知っているのか、と。
「君を、天使になぞらえた」
「……どうして?」
「それは……」
亜麻色の髪に手をやり、ソーマは頬を紅潮させた。コバルトブルーの瞳がリリアから逸らされる。
「はじめて会ったときからずっと思っていたんだ。君が、天使みたいだって」
恋人の告白に、リリアは胸を撫で下ろした。本当なら胸をときめかせるところだろうが、安堵のほうが大きかった。どうやらリリアの正体を察したわけではないらしい。
それからしげしげと像を眺めた。片手で握れるほどの大きさの像だ。顔の詳細など判別できないし、そもそも自分の顔もよく分からない。でも確かに、髪の長さや雰囲気は似ているのかもしれない。
「これが、私……」
背に翼を負った自分の姿。
じっとその像を見ていると、胸の奥からこみ上げてくるものがあった。感情の奔流に流されそうになり、リリアはしがみつくように恋人に抱きついた。
「……ありがとう。嬉しい」
それだけをどうにか口にして、リリアはソーマの肩に顔を埋めた。口元が歪んだ自分の表情を見られたくなかった。
ハルピュイアは、神に見放された生き物だ。そしてリリアは、神の教えに背いて窃盗を繰り返している。
そんな彼女を、ソーマは天の使いになぞらえた。信心深い彼が。神にまつろわぬリリアを。
なんと滑稽なことだろう。
そして嘆かわしいことだろう。
リリアはおそらくこれからも、今の生活を続けていく。姿を偽り続け、盗みを続け、敬虔な恋人を欺いて。
こみ上げてくる笑いを堪えて、リリアは肩を震わせた。誤解した彼が、宥めるようにリリアの背を撫でる。それがまた、おかしくてたまらなくて、口もとを喜悦の形へ歪ませた。
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