愛と呼べない夜を越えたい――Nov.

その日常はクリームのように甘く

 左手前の小皿の上には、サクサクふわふわのクロワッサン。中央大皿にはふわとろのオムレツと、カリカリの細いベーコンとクルトンが載って甘酸っぱいドレッシングが掛けられたレタスのサラダ。右手側には身体を温めるコーンスープがあって、テーブルから少し離れたワゴンには丁寧に豆を引かれた苦味の強い珈琲が用意されていて。

 そんな朝食を挟んだ向かいには、優しくて紳士的な旦那様。

 結婚して三ヶ月。朝の光がたっぷり入った橙色に花柄が描かれている壁紙の食堂には、香蓮かれんが幼少の頃から夢見ていた、理想の光景が毎朝用意されている。


「おはよう。早かったね」


 白いテーブルクロスの敷かれた長方形の食卓の一角に着席した香蓮の姿を認めて、香蓮の夫となった朝河洋介が微笑んだ。少し長めの柔らかい髪。爽やかな顔立ちに、柔らかい褐色の眼差し。仕事で朝早い彼は、食事のメインをほとんど終わらせており、香蓮の好みの珈琲を片手に新聞を眺めている。


「……そうかしら。いつも通りだと思うのだけれど」


 なかなかの美丈夫と評して良い夫の顔から少しだけ視線を逸らして応えると、香蓮は臙脂えんじ色の長いスカートの膝の上に光沢のあるシルクのナプキンを広げた。フォークを手に取り、大皿の品へ取り掛かる。


「そうだね。でも、昨晩は少し無理をさせてしまったかなと思ったから」


 音を一切立てずにオムレツの端をフォークで切ったところで、香蓮の手が一度止まった。フォークの先で一口大になった卵をつつく。


「お仕事に出掛ける旦那様のお見送りができないほどではないわ。どうしても辛かったらお昼寝をすればいいのだし」


 今度はきちんとフォークを刺して、卵を口元に運ぶ。視線は卵へ。下を見ている所為でどうしても伏せ目がちになる香蓮に、そうか、そうだね、と洋介は頷いた。


「でも君は、結局勤勉に働いてくれるのだけれど」

「それはもちろん。だって私はこの邸の女主人だもの。いい加減なことはできないわ」


 朝食に集中する香蓮は、はしたなくならない程度に食事の品々を次から次へと口内に運びながら受け応える。


「頼もしいね。僕の奥様は」


 そうして洋介は新聞を畳んでテーブルの隅に置くと、立ち上がった。見送りをしようと、香蓮も食事の手を止めて、急いで口元を拭いて腰を浮かせる。

 そんな彼女を洋介は押し留めた。


「ここで良いよ。食後のお楽しみが残っているだろう?」


 お楽しみ、の言葉につい部屋の隅で温められた珈琲の硝子ポッドに視線を向けてしまう。

 ネクタイの締まりを確かめた洋介は、躊躇いがちにそろそろと青い布張りの椅子に腰を下ろした香蓮の方へと回ると、下ろしたままの香蓮の豊かな髪をそっと耳に掛け、白く柔らかい頬にそっと口付けた。

 主人の唇の柔らかな感触に、香蓮は瞼をわずかに震わせる。


「行ってくるよ、可愛い奥様。なるべく早めに帰ってくる」


 蕩けそうな低い美声で香蓮の耳元でそう囁いて、洋介は食堂を後にした。


 仲睦まじい新婚夫婦の微笑ましい一場面を見て見ぬふりをする使用人たちとともに食堂に残された香蓮は、放心した様子で黙々と朝食を片付ける。

 空になった皿が下げられ、白く厚みのある陶磁器のカップに入った珈琲が目の前に置かれると、香蓮は細い指先で持ち手を摘んで持ち上げた。

 左手でそっと側面を包むと、中身の熱さが肌に伝わってくる。


(なんて優しくて、甘い生活)


 香蓮は朝の光を弾く黒い水面を眺めて、口の端を歪めた。


(まるで、砂糖たっぷりのホイップクリームだけを口にしたような……)


 人知れず自嘲した香蓮は、珈琲カップに口付けて、口内に満たされたどろりとした甘さを、苦い飲み物で押し流した。

 昔から好んでいる、目の覚めるような芳醇な香りが、香蓮を現実に引き戻してくれる。


 甘いものは好きだけれど、と香蓮は思う。でも、スポンジがスカスカで味気ないのをクリームの甘さで誤魔化そうとしているようなケーキは、本当は願い下げなのに。




 香蓮を溺愛する父が、婚約者を見繕ってきたと伝えてきたのは、およそ一年前のこと。華族の娘の結婚相手は親が決めるもの、と割り切っていた香蓮はあっさりとそれを承諾し、いざその婚約者と対面することになったのだが。


「婚約者と対面して早々に言うことではないとは思うのだけれど」


 晩春の昼下り。香蓮の実家の苑崎そのざき邸。濃い紅色の躑躅つつじの見える庭園で、互いを紹介した後のこと。あとはお若いお二人で、と洋介と二人取り残された直後、彼は真剣な眼差しでそう切り出した。


「でも、君に黙っておくのは酷だと思ったから、言わせてもらう」


 このとき胸に過ぎった不安は、果たして正しかったのか。じりじりと太陽の光が香蓮の首元を焼いていた。


「僕には、愛している人がいる。僕の心は彼女と共にある。――だから君を愛することはできない」


 すまない、と頭を下げる将来の夫を、香蓮はどんな気持ちで眺めていただろうか。

 ただ、余計なことを言わなければ良いのに、と思ったことは覚えている。


 人によっては暑いとも言える気候を考慮して用意した冷たい珈琲を口にして、苦味とともに返す言葉を吟味する。


「……そうですか」


 結局、口から漏れたのは、素っ気ないその一言だけだった。

 それでも相手は認めてくれたと受け取ったのか、ほっとため息を吐いた。それが憎らしくて仕方がなかったが、父にとって利益となる以上、香蓮にはもうこの縁談をどうすることもできない。


「でも、代わりに君の良い夫になると誓うよ。お互い、うまくやっていこう」


 白々しくも真摯に紡がれる言葉に、香蓮の頭はすっと冷えていく。

 本人は誠実なつもりらしいが、婚約早々浮気を宣言する男の言葉など、香蓮の心には全く響かない。




 結婚相手を自分一人で決められない華族令嬢の多くは、恋愛に対して大抵二つの道を取る。

 結婚相手が決まるまでの一時の間に、激しい恋を追い求めるか。

 うら若い少女の時分の恋を諦め、結婚相手と穏やかな愛を育むことを決意するか。

 社交界の華と謳われ持て囃された香蓮は、後者を選んだ。

 燃え上がる炎のような恋はドラマチックで素敵だが、その情熱には必ずしも未来は約束されていない。物語では結ばれることも多々あるが、現実にはしがらみの所為で恋が叶うことなどほとんどないのだと知っていたから。

 だが、結婚し家族になった相手とならどうだろう。良くも悪くも未来をともにする相手。刹那的な想い出を胸に良く思えない人と過ごすより、その人だけを愛し愛される方がずっと幸せではないだろうか。


 香蓮はずっと、そう信じてきた。

 けれど、洋介はそんな香蓮の理想を、香蓮自らの口から語るよりも早く否定し、拒絶した。


 香蓮の恋も、愛も、もう一生叶うことはないのだ、と突きつけられた瞬間だった。

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