きみの物語になりたい――Mar.

それは歴史の一ページ

「あーあ、つまんないのー」


 書類が積み上がった机の上。そこに突っ伏したイルザは、肘をついて挙げた左手でくるくるとペンを回していた。楕円の眼鏡の向こうで切れ長の黒眼が気怠げに見つめているのは、開かれた手帳。真っ白な紙は、落書きとしか思えない点と線でびっしりと規則正しく埋められている。


「面白いこと、なーんにも起こらなかったよ」


 浅黒い細い手がピタリと回転するペンを止めると、イルザはポイ、とそれを投げ出した。重い机の上でコロコロと転がるペン。尖った先端から黒いインクが溢れて細い軌跡を描いていく。


「お言葉だけど、イルザさん」


 机の向かいに立つ軍服姿の青年は、呆れた様子でイルザを見下ろすと、年季の入った机にできた染みを近くにあったボロ布で拭き取った。


「調印式で面白いことなんて、そうそう起きないよ?」

「そんなことないよー。相手国の大使が暗殺されたりとか、会場を反政府組織が襲撃したりとかさぁ」

「……俺は今、そんな事態にならなかったことを非常に感謝しているところだよ」


 自分の物騒な願望に頬を引き攣らせた平凡顔の青年を見上げて、イルザは机の天板から身を起こした。項よりも少し長いくらいの黒髪と同じ長さの前髪がイルザの視界を掠めて、低めの鼻の前に垂れる。


「でもさ、やっぱり国事記録官としてはさ、不測の事態を如何に遺すかっていうところに実力が試されるわけじゃん?」


 こんな型通りに進んだ式典なんて、書くのも読むのも面白味がないよ、とボヤき、組んだ両手を高く上げて、背を仰け反らせた。


 国事記録官。文字通りこの国で起こった出来事を記録する役割を請け負う官吏だ。ただ記録し清書するだけの地味な仕事のように思えるが、停滞することなく流れていく会話や変化していく状況を正確に遺し伝える必要があるため、観察力と記憶力、表現力、そして要約力が求められる、実はかなり高度な仕事だ。

 職に就くだけでも相当な学歴を求められるこの仕事に、イルザは齢十七にして就いた。同僚は一番歳が近くても十近く上。そんな職場にこの若さで就いている訳だから、天才、と周りには評されている。


 一方、目の前にいるお人好しの青年カーラルは、イルザと違ってごく平凡な一軍人(といっても尉官だが)。今年二十三歳とイルザよりも歳上だが、学生時代からの付き合いだ。飛び級で大学に入ったイルザを、カーラルが面倒を見てくれていた。違う部署とはいえ同じ職場で働く今も、その関係は続いている。


「不測の事態、ねぇ……」


 左足に重心を乗せて休めのポーズをしたカーラルは、顔の前でなにかを示すように右手を挙げた。


「エスタス国内は、現政権の支持・不支持は半々といったところだけど、大きなデモや暴動はなし。今日調印を行ったへスタとの関係は良好。近隣諸国とは協力関係になって長いし、北のアルバランは相変わらず要警戒だけど互いに刺激し合わない関係を維持している。そうそうなにかが起こりようはずもないよ」

「解ってるよ」


 つん、と子どものようにイルザは唇を尖らせ、手帳に視線を落とした。帳面を埋め尽くす点は、そのへスタとの貿易協定に関する調印式で交わされたやり取りをメモしたものだ。速記のためにこんな暗号めいたものを使っており、これでも発言者の一字一句を取りこぼさずに残している。

 もちろんこのままでは他人は読めないので、清書は必要。それが気乗りしないのだ。〝面白味〟がないから。仕事はつまらない小さなことの積み重ねと知っていても、面白くないものは面白くない。


「ボクはねぇ、歴史が書きたいんだ。この国の有り様を大きく揺るがし、語り継がれる事件ものがたりの、その執筆者になりたい。だからボクは国事記録官になったんだ!」


 眼球だけ動かして見回した室内、そこには規則正しく並べられた机と壁を埋め尽くす書棚がある。棚にしまわれたのはすべて、これまでイルザの先輩にあたる国事記録官たちが書き残したエスタスの歴史記録の数々だ。大きな戦争、小さな会合、すべての国事行為が記録されている。

 この中に書かれているもののうち、歴史の教科書に載るのは一体どれほどか。今日イルザが記録した調印式だって、紙束の一つとして部屋の隅に埋もれていくに違いない。

 そんなのはつまらない。せっかくいろいろ優遇してもらってこの仕事に就いたのだから、天才の号に見合った成果を残したいではないか。


「だからって事件を望むなんて……対処に追われる俺の気持ちにもなってくれよ」


 なにを想像したのか、げんなりとした様子のカーラル。その一方で、物事の負の面を見つめていなかったイルザは、悪だくみを思いついた子どものように身を乗り出した。


「そのときはボクが君の勇姿を書くまでさ。二人で伝説を作るんだよ!」

「はいはい」


 おざなりな返事をするカーラルは、妄想を膨らませ続けるイルザを見て苦笑した。


「もう……子どもなんだから」




「……なんて、思ったこともあったなぁ」


 目の前に置かれた紙束を片手でぱらぱらと捲りながら、イルザは呟いた。ペンだこができた浅黒い指で弄ぶのは、軍部の報告書だ。

 紙とインクの匂いが充満し、机と書棚の立ち並ぶ居室にいるイルザは、今日もまた国の出来事を記録する仕事に就いている。


 最初の一枚をぱら、と落とした左手を表紙に載せ、左角のペン立てに挿し込まれた愛用のペンを見つめる。普段くるくると指先で回していた仕事道具。いつもならそれに手が伸びて目の前の紙をインクで汚すところだが、現在はその気分にどうしてもなれない。仕事を放棄して机の上に転がす気にもなれない。インクを拭いてくれる相手がいないのだ。

 黒曜石のような光沢を持つ瞳が、淵を覗き込んだときのように翳る。


「本当にあのときのは現実を知らない子どもで……馬鹿な夢を見たものだよ」


 この二年で伸びた長い黒髪を弄び、イルザは過去を振り返る。

 この国を揺るがし歴史に語り継がれるような事件を記録したい。

 退屈な仕事を受ける度に積み上げられた幼い願望は、残酷な現実を目前にして一気に崩れ落ちた。今はもう、欠片を拾い集める気にもならない。

 ――戦争、だなんて。


 お互いに敵視しつつも武力衝突には至っていなかったエスタスとアルバラン。危ういバランスで保たれていた両国の均衡は、ふとしたことで一気に崩れていった。

 きっかけはとある政治家の失言。冗談のつもりで言ったらしいその一言が、相手の逆鱗に触れた。さすがに直ちに戦にはならなかったが、これをきっかけに双方で侮り合い、嫌悪を募らせ、どんどん頭に血を昇らせていった末に武力を持ち出した。そのままなし崩し的に戦争だ。

 あまりにくだらない顛末を、イルザは国事記録官として把握していた。もちろんすべては記録され、エスタスの歴史書棚の一角に保存されている。


 そして十九になったイルザの現在の仕事は、戦地から送られてくる戦況報告書から内容を抜粋して、国事記録用の書式に書き直すこと。

 毎日のように送られてくる人死にの報告。はじめはまだ対岸の火事でしかなかった。その文字と数字の羅列が示すものに、実感を覚えるようになったのは最近だ。現在は届けられる書類、その一文字一文字に恐怖すら覚えている。


「でも、君も馬鹿だ」


 イルザはここに居ない友人のことを思い出す。生意気な子どもだった自分に辛抱強く付き合って、窘めてくれたお人好し。今ここに彼はいない。イルザを訪ねて来ることもない。


『俺の勇姿を書くって約束だったよな』


 幼いまま肥大した矜持を振りかざす自分を見放さずに面倒見てくれた青年は、そう言って戦地へ向かった。アルバランとの国境、この戦の最前線。

 命令だった。逆らえるはずもなく、戦いを覚悟した彼は、せめてイルザの夢を叶えようとしてくれた。


『お前が満足するような英雄になると誓うよ』


 そうでもしないと自らを奮い立たせられなかったのだ、と今なら分かる。


 震える声で宣言した通り、確かにこの報告書にはカーラルの英雄的活躍が書かれていた。絶望的な状況を覆し、多くの兵士たちを救い、敵国に甚大な被害を与えた中尉の作戦。お陰で彼は昇進した。

 ――でも。


「死んじゃあ駄目でしょ。せっかくきれいな奥さんも子どももできたっていうのにさ」


 カーラルの用意してくれた英雄譚は、やはり死によって完結されていた。多くの仲間たちを救ったが、自分は帰ってくることはできなかった。彼には家族が居たというのに。

 戦争が起きる直前にできた奥さん。そのお腹の中にできた子どもの顔を見る前に、カーラルは旅立っていった。


「こんな物語、書きたくなかったなぁ……」


 実に劇的な、それこそ物語のようなカーラルの活躍だったけれど、残された家族には悲劇でしかないし、イルザも友人を喪ってまで捨ててしまった夢を叶えたくなかった。

 だが、イルザには、絶望に浸って役目を放棄するという選択肢は残されていない。友人の願いを無碍にはできないし、彼の家族になってくれた人たちにイルザができることもまたこれしかなかった。


 カーラルが立てた作戦の概要とその結果をまとめた報告書を前に、イルザは黙祷を捧げた。

 そして、とうとうペンを取る。


 せめて、歴史の中で友人を生かし続けるため。

 彼の勇気を埋もれさせないために。

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