サヨナラ、小さな罪――Sep.

花を手折ったのが、すべてのはじまり

「あ――」


 昼休み。心地良い秋風にふと目を向けた窓の外。この校舎と別の校舎を繋ぐ塗装の剥げたトタン屋根の渡り廊下を見て、彩海の口から溜め息ともつかない声が漏れた。一人の男子生徒が向かいの校舎へと向かっている姿が目に入ったのだ。

 友人と談笑しながら颯爽と歩くその背中を、ついつい目で追ってしまう。


「どうかした?」


 向かいに座っておしゃべりに興じていた親友の瑠奈は、突然余所を向いて黙り込んでしまった彩海の視線を追った。そこで彩海と同じものを見て、納得したようだった。


「ああ、天道さん」


 瑠奈がその男の子の名前を呼んでも、彩海は反応しなかった。ただじっと、あちら側へと消えていくのを見届ける。

 ふう、と再び溜め息。

 我にかえって視線を向かい側の親友に戻すと、瑠奈は何も言わず、目の大きな幼い顔に穏やかな笑みを浮かべて彩海を見ていて。心の中を見透かされたことに恥ずかしさを覚えて、食べ欠けのサンドイッチの乗った机の上に腕を組んで頬を埋めた。


 暗くなった視界。見えるのは机の木目ではなく、たった今見た彼の姿。

 整ったな顔立ち。スッと伸ばした背筋。堂々として優雅な立ち居振舞い。まだ高校二年生とは思えぬあまりに立派な姿を目にする度、思い出す度に、彩海の胸はぎゅっと締め付けられる。


 この感情をなんと呼ぼうか、彩海は決めあぐねていた。



     ❋



 天道飛鳥。それが彼の名前だ。彩海と同じ高校二年生だが、眉目秀麗、文武両道、加えて現在は次期生徒会長の肩書きを持っているので、とても同格とは言い難い。しかも、名家のおぼっちゃまだ。彩海と天道の立場は、天と地ほどの差があった。

 だが、その天道と彩海は、ちょっとした因縁関係にあった。正確には、彩海が勝手に因縁をつけた。


 それは、一年前の初秋のこと。

 瑠奈が茶道部の稽古で生けるという花に、少しの小遣いをケチって、他人の家の菊を無断で手折ったのがいけなかった。


 竹で組んだ柵からぴょこんと出た花だった。敷地の外だし、一輪くらいなら黙っていてもバレないよ、と彩海が囁き、押し負けた瑠奈がしぶしぶ手を伸ばして手折った。

 そこを家人に見咎められたのだ。

 それも、よりによって、同じ学校の同級生の天道の家で、その本人に見られてしまった。

 眉を顰めた彼に慌てて二人して謝るも、それは泥棒だよ、とやんわりと嗜められてしまい。

 使うのが自分だったからなのだろうか。小さい身体をさらに縮こませて、居心地悪そうにしている瑠奈の姿が彩海の頭にずっと引っ掛かっていた。


 結局、彼は彩海たちの所業を見逃して、菊を譲ってくれたのだけれども。

 そのばつの悪さを、いつの間にか逆恨みに塗り替えてしまったらしい。


 次に天道を見かけたのは、秋の深まったときに開催された学園祭の前日だった。

 玄関フロアの一角で茶道部が開くお茶会のセッティングをしていた瑠奈が、天道に頭を下げていた。ただそれだけで頭に血が昇ってしまって――。

 彼が彩海の親友を苛む相手だと思い込んで、喰ってかかった。

 実行委員の彼は難癖をつけていたわけではなく、茶道部員が己の領分を勘違いしていたのを指摘していただけだと知ったのは、騒ぎを起こした後のこと。


 ひたすら恐縮しきりの瑠奈の姿と、己の軽率さを蔑む天道の冷たい眼の記憶は、彩海の痛い教訓であり、軽いトラウマであり、そして見えない罪の烙印だった。

 それは今も心の奥底で、重たくしこって在り続けている。



     ❋



 放課後。彩海は図書室を訪れていた。立ち寄ったのは、西洋古典文学の並ぶ書架。人の全くいない、薄暗い本棚の間で一冊一冊を手に取ってはページをめくり、しまっては別の本に手を伸ばし、を繰り返している。

 彩海は演劇部。二ヶ月後に迫る学園祭の舞台で行う題材を探していた。

 夏休みに催す定期発表会を終え、引退した三年に変わりこの度部長となった彩海がはじめて主導で行う発表の場。責任重大。みっともないものもできないが、時間の猶予もあまりない。夏休みを終えて早速の難題に、彩海は頭を悩ませていた。


「やあ」


 眉間に皺を寄せながら、本を取っては捲り、しまってはまた手に取って、を繰り返す彩海に、声を掛けてくる人物があった。あまり高校生にない声の掛け方に顔を上げてみれば――


「あ――」


 そこにあったのは、彩海にとって気まずい相手、あの天道飛鳥の姿だった。

 なんでこんなところに。彩海は相手に気取られてはいけないと思いつつも、渋面になってしまうのを止められなかった。


「久し振りだね」


 かつて因縁があったとは思わせぬほどの気安い態度。彩海は返事をしなかった。気まずかったのだ。視線を逸らして、曖昧に頷く。

 実は、クラスが異なるのにも関わらず、あの出来事の後も何度か天道と接する機会があった。廊下でのすれ違い……は仕方ないとして、学校の行事、合同授業。何故か彼との縁ができる。何故か彼は言いがかりをつけてきた彩海を避けることなく、今のように普通に話しかけてきた。彩海としては、軽率な自分とあまりに異なる彼と接するのは気まずいことこの上なく、どうしても相手を直視することはできず曖昧な態度で接してしまうのだが。


「結構お堅い本を読むんだね」

「演劇の、題材を探してて」


 なるほど、相づちを打つ。納得している様子に、普段どんな目で見られているのかと少しイラっとしたが、反論の言葉は飲み込んだ。

 ――楯突ける立場じゃない。


「そちらこそ、どうしてここに?」

「それはもちろん、僕は暇潰しに読む本を探しに」


 暇潰し、と口の中で呟く。勉強に、部活に、生徒会にと忙しそうにしているのに、本を読むだけの余裕も持っているらしい。しかも、その暇潰しに選ぶのがこのようなお堅い――と彩海は思っている――内容のものなのだから、やっぱり優秀な人間は違うな、と思ってしまう。

 ――本当に、彼は彩海とはほど遠い存在だ。かつて、彼と敵対していた自分自身が信じられない。

 押し寄せる後悔に口の中が苦くなるのを感じながらも、場を繋ぐために言葉を紡ぐ。


「シェイクスピアとか読むの?」

「あまりそういうのは。ガリバー旅行記とか、ロビンソン・クルーソーとかが好きだね」


 読んだことはあるかと訊かれ、首を横に振る。元々彩海は読書の習慣がない。漫画は読むが、活字などここ最近では部活関連が精々だ。


「風刺小説って意外に面白いんだ」

「へえ」


 相づちをうちながらも、彩海は居心地の悪さを感じていた。表面的な返事しかできない。早くこの場を離れたい。でも、この機会を逃したくもない。相反する感情が彩海の中でせめぎあう。


「そういえば、今年の演劇部の定期発表会、行ったよ。二年生は〝美女と野獣〟だったっけ」


 思わぬ話題に、ひゅ、と彩海の喉が鳴る。

 演劇部の夏の定期発表会は、校内ではなく地元の公民館を借りて行われていた。学内でポスターを配布したりはするが、実際は部員による招待制。当然彩海は招待なんかしていない。部内に他に知り合いが居るとも聞いていない。それなのに、学年毎に違う劇の演目を知っているなんて――しかも、わざわざ足を運んだというのだから、いったいそれはどんな酔狂なのだろう、と有り難さも他所に彩海は思う。


「結構面白かったよ。あの後、ボーモン夫人の原作も読んでみた」

「それは……光栄です」


 でも、と天道は続ける。


「君が演じたのは、野獣だったよね。どうして?」

「どうして、って」

「君だったら、ベルでも適任だと思ったんだけど、どうしてあえて相手役の方を選んだのかなって」


 野獣は男で、しかも人間ではない。学園祭では化粧を工夫して被り物を避けたが、そのぶん彩海の顔が認識できないほどに加工した。


「別に、特に理由は」


 本当の事を言うと、彩海を主役にという話はあった。しかし、断ったのだ。

 美女と野獣のヒロインであるベルは人格者だ。当初は野獣の外見に怯えてこそいたものの、交流を重ねていくうちに彼の本質に牽かれて恋をする。

 一方彩海は、自らの不都合に目を背けて一方的に天道を敵視した。きらびやかな彼の評価に嫉妬もしたのかもしれない。いずれにしろ、彩海の心根は真っ直ぐとは言えず、性質はベルとは正反対。そう思ってしまうと、ベルを演じるのは躊躇われてしまったのだ。

 自分を投影させるとなると、ベルの意地悪な姉のほうがぴったりかとも思ったのだが、こちらはさすがに出番が少なく、次期部長という立場にあった以上、そんな脇役を演じることは許されなかった。

 だから、野獣の役に落ち着いた。ただそれだけの事。

 なのだが、相手は彩海の答えに納得していそうになかった。しかし、本当の事を言うわけにもいかないので、前々から言い張っていた建前を口にする。


「人間じゃない役も面白そうだったってだけ。お姫様の役なんて、ありきたりじゃない」


 実際、見た目にも演技にも華があると言われ続けた彩海は、何度もヒロインの役をやったことがある。毛色の違う役をやってみたかったというのも、まったくの嘘ではない。

 けれど、それでも天道は納得できなかったらしい。そうかな、と曖昧な表情で首を傾げる。その様子に、彩海は不安を覚えた。


「……私の野獣は、いまいちだった?」


 演劇において、役柄の皮を被るのは得意だと思っていた。だからそうまでして首を傾げられると、何処か変なところがあったのではないか、と心配になってしまう。

 部活動とはいえ、役者としてそれは困る。

 が。


「いや、そんなことはないよ。言っただろう? 面白かったって。ただ……」

「ただ?」

「見てみたかったな、と思って。君のベル」


 とくん、と、胸の高鳴りを覚えたのは、きっと錯覚ではないはずだ。

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