心の内は珈琲よりも苦く
なるべく早く帰る、といった洋介は、夜が更けてもなかなか帰ってこなかった。理由は不明。執事に訊いたが、彼も何一つ連絡はもらっていないらしい。
香蓮はひとり寂しく夕食を取り、風呂に入り、寝支度を整えた。まだ眠る気にはなれなくて、大きなベッドに潜り込み、マホガニーのヘッドボードに立て掛けた牡丹の刺繍が入ったクッションに背を預けて、サイドテーブルに載せられた小さな鈴蘭型の
それは、香蓮がかつて拒否した、激しい恋の物語だ。社交界の婦人の間で流行しているもので、話題づくりのために読んでいる。なかなか面白い、という感想を抱く一方で、侘しさのような感情が香蓮の胸中を支配した。
――こうなることが分かっていたのなら、こんな恋でも一つくらいしておけば良かったのかもしれない。
後悔というよりは、諦念に近い心持ちでそう思う。
かつては恋に焦がれる少女たちを否定してきたが、今では彼女たちのほうが正解だったのではないか、とまで思うようになっていた。
想い出は、ないよりあったほうが良い。
身を焦がすほどの情熱を抱えた主人公たちに憧憬を抱きつつ、ページをめくっていると、寝室の扉が開いた。言われるまでもなく、夫婦の寝室である。こんな夜にノックもなく入り込む人物など一人しかいない。
「まだ起きていたのか」
くたびれたスーツ姿で意外そうに目を見開くのは、香蓮の夫であった。朝の爽やかな様子と違い、疲れが顔に出ている。
「お帰りなさい。遅かったのね」
香蓮は本から一瞬だけ目を離して、言葉ばかりの出迎えをする。
「すまない。急用が入ったんだ」
よほど疲れているのだろうか。抑揚のない返事だった。
(いったいどのような急用なんでしょう)
心ここにあらずといった様子の夫に、香蓮は皮肉の言葉を飲み込んだ。もう一度文字へ目を走らせようとするが、夫が気になって、さっぱり内容が頭に入らない。
洋介はベッドの傍らでスーツのジャケットを脱いだ。その裾から僅かに薔薇の香が漂う。春始まったこの時期、朝河邸には薔薇は咲かない。香蓮も邸内に飾っていない。ついでに、香蓮は薔薇の香水を持っていないし、洋介もまた薔薇のものは持っていない。
その香りは、間違いなく外で付けてきたもの。
何処で?
恋人の家でだろうか。
晩秋に挙げた結婚式。西洋の宗教の教会で誓いの言葉を述べ、招待客の前でベールを下ろした香蓮に口付けをする前、参列の挨拶を述べるとき、彼の視線が一人の客人に向けられていたことに香蓮は気付いていた。幼馴染、といって洋介が招待した令嬢だった。純粋無垢、少女の理想型を体現したような娘だった。
洋介の焦がれるような視線の先で、彼女もまたなにかを堪えるような顔をしていたことを香蓮は覚えている。
今でもまだ、付き合いはあるのだろうか。
彼女は香蓮に隠れて、洋介の愛を一身に浴びているのだろうか。
だとしたら――如何に香蓮は惨めなことだろう。
しかし、思えば華族の男が愛人を持つこともそう珍しくないことである。自分の主人もその一人だったというだけのこと。なんてことはない、と香蓮は自分に言い聞かせる。
香蓮の理想が叶わなかっただけの、普通の結婚生活だ。
「なにを読んでいるんだい?」
ジャケットとネクタイを脱いだだけのスーツ姿の洋介が、いつの間にかベッドを軋ませて香蓮の側に来ていた。香蓮が布団の中で読んでいた本を覗き込む。
香蓮は洋介に視線を向けることなく応じた。
「最近流行りの恋愛小説よ。華族の令嬢が、新しく家にやってきた奉公人の青年と恋に落ちるの。だけど青年には目的があって彼女に近づいた。主人公は彼の打算と自分の恋心に翻弄される、そんなお話」
ふーん、と素っ気ない返事をして、洋介は香蓮の手から本を引き抜いた。苛立ったような、少し乱暴な手付きだった。突然本を奪われたことに驚く香蓮を尻目に、栞を挟むことなく閉じられた本をサイドテーブルに置くと、洋介は優しく香蓮を布団の上に横たえた。
長い指がそっと、香蓮の白いネグリジェの首元のボタンに触れた。
牽制するように、香蓮の白い手が洋介の手を押し留める。
「……お風呂に入らなくて良いのかしら?」
挑むように、咎めるように夫を睨めつける香蓮を、洋燈の照り返しで怪しく光る褐色の目がじっと見つめた。
「その間に君は眠ってしまうだろう」
違いない。香蓮は瞑目した。
朝にも味わったどろりとした甘さが口内に蘇る。
寛げられた胸元から夜の冷気が入り込む。思わず震えた香蓮の身体を温めんとばかりに、洋介は覆い被さった。首元に埋まった彼の髪から、シャツの襟元から、強く薔薇の芳香が漂う。
胸に齎された甘い刺激に、香蓮はきつく瞼を閉じて唇を引き結ぶ。
恋人との密会の懺悔に、こうして抱かれているのだろうか。
それとも、抱くことができなかった彼女の代わりに欲をぶつけられているのだろうか。
――どちらにしても、跡継ぎを作らなければいけない以上、香蓮に拒否権はない。
徐々に強くなっていく刺激に呻き声が小さく漏れるが、それでも香蓮は行為に没頭することができない。香蓮の中に渦巻く不安や懸念が、割り切って快楽に身を委ねることを阻んでいる。
洋介が服を脱いでいる間も、深い接吻に応えている間も、強い刺激を受けたときでさえ、香蓮は固く瞼を閉ざしていた。
洋介の瞳に映る感情を確かめたくなくて。
見えなければ、愛を錯覚することができるのではないかと期待して。
だが結局、婚約のときに告げられた言葉が、香蓮の気持ちを押し留める。独りよがりではない、明らかに香蓮を気遣ってくれている優しい愛撫だが、香蓮はそこから苦痛を拾うことしかできなかった。
その所為か、毎度、夜の行為は長時間に及んでしまう。
今回もまた――否、きっといつにも増して。
(ああ、珈琲が飲みたい)
早くこの夜を終わらせて、お気に入りの苦い珈琲で夫から与えられる甘いだけの日常を押し流してしまいたい。
現実を知ってしまった以上、与えられる理想の生活に惑わされ続けることは、香蓮には受け入れ難い。
けれど、時折幻想に逃げたくなるのもまた事実で。
そんなときに目を覚ましてくれるものが欲しかった。
洋燈の明かりを消されても、与えられる熱に浮かされて眠ることのできないこの身には、夜はまだ長い。
窒息しそうな夢の中で、香蓮はただひたすら飲み込まれまいと藻掻いていた。
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