繋ぐ糸の色を教えて――May.
操り人形の糸の色
雲多き夜空の下、荒野に銀の軌跡が閃いた。
どう、と横倒しになった犬の形をした魔獣を、夜の闇洋よりも昏い瞳が見下ろした。
そこにいたのは、一人の娘だ。成人を迎えるかといった年頃。白いシャツと落葉色のスカートを纏った、慎ましやかな姿。感情をすり減らしたように表情のない白い顔と右手に持つ長剣さえなければ、何処にでもいそうな村娘だった。
彼女は自らが屠った魔物を一瞥すると、小さく息を吐き、自らの懐をまさぐった。取り出した襤褸布で、刃に付いた血を拭う。その間も情動の動きは見られない。ただ淡々と己の作業をこなすのみ。
「キルシー」
そんな娘の背後から声が掛かった。低い声。性別はおそらく男。星の微かな明かりが作る娘の影から形を成したその
突然の声にも、男の出現にも、キルシーと呼ばれた娘は動じない。剣を握った手をだらりと下ろし、されるがままに男の抱擁を受けている。黒い髪、黒い服。顕になっている肌だけは白いが、抱き寄せられた娘は、傍から見れば影に呑まれているように見えることだろう。
「終わったかい?」
笑みを含んだ声には甘さが混じっていた。果実を熟れさせ、腐らせる甘さ。血臭漂うこの場にそぐわない、恋人を誘惑するような声。生娘ならたちまち頬に朱を昇らせかねないが、キルシーに限ってはそうではなかった。病的なまでに白い肌はそのまま。ただ、震えたまつげだけが、男の声に対する反応を示していた。
「……終わったわ」
一拍置かれた返事。娘の声は、表情と同じく平坦だった。
そう、と腰に回された腕がきつくなる。密着する身体と躰。男はキルシーの首に噛みつかんばかりに口もとを寄せる。
「どうだった?」
そこにあるのは、愉悦。
「……別に、どうということはない」
「それは良かった」
くすくす、と男は笑う。彼女が無造作に下ろした亜麻色の髪に、顔を擦り付けるように。抵抗することもなく、されるがまま。まるで人形のように。
男は笑いを止めると、この世ならざる美貌の顔を上げた。赤い瞳が夜闇の中で怪しく輝いた。
「上手だったよ」
腰から片手が離れ、彼女の頭に移される。まるで幼子相手にするように、亜麻色の豊かな髪が撫でられた。
「とってもきれいな舞いだった。まるで舞踏会でも見ているかのようだったよ。もっとも、お相手のほうは醜く無様な
「あなたがそうさせた」
「そう。僕の理想通りに踊ってくれるようになったね、僕の操り人形ちゃん。はじめて
記憶を刺激されたのか、これまで表情を動かさなかったキルシーの目がすっと細められた。より翳る瞳に浮かぶのは、憎悪の色。その矛先が向けられるのは、男か、それとも――。
右手の剣が強く握りしめられる。拳がより白くなる。
ほう、と男の口から満足げな吐息が漏れる。
「これからも、もっともっと美しく踊ってみせてよ、キルシー」
それだけが僕の望みだ。そうキルシーの耳に吹き込んで、影は娘の身体から離れた。
その名残に何を思ったのか。
「一つだけ教えて」
キルシーはようやく振り返った。男の赤い瞳を真っ直ぐに見据える。黒い瞳が星明かりを弾く。
男は娘が呼び止めたことが意外だったのか、笑みを消して目を瞬かせた。
「私と貴方を繋ぐ糸は、何色をしているの?」
果たして、その質問にどのような意味が籠められていたのか。
男はこれまで以上に愉快そうに笑みを作った。
「そんなこと、決まっているよ」
血のように赤い赤い色だよ、とだけ男は囁きかけて、娘の影の中に溶けていった。
荒野に残されたのは、剣を携えた村娘と、複数の魔獣の死体だけ。
「赤い……」
キルシーは虚空に向けて左手を真っ直ぐ前に伸ばした。掌を広げてその指先を見つめる。まるで、その指に絡みつく糸を見極めようとせんばかりに。
しかし、この星影のもとで、細い糸を見ることなどできはしなかったのだろう。やがてキルシーはその手を握りしめると、抱くように胸の前に当てた。
口元がわずかに歪む。
「……そう」
溜め息にも似た呟きをこぼすと、剣を持つ腕を一振りした。上から下に右腕が振り下ろされる間に、手に持つ剣は魔法のように消えてなくなった。
剣の柄の名残を確かめるかのように、キルシーは己の右手を開閉し。
魔獣の死体を踏み越えて、荒野を歩き出した。
その背後に、夜より暗い影を付き従えて。
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