花を贈られて、ひとつのおわり
『なにさ、花の一本くらいで。大げさな』
泥棒、の言葉が存外胸に突き刺さって、つい口を尖らせてしまった一年前。元気が過ぎて敷地の外にまで飛び出した黄色い花のその向こうで綺麗な顔を顰めた天道は、呆れと侮蔑の視線を彩海に向けて。
『花一本でも人の所有物だし、それを無断で持っていくのは窃盗だよ』
天道の苦言は正論で、泣きそうなほど顔を歪めた瑠奈に引き留められた彩海は、何一つ反論できなかったことが無性に悔しくて。引きずって。
今度こそ出番だ、と勇み足で天道に迫った学園祭前日。自分がまた間違えたのだと悟ったときの衝撃。困り顔になっていた親友の姿。再び向けられた軽蔑の視線。このときは一つでなく複数だったのも、また過去を苦いものにしている原因だった。
――そして。
『君はずいぶん軽率だよね』
追討ちのように投げかけられたその言葉は、深く深く彩海の心に突き刺さって、今でも欠片が残っている。当然の報いだと彩海は受け入れてはいるけれど、それでも傷は痛んで辛いし、目を背けたくなることだってある。
「あー……最悪」
まだ薄暗い天井を見上げながら、漏らす。
後悔しているからか、あのときの事は今でも夢に見る。自分が仕出かしたこと、そのときの天道の様子、それがもたらした結末。どれもこれも、彩海にはとても苦い思い出だ。
菊の件も、学園祭の件も、天道は彩海に侮蔑の視線を向けていた。
……今はどうだっただろうか。例えばこの前図書館で会ったとき、彼はどんな眼で彩海を見ていた? あのときと同じ軽蔑の眼差しだろうか。それとも、無関心の瞳だっただろうか。
右腕を額にあてて、ふぅ、と深く息を吐く。目蓋を閉じて、思い浮かんだ天道の姿を頭の中から消し去った。
どんな視線であっても、きっと彩海は耐えられない。
「あーもうっ」
右腕を振り払う。ぼすん、とマットが鳴った。
本当は分かっているのだ。天道に対するこの気持ちがいったいどういうものなのか、判っている。
ただ、それを認めてはいけないのだと、彩海は常々自分に言い聞かせてきた。当然だ。あれだけ相手を傷つけておいて今更恋だなんて、そんな馬鹿な話があるか。
なかったことのように接してくれる相手の優しさを履き違えてはいけない。
この胸の痛みがあまりに辛いからって、罪悪感を恋情に置き換えてはいけない。
必死に自分に言い聞かせているうちに、いつの間にか起きる時間になっていた。ベッドから転げ落ちて、のろのろと紺色の制服に着替えて、もそもそと朝食を食べ、ふらふらと学校へ向かう。
いつもよりずっと早い時間だった。たぶんまだ他の生徒なんて、部活の朝練に来ている人たち以外いないだろうな、と思いながら通学路を行く。気持ちを持て余し、落ち着いていられなかった。学校に行ってしまえば少しは気分が変わるかも、と期待して、車通りの少ないアスファルトの坂を登る。
見上げれば、彩海の心を映したようなどんよりとした空。西の方で台風が来ているんだったか、と聞き流していたニュースを思い出す。雨が降ればいい、と思い、傘を持っていないことに気がついた。まあいいや、濡れて帰れば。やけっぱちになっている間に、学校へ着いてしまった。
そこでどうして、よりによって天道と鉢合わせるのか。
「おはよう」
校門でばったり出くわした天道は、秋の朝に相応しい爽やかさで彩海に朝の挨拶を投げかけた。
「おはよう、ございます……」
何事もなかったように話しかけてくるのを改めて確認して、愕然とした。この人はずっと、過去の因縁など忘れたとばかりに彩海に対して普通に接してきていたのだ。
それがまた無性に悔しくて、彩海は唇を噛んだ。器の違いを見せつけられたような気分だ。
「早いね。朝練?」
そして彼は、まるで友人同士であるかのように彩海の隣を歩く。門から一直線に延びる生徒用の玄関までのちょっとの距離が遠くに感じた。
右隣にある入口が開け放しの体育館から、掛け声が聴こえる。なんとなくその声が遠い。周囲から隔離されたような気分。
「いや、うちの部は発表が近くでもない限り、そういうのはあまり……」
「そうなの? じゃあ、どうして」
「……早く起きたから、なんとなく」
早く逃げたい、と思っている所為だろうか。会話を重ねるうちに、心の中がうねり、荒れていく。焦りとも苛立ちとも取れるなにかが、彩海の胸のうちを支配する。
「そっちは用事があるんでしょ?」
言外にさっさと行ってしまえ、と伝えるのだが、
「僕は部活。自主練だけどね」
だから急ぐ必要はないのだ、と全く伝わった様子がない。
「そういえば、学園祭、なにするか決まったの?」
「……まだ」
嘘だ。本当は決まっている。ガリバー旅行記。天道が勧めたからとつい手にとって、そのまま演目に決まってしまった。でも、だからこそ今、その演目を伝える気にはなれない。理由を言いたくないから。
彩海の中は、早く会話を打ち切りたいという気持ちでいっぱいだ。
「そうなんだ。なにをするのか、楽しみにしているよ」
社交辞令だけとも思えないそれに、ついに彩海の足が止まった。
「ねえ」
ちょうど生徒用玄関を潜った先だった。光と陰の境界線。天道は暗がりの先で訝しげにこちらを振り返っている。
まるで自分の心の闇を覗いているようで絶望的な気分に陥りながら、彩海は溢れ出る言葉を抑えきれなかった。
「どうして私に話しかけてくるわけ?」
「どうしてって……」
知らない仲じゃないし、と困り顔で続ける彼が憎らしいやら、恨めしいやら。
「私があなたに何をしたか、忘れたの?」
「忘れてないよ」
「じゃあなんで!」
強く問い詰めると、彼は視線を逸し、頭を掻いた。――そんなすぐに言えないような理由なのか。彩海はそう受け取ってしまった。
「普通避けるでしょう! 私みたいな馬鹿な人間。また妙な因縁つけられるとか、思わなかったの!?」
「……それはあんまり」
「は……?」
呆気に取られた。真実とはいえ
「なんでよ。馬鹿じゃないの? どんだけお人好しなんだよ!」
彩海自身が、また同じことをしでかすかもしれない、と思っているのに、どうして彼はそんな風に思えるのか。
信じられない。理解できない。醜い自分のなにを見て、近寄ろうなんて思えるのか。優秀な彼にはもっと、話すに相応しい人物がいくらでもいるだろうに。
「もう私に構わないで」
低く言い放って、彩海は天道の脇を抜け、下駄箱の前で急いで上履きに履き替えた。
そうでなければまた、彼に掴みかかってしまいそうだったから。
なにをしているんだろう、とようやく反省できたのは、逃げるように教室に飛び込んだ後だった。せっかく親切にしてくれているというのに、それを自ら棒に振る――どころか仇で返すようなことまでしてしまって、本当に自分は何をしているのだろう、と自責の念に捕らわれた。
今朝の夢のこともあり、自分一人で抱えきれなくなって、登校してきたばかりの瑠奈に泣きついた。
「彩海はさ、菊のときも、学祭のときも、私を庇おうとしてくれてたんだよね」
支離滅裂になりがちだった彩海の話を真剣に聴いてくれた彼女はそう言った。そうなのだろうか、と彩海は過去を振り返るが、自分がどういう理由であんな暴挙に出たかなんてもはや定かではなかった。自分の悪いところばかりが思い出されて、そんな正義感のようなものを持てていた自信がない。
しかし、幼い見た目のわりに落ち着いた瑠奈は、そんな彩海を諭すように微笑みかける。
「自分勝手ばかりであんなことを言ったんじゃないってこと、私はちゃんとわかってるよ」
だから、あまり自分ばかり責めないで。
優しい親友の優しい言葉にようやく落ち着いた彩海だが、それでもまだ納得はできずにいて、ぼんやりと午前中の授業の時間をやり過ごした。
お昼を、といつも通り誘ってくる瑠奈に断りを入れて、今日は一人屋上へ向かう。瑠奈は悪くないが、考え事に周りの喧騒が邪魔だった。
空は一面黒雲に覆われ、今にも落ちてきそうなほどに低かった。柵に肘を乗せ、眼下の景色を見下ろす。右半分は砂だらけのグラウンド。左半分は住宅街。太陽が出ていない所為で影は薄く、景色はいつもより平坦で彩りに欠けていた。
「午後から雨だって」
誰もいない、誰も来ない、と思っていたところに声を掛けられて、彩海は背後を振り返った。そこには呆れた様子の天道が立っている。
「早く戻らないと濡れるよ」
「……どうしてここに」
今朝、構うな、と言ったばかりだというのに。
「君島さんに聞いて」
瑠奈の名字を聞いて、はあ、と溜め息が漏れる。どうやら瑠奈がお節介を働いてくれたらしい。……いや、それとも心配してくれたのか。
余計なお世話、と思いつつも、不思議と腹は立たなかった。
彩海は視線を景色に戻した。天道と話す気はなかった。今朝のことを謝るべきか、とも思ったが、まだ胸のもやもやを消化しきれていないのに、自分が間違っていたと頭を下げるのも違う気がした。
いっそ愛想を尽かしてくれれば楽なのに。
だが、天道のほうは引き下がる気がないらしく、彩海の隣にまで来て、一緒に灰色の景色を見下ろした。
「まだ気にしてるんだね、あのときのこと」
あろうことか、向こうからその話を持ち出してくるのだから、本当に気が滅入る。
「私が、仕出かしたことに罪悪感を感じないような、ふてぶてしい人間に見えたんだ」
つい皮肉を言ってしまうのは、自己防衛のためだった。朝から彩海はもうボロボロだ。強がりを言うくらいでないと、本当にもう崩れ落ちてしまいそうだった。
「いいや。君は後悔しているし、反省もしている。変わろうともしている。僕にはきちんとそう見える」
「それはどうも」
フォローもおざなりにしか聴けない彩海だったが、
「だから、避ける理由がない」
と付け加えられた言葉には、さすがに息を止めた。まじまじと見返せば、相手はふと表情を綻ばせる。
「今朝の質問の答え」
ぽかん、と彩海は口を開けた。
「君は、真面目だからね。だから思い込むと視野が狭くなるのも無理はないかなって」
「真面目……」
むしろ自分に当てはまらないと思っていた評価を下されて、困惑する。そりゃ、確かに後悔も反省もしているけれど。でも真面目な人間なら、そもそも他人の家の菊を採ろうとはしないと思うのだけれど。
「……お人好し」
結局のところ、それなのではないか、と彩海は結論づけた。でなければ、彼が寛容である理由が彩海には説明がつかない。
「さっきも言われたよ、それ」
少し納得がいかない、とばかりに天道は顔を顰めた。
「偽善者って言われると思ってたけど」
「それでも良いよ」
ふ、と肩の力が抜けていく。偽善であってもなんであっても、許されているのだと知ると、なんだか安心してしまった。
それに甘えてはいけないんだろうな、と思いつつ。
でも、否定されないというそれだけで、ずいぶんと心が軽くなる。
「あ、降ってきた」
天道の声に、コンクリートの灰色の地面に黒いスポットが次々に作られていく。
早く戻ろう、と天道が扉の方へ行き、彩海を手招きする。うん、と返しながらも、彩海はぽつぽつと雨を降らせる黒雲の空を見上げた。
顔に掛かる水滴は、彩海の罪悪感を洗い流してくれているようだった。
――サヨナラ、私の罪。
あなたを乗り越え、私は前を向く。
もう一度急かす天道の声に応えて、彩海も校舎の中に避難した。
悪天候の所為で一段と暗くなった階段を二人で下りる。昼休みの喧騒が戻ってきた。瑠奈悪いことをしたな、と彩海は思い出す。いつも一緒に昼ご飯を食べているのに、今日は一人にしてしまった。
「ああそうだ。菊が欲しいときはまた譲るから、事前に言ってくれって、君島さんに伝言を頼むよ」
二年生の教室の階に下りて、それじゃあ、とそれぞれのクラスへ別れようとしたところで、ふと思い出したのか天道が振り返った。分かった、と頷く彩海に、彼はふと意地の悪い笑みを浮かべた。
「ついでに君にも菊を一本贈ろうか」
「そこでまた釘を刺してくるなんてひどい」
彩海は少し肩を落とした。言えた立場ではないけれど、ちょっとくらい反論したっていいじゃないか、と思えるようになってきていた。おこがましくも、対等、というべきか。卑屈になるのは止めようと思えてきているのだ。
そして、だから彼が好きなのだ、とも自覚する。彩海の悪いところを指摘しながらも、それでも彩海を受け入れてくれている。それがどんなに嬉しいことか。
「ご褒美だよ。成長した君への」
「なにそれ。上から目線」
苦笑いしながらも、楽しみにしてる、と彩海は返した。
彩海の罪の象徴。そして、赦された証拠。悪くないな、なんて思える。傷ばかり見ているのは辛いけれど、花なら同時に励ましてもくれるだろうから、直視してもきっと辛くない。
――まさか、毎年のように贈られるなんて、このときは思ってもみなかったけれど。
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