優しさはミルクのように甘く

 恋人との交流が途絶えていた半年間。だが、その間、姿を見かけたことがないわけではなかった。監禁されていた訳ではないのだから、澪も当然社交に赴く。気掛かりなことがあろうとも、それが華族令嬢の義務であり、存在意義でもあった。

 招待された先にできていた人だかり。不思議に思ってその中心に目を向けると、彼女と腕を組んだ彼がいた。お似合いだという誰かのお世辞に対し、照れくさそうにはにかむ幼馴染。自信に満ちて堂々と腕にしがみつく令嬢の手を払いのけようともしない。誰が見ても――澪でさえも、お似合いだと思ってしまった二人。

 その日、彼と目が合うことはなかった。声を掛けられることもなかった。長年ずっと一緒に居たのに、想いを交わし合ったはずなのに、彼は澪の存在に気が付かなかった。気が付いていたのなら、きっと何かがあったはず。だけど、その後現在に至るまで、弁解の手紙一つも届かなかった。


 そのときからもうすでに縁が切れていたのだろう。しかし、あちらから何も言ってこない以上まだ望みはあるはずだ、と愚かな澪は幻想に縋って、目を背け続けてきた。

 そんな淡い夢ももう終わり。目を覚ます時が訪れたのだ。




 すっかり冷めてしまったそれを口に流し込む。何度か飲んで慣れてきたのか、その飲み物が顔を顰めるような苦味の中に独特の酸味を持っていることに気が付いた。舌先で液体を転がし、味わってみる。ただ苦いだけだと思っていた飲み物にも個性的な味わいがあるのだと知ると、他にどんなものがあるのか、と少し興味が湧いてきた。


「ご存知ですか、お嬢様」


 珈琲に対する認識の変化を察したのか。影のように佇んでいた鷹道が、そっと進み出た。カートからなにかを拾い上げ、カップのソーサーの傍に置く。


「南の異国では、珈琲に練乳を入れて飲むこともあるのだそうですよ」


 それは小さなミルクポットだった。中に入ったとろりとした液体はきっと練乳。澪が珈琲が飲めなくなるのを見越して用意していたのだろうか。執事の用意周到さに舌を巻く。


「本来は、深煎りの豆を使うのですが――」


 ぼうっとミルクポットを見つめるだけの澪を見かねてか、鷹道は置いたばかりのそれを指先で摘むと、粘性のある液体をカップの中に注ぎ込んだ。


「飲み方は人それぞれ。少しくらい違っていても良いでしょう」


 適当なところでポットを置き、黒に沈んだ白い練乳をスプーンでかき混ぜる。渦を描きながら次第に白褐色に変化する珈琲を、不思議な気分で眺めていた。

 綺麗に混ざったそれを、そっと口付けてみる。


「――美味しい」


 珈琲の苦みに、練乳の甘さが調和する。打ち消し合うのではなく、互いを引き立て合っている。大人の味。でも何処か優しい味。なんだか赦された気分になるのはどうしてだろう。


(もう、十分)


 珈琲をすべて飲み干してカップをソーサーに戻すと、ふう、と一息、胸を撫で下ろした。余分なものが削ぎ落されたような、重い荷物を下ろしたような解放感。諦念とは少し違うけれど、なにもかもを赦せるような気がした。

 彼のことも、もういい。手放してあげよう、とようやくそう思えるようになった。


「ご馳走様。とても美味しかったわ」


 食器をそっとテーブルに戻し、静かに椅子を引いて立ち上がった。


「もう、部屋に戻るわね」


 苦い飲み物を飲んだことで目が冴えていて、眠れるかはわからないが。心穏やかに過ごせそうだと思えると、自室に戻りたくなった。布団に潜り、朝を迎え、明日を生きてみようと思えたのだ。

 いつの間にか隣の椅子に用意されていたクリーム色のショールを羽織り、硝子の扉から邸内へ入ろうとする澪を、鷹道が呼び止めた。


「式のお返事は、不参加で出しておきましょうか」


 また澪の傷に触れてしまうのが恐ろしいのだろう、不安そうにおずおずと鷹道は尋ねるが、澪はそれに頭を振った。


「いいえ。参加することにするわ」


 カートの上の招待状を拾う。封筒の差出人を見つめた澪は一瞬表情を曇らせるが、目を伏せ、再び開いた瞳は、覚悟の光を宿していた。


「見届けて、終わりにするの」


 きっと苦しい時間になるだろうけれど。

 自分できちんとこの恋に終止符を打ちたかった。


「大丈夫。きっと忘れられるわ」


 それでもまだ心配そうな執事に、澪は気丈に笑って見せた。それから残ったケーキに目を向けて、少しだけ我が儘を言ってみようかと思い至る。


「でも、式のあと、また美味しいものを出してくれると嬉しい」


 ちょっとしたおねだりに、鷹道は目を丸くしてまじまじと澪を見つめたあと、


「用意しておきましょう」


 表情を綻ばせて恭しく頭を下げた。


「それじゃあ、おやすみなさい」

「おやすみなさいませ、お嬢様」


 屋内に入り風を感じなくなるだけで、空気が暖かくなったような気がした。ここが自分の居場所なのだ、と安心感に包まれる。もう冷たく暗い場所へ、とは思えない。この気持ちを乗り越えて、鷹道をはじめとした、優しくしてくれる人たちの傍で精一杯生きてみたいと思えるようになったのだ。

 苦いばかりの人生でないと、この夜の間に知ったから。


(また、飲んでみようかしら)


 口の中にまだ残る風味に意識を向けて、ふと思う。まだ苦いのは苦手で、ブラックのままでは飲めないだろうけれど、先程みたいに練乳を入れたりといろいろ試してみるのは面白そうだ。煎り方や豆によって風味も変わってくるというし、飲み比べてみたいな、とも思うようになってきた。

 かの令嬢への対抗心はもう、何処にもない。純粋な興味が澪の珈琲に対する熱を掻き立てる。


 それからというもの、澪は満月の夜を迎えると、珈琲を所望するようになった。

 月の光の下で、幼い己を曝け出しつつ味わう大人の味。彼女なりの、大人になるための儀式。


 それが穏やかな夫婦の時間となるのは、まだ少し先のこと。



   ●



(――お元気になられたようで、よかった)


 暗がりの邸の通路でカートを押しながら、鷹道は胸を撫で下ろす。

 邸に届いた手紙を見たとき、いったいどうなることかと気が気ではなかった。邸の使用人は皆、お嬢様の恋を知っていた。彼女の純真さと想いの深さもまた同様に。きっと傷付くだろうと心配した。だから、キッチンは傷心の澪を少しでも慰めようとして、彼女の好きな甘いものを突然作り出したのだ。

 結果はうまくいった。いや、きっと期待以上だった。絶望に沈みかけていた彼女の心は、浮上して立ち直るところまでいった。もう大丈夫だろう、と鷹道が確信できるほどに。


 それにしても、幼馴染だからといって、恋仲だった相手に結婚式の招待状を送りつけるなんていったいどういう了見だろうか。どちらの思惑であるにしろ、無神経なことこの上ない。

 だが、それ以上に腹立たしいのは。


「こんなものなど、忍ばせて」


 ポケットから、折りたたまれた紙を取り出す。

 澪は気が付かなかったようだが、招待状の報せに紛れて小さな便箋が潜んでいたのだ。なんとなく不吉な予感がして、澪がケーキに目を奪われている隙に抜き取った。

 奥方の目を盗んで入れたのだろう。そこに書かれていたのは、澪の恋人だった男のあまりに身勝手な言葉。〝別の女と添い遂げても、心は君の傍にある〟だなんて、誠実さを履き違えた男の甘さが窺い知れる。


「裏切っておいてなお、お嬢様の心をとらえようとするとは――」


 鷹道は手の中でその小さな便箋を握りつぶした。

 相手方は政略結婚だという。このように思いも寄らず別れることになったのは、どうしようもなかったことだろう。だが、別れを乗り越えようとした澪をなお苦しめんとするのを、見過ごすことなどできはしない。


 ケーキをキッチンに返し、お嬢様の喜びの言葉を伝える。沸き立つキッチンの料理人たちを横目に見ながら、丸めた便箋をまだ消されていなかった火の中に放り込んだ。


 こんなものが有ったとは、知らないほうが身の為だ。




 幼い恋は、人知れず灰の中へと埋もれていく。

 大人への階段を上る少女に苦い記憶だけを残し、男の最後の想いの紙片は未練を伝えることなく燃え尽きていった。

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