背徳を浴びる鳥のうた――Jun.

まつろわぬ者の哀歌(前)

 全身が膨れ上がるような感覚に悶えながら、リリアは目の前に差し出されたしずく型の瓶に手を伸ばした。腕や手の甲はみっちりと黒光りする羽根で覆われており、僅かな猶予さえないことを悟る。

 鉤爪のように伸びた爪の先で、瓶のコルクを強引に抜くと、すぐさま瓶の縁に口を付け、あおる。瓶に入ったまま飾っておきたいほど綺麗な孔雀青の液体が、リリアのふっくらした唇を割って流れ込む。

 口の端から青い薬液をたらし、ふう、と息を吐いたリリアは、先程とは別種の痛みに襲われた。全身が燃えているかのように熱い。己の身を抱き、よたよたと数歩後退し、しかし耐えきれずに路上に膝を付く。

 そのままうずくまるようにして、しばし。

 彼女の全身を覆い尽くさんとしていた黒い羽根が、肌に溶け込むように消えていく。鉤爪も縮み、しなやかな指先へ。

 南中の満月の青い光が照らし出す路地裏にしゃがみ込んでいるのは、平凡な黒髪の娘ただ一人。


 リリアはよろめきながら立ち上がった。重たい頭を持ち上げて、数歩先に佇む影を見据えた。月とともにリリアの変貌の一部始終を見つめていたのは、これまた一人の女だ。黒く長い髪。黒曜石の瞳。白い肌を覆うのは、黒い絹でできたマーメイドラインのドレス。年若く、しかし年齢を判然とさせない端正な顔に、うっすらとした笑みが浮かんでいる。


「大変ね」


 女は――ロンディーヌと名乗ったその女は、気安く言った。リリアの苦しみを度外視した感想に、一瞬だけ怒りが湧き上がる。しかしリリアは、溜め息を吐くのと同時にその激情を押し込めると、小花柄の生地で縫われたスカートを掌で払った。


「助かったわ」


 絡みつく声で、礼を言う。どういたしまして、とロンディーヌが笑う。艶めいた笑みに〝魔性〟の言葉がリリアの脳裏に浮かび上がった。


「それにしても、やっぱり大変ね。亜人が人間に紛れて暮らしていくなんて」


 今回ばかりは本当に同情を混じえたロンディーヌの台詞に、リリアは俯き黙り込んだ。


 リリアは亜人――より詳しくいうなら、鳥人だった。頭と上半身は人間で、腕の代わりに翼を持ち、下半身は鳥のそれ。いわゆるハルピュイア。本当だったら岩山で暮らしているところ、訳あって人間の街で暮らしている。

 特別な魔法薬で、人間に姿を変えながら。


 亜人の中ではそう珍しいことではない。が、やはり少数派には違いない。魔法薬は劇薬で、服用すると激痛を齎す。効力は二週間と限られており、加えて高価な代物。続けていくには、多大な負担が伴う。

 けれど。


「仕方ないわ。私はできそこないだもの」


 リリアは緑の瞳を伏せる。リリアはハルピュイアに生まれたものの、両の翼が小さくて空を飛ぶことが能わなかった。飛行することが前提の岩山ではとても暮らして行けず、独り立ちを迎えるとともに山を下りた。


「空を飛べない私は、地に足をつけて暮らしていくしかない。そして地上で生きる以上、人間の世界でしか生きられない」


 なまじ人間に類似した姿と知性を持つために、獣のように生きられず、人に紛れて生きていく他なかった。薬の苦しみに苛まれて。


 憂鬱そうに溜め息を吐くリリアに、女は一体何を感じたのか。


「なら、私と来ない?」


 黒いレースの手袋に覆われた繊手を差し出した。


「え……?」

「私のところでなら、本当の姿で生きていられる」


 息を呑む。薬を飲まずに生きられる。彼女のがどのような場所なのか知り得なかったが、それだけで心惹かれた。まじまじとロンディーヌを見つめる。細められた黒い眼差しは優しく、冗談を言っているようには感じられない。 

 しかし、リリアは首を横に振る。


「せっかくだけれど、できないわ」


 ロンディーヌの誘いが怪しいからではない。リリアにはもう既にリリアの生活がある。


「そう」


 ロンディーヌは手を引き込めた。

 リリアは気まずさを誤魔化すようにして、薬の代金をロンディーヌに渡す。


「確かに」


 ロンディーヌが硬貨の枚数を数えたのを見届けて、リリアは踵を返した。また二週間後に薬をもらう約束をして。


「気が変わったら声を掛けて」


 ロンディーヌの言葉を置き去りにして、リリアは真夜中の路地裏を密かに駆け抜けた。




「おはよう」


 扉を開いて掛けられた声に、リリアは思わず笑みを溢した。視線の先に居るのは、朝食の支度をしている一人の青年。短く切り揃えられた亜麻色の髪と、海のようなコバルトブルーの瞳。痩せて枯れ枝のように頼りない印象の彼――ソーマは、リリアの恋人だった。婚約などはしていないが、小さく古びた木造のアパルトマンの一室を借りて同居している。


「今日は遅かったね」


 リリアの起床時間のことを言っている。いつもならリリアが朝食の支度をしている。リリアは頬を赤らめて恥じ入った。魔法薬をもらうために昨晩こっそりと出掛けていたのが原因だ。夜の外出を悟られないよう、早起きするべきだったのに。


「その……昨日、仕事で疲れちゃって」

「いいさ。そういうときもある」


 恋人は朗らかに笑った。太陽のように眩しく、月の光のように儚い笑顔。それを見るだけで、リリアは幸福に包まれる。


「さあ、食べようか」


 焼き立てのトーストと一杯のお茶。古びたテーブルの上には、ささやかな朝食。これでもまだ贅沢なほうか。リリアたちはあまり裕福ではなかった。

 朝食にありつく前に、お祈りをする。リリアは形だけ。ソーマは熱心に。彼は敬虔な神の信者だ。リリアはソーマに合わせている。

 トーストに齧り付く。きつね色のパンは、カリッと固め。お茶を飲んで口内でふやかし呑み込んだ。


「今日の予定は?」


 予定確認の会話は、毎朝のお約束。


「私は今日、お昼に仕事。ソーマは?」

「僕も今日はずっと仕事かな。納品日が近いんだ」


 ソーマは部屋の隅に視線をやった。そこには簡素な作業台。机の上に置かれているのは、彫刻刀と彫りかけの聖母像。教会で土産物として売っている木像を彫るのが彼の仕事だ。


「大丈夫? 無理していない?」


 リリアは手を止めて、青い瞳を覗き込む。彼は身体が弱く、少しの無理で熱を出す。だからこそ彼は内職し、リリアは働きに出ているのだが。


「大丈夫。数はそんなに残っていないんだ」


 心配するリリアを宥める笑みを浮かべて、ソーマは言う。真面目な性格の所為で無理しがちな彼にまだ不安は残ったが、ひとまず信じることにして、リリアは朝食を続けた。


 それから洗濯と、簡単な掃除をして。

 日がだいぶ登り、昼が近づいてきた頃に、リリアはアパルトマンを出た。向かう先は、街の中心にある酒場。リリアはそこで歌を歌うことを生業としていた。


「おはようございます」


 裏口から入り挨拶すれば、先に来ていた従業員たちが朗らかに返事をしてくれる。

 簡単な雑事を手伝い、開店した後は歌を歌って。日が傾いてきた頃に、家へと帰る。


 作業台で彫り物をする恋人の背後で、テーブルの上でチップを数えていたリリアは、密かに嘆息した。酒場でのリリアの評判は上々だ。だが、稼げるかどうかはまた別の問題だった。ソーマの稼ぎと合わせれば、細々となら生活はできる。でも、薬を手に入れるにはとても足りない。


『私のところでなら――』


 昨晩のロンディーヌの言葉が思い出される。薬が要らない生活はやはり魅力的だった。

 だが、それは恋人との別れに繋がる。

 リリアは頭を振って、テーブルに広げた硬貨を片付けた。身体の弱いソーマを放って家を出ていくことなどできはしない。

 リリアにはこの生活しかないのだ。

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