五、強欲艷姫

蔭把かげはっ!」


 怒声に応じて影が色を為した。

 とろりとした目と、ぷっくりとした朱唇が目を引く、花のような顔。結い上げ、簪で飾り立ててなお腰まで届く長い髪。青藍の振袖は襦袢とともに襟ぐりを大きく広げており、白く細い肩とさらしの巻いた胸元が覗く。金欄の帯は斜めに蝶結び。その下はまた着崩して、右の腿が覗いている。足袋を履かない足元には、紫紺の鼻緒の木履ぽっくり。花魁もあわや、といった姿だが、その蠱惑的な姿に、燈架はおぞけが走った。

 影の女は、惟織いおりの姿を見て、うっとりと口の端を持ち上げた。


「いい気味ですわぁ、その情けない格好。実に二百年ぶりの素敵なお姿です」


 それから惟織に見せつけるように颯季さつきを抱き寄せて、そのこめかみに口付けた。顔を白くして固まる颯季と激情に顔を歪める惟織の表情を堪能すると、服の上から颯季の胸をまさぐった。たおやかな白い手が胸のちょうど真ん中に来ると、女はその上で何かを掴むように手を握りしめる。

 二人の目の前、なにもない宙空に昏い虚が現れた。日の光の下にあってなお、濃い闇の塊が虫食い穴の奥に見える。

 女はそれを満足そうに見つめると、颯季を抱えたまま、ちら、と惟織のほうを振り返った。


「それでは、お庭にお邪魔しますわ、〈桜守〉」


 そうして微笑んだ後、そのうろに身を踊らせた。


「待て――っ!」


 惟織が追い縋ろうと必死に手を伸ばすが、その指の先で颯季を飲み込んだ虚が消えた。

 苛立ちに惟織が手を叩きつけたのを見て、燈架とうかは我に返る。抜き身の刀を握ったまま惟織の元に駆け寄って、その身体を支えた。


「おい」


 声を掛けるが、惟織は二人が消え去った宙を睨みつけたまま、動かなかった。その顎に汗が伝う。

 燈架は惟織を川原の上に座らせ、傷の様子を見た。血は既に固まりかけているものもあり、衣服を脱がせるのは難しそうだ。懐から手拭いを二つ取り出すと、一つは折り畳んで衣服の上から脇腹の傷に当て、もう一つを引き裂いて包帯を作り、当て布の上から巻き付けた。


「肩傷までは無理だ」

「いらん」


 ぶっきらぼうに吐き捨てて、よろめきながら立ち上がる。太い九つの尾がさわりと揺れた。

 颯季、と青白くなった口が動く。


「奴は何処に行った」

「我が〈庭〉だ」


 短く答えて、一歩踏み出す。右手を翳すと、女が消えたのと同じ虚がまた現れた。後を追うつもりだ、と気がつくと、相手が妖であることも忘れて思わず声を上げていた。


「その身体で行く気か!」

「他に誰がいる」


 低く声を絞りだし、虚の中へと手を入れた。それが溶けゆく様を見て、惟織は琥珀の目を鋭くする。


「あれは我が子だ。彼奴に渡してなるものか」


 すぅ、と虚に吸い込まれるように、惟織の姿が消えていく。

 唖然としたのも束の間。燈架は刀を握りしめると、意を決してその虚に飛び込んだ。




 虚の中は不確かな世界だった。青と黒の光陰が入り雑じり、混沌と揺らめいていた。足元に地面の感触はなく、己が身すら光と闇に揺らめいて溶けていきそうな心地がした。

 覚束ないのをそのままにひたすら足を動かす。もはや前後の感覚もなく、ただなにかに導かれるまま闇雲に歩いていた。

 どれほど歩いたか。突如目の前が白くなった。手を翳して目を庇い、光が弱まるのを見計らって目を開く。


 そこは、庭だった。周囲を白塗りの塀で囲われた正方形の石庭。足元に敷かれているのは白い玉砂利。塀に沿った縁は土が剥き出しになっていて、うち三方は花弁を白くした桜の木が植えられている。残り一方は、閉ざされた門が設置されていた。燈架はその門を背に立っている。

 天上は暗い。半月のみが浮かぶ真っ暗な夜の空だった。


 ――〈常世の庭〉。

 燈架の頭にその言葉が過る。ここまでの道を抉じ開けたのは、〈花守〉である惟織で、行き着いた先が庭園ならば、十中八九そうではないか。

 件の庭に足を踏み入れたことの事実に、燈架は身を震わせた。歓喜、ではなく、畏怖。あるいは恐怖。見つけてはいけないものを見つけてしまった焦燥。どうすればいいのだ、と思いながら周囲を見回す。


 平行に波打つ白い玉砂利の上に、ぽつぽつと赤い点が続いていた。その先にいるのは、惟織である。白い尾を揺らしながら、石庭の真ん中へと向かっていた。そこにあるのは、庭の桜の中でも一際大きな桜。幹の太さからして、千年近い年月を生きてきたのだろう。枝は太く、しかし自重で幾つか落としたのか、周囲の花に比べると花の付き方が疎らで寂しい。しかし、荘厳さに置いては、他の桜に劣らない。

 その足元には、あの影から現れた女――蔭把と、彼女の腕に拘束された颯季。

 惟織は、蔭把に相対していた。


「遅かったですわね、惟織。もう少しで、全部私の物にしてしまうところでしたわ。この庭も、この子も全部」

「ふざけるな、お前に渡すものなど何一つない!」


 負傷の所為で余裕がないのか、惟織は声を荒らげている。その合間に入る呻きに、燈架の不安が増す。


「あら、つれない。他の方にはお茶とお菓子を持って行ったと聴きましたのに、わたくしにはなにもなしだわ」

「玉を持っていっただろう! そのときの約束を全て反故にして、何を言うか、痴れ者が!」

「美味しいものはいただいてないわ」


 拗ねたように口を尖らす。


「それに、どうしても欲しかったのですもの。この綺麗なお庭と、可愛いこの子」


 蔭把は繊手で颯季の頬を撫でた。術でも掛けられているのか、颯季はされるがままで動かない。顔は泣き出しそうなほどに歪んでいるというのに。


「とっても、美味しそう」


 平時であれば男の欲を刺激する艶かしい声でうっとりと呟いて、ぺろり、と上唇を舐めた。

 その仕草に、皮膚が粟立つ。官能めいた仕草は、嫌悪感しかもたらさなかった。


「あなたが明都に来ると知ってから、ずっとずっと待っていましたのよ。なにより〈庭〉の鍵を持っているという話でしたし。だから、とっても欲しくって、あんな玉だけじゃあ、とても諦めきれなくって……」


 蔭把は切なげに表情を曇らせると、俯いて涙を流しているかのように瞑目する。それから上目遣いで惟織たちを見て、うっすらと笑った。


「我慢、できませんでした」

「だとしても、お前に渡すはずもない。〈庭〉もだ。疾くと去ね」

「ケチね、本当に」


 蔭把は顔を不機嫌に歪めて惟織を見ると、颯季を地面に放り出した。歩きにくい木履で玉砂利の上を淀みなく歩く。広げた手の片方には、いつの間にか刀身の曲がった大太刀が握られていた。


「なら、殺してしまいましょう。持ち主が居なくなれば、私の物になるでしょう?」


 女の手には重いだろうそれを、片手だけで振りかぶる。


 そこでようやく燈架の呪縛は解けた。玉砂利を蹴って惟織の前に割って入ると、振り下ろされる太刀を刀で受け止める。

 あ、と驚く声が二つ。颯季も惟織も、燈架が追ってきたとは思わなかったらしい。


「あら、人間?」


 乱入した燈架を見た蔭把は、不愉快そうに口を尖らせた。訝しむように細められた目は昏く淀んでいて、まるで深淵を覗き込んでいるかのようである。颯季はさっきからこれに覗き込まれていたのか、と思うとおぞけが走った。


「妖祓いですわね。惟織を追ってきたのでしょうか」


 燈架が太刀を押し返したのに乗じて後ろに跳んだ蔭把は、苛立たしげに刀を揺らしながら、燈架を上目遣いに睨め付けた。


「ここまで来るなんて、無粋ですわ。貴方がたは、惟織を炙り出してくれさえすれば結構でしたのに」


 吐き捨てるような台詞に、燈架は眉を顰めた。どうやら、緋坦ひたんのところの妖祓いと間違えているようだが、これではまるで――


「あいつらをけしかけたのはお前なのか……?」


 燈架の疑念に、蔭把は目を丸くする。


「ということは、別の妖祓い? もしかして、お邪魔虫のほう?」


 それからまじまじと燈架を観察して、美しい顔を忌々しげに歪めた。


「……ああ、わたくしのしもべを殺した方ですわね。では、余計に懲らしめて差し上げないと」


 だらり、と下げていた太刀を持ち上げる。

 僕、と聞いて思い出すのは、颯季を襲った狗猿の妖である。あれがこいつの仕業なら、神隠しもそうである可能性がある。

 問い質せば、彼女は訝しげな顔をして首を傾げ、


「……ああ、あの子たちのことかしら。颯季がなかなか手に入らないものだから、戯れに攫ってはみましたけれど、あまり満足できなくて……」


 だから、犬たちに下げ渡してしまいました、とつまらなそうに言い捨てた。

 燈架は腸が煮えくり返るような想いがした。


「桜に吊るした子供は!」


 問い詰める口調が強くなる。


「あれもちょっとした戯れ。わたくしが探していること、あれで惟織に分かっていただけるかなって。……っと」


 言葉を切るのと同時に太刀を横に付きだして、颯季のもとへ行こうとした惟織を阻んだ。惟織が蔭把を睨み付ける。


「お前がそう性悪だから、妖祓いのもとに預けたのだ!」

「本当に困りましたわ、あれは。まさか妖のあなたが妖祓いを頼るとは思いませんでした。さすがのわたくしも、妖祓いの巣窟に乗り込む気にはなれなくて」


 頬に手を当てながらやれやれ、と溜め息を吐くと、それから思わせ振りに燈架を見た。


「だから、ちょっとある方にお願いをして、颯季と一緒にいるときに、他の妖祓いに惟織を襲ってもらうことにいたしましたの」


 そうすれば隙ができると思いまして、と得意そうに言う。結果的に思惑は上手くいったものだから、


「お前は、人間に働きかけることができるのか……?」


 まさかとは思いつつも知らされた事実に、燈架は愕然とする。しかも、あれだけの妖祓いを動かすことができるというのなら、かなりの立場にいる人物だ。それが、こんな妖と通じている、と……?

 蔭把は目と唇を細めてにんまりと笑うと、うふふ、と笑い出した。


「さあ、無駄話ももういいでしょう。いい加減、どちらも目障りだわ。死んでいただきます」


 蔭把は刀を持ち上げると、右手を引き、付きだした左手に刀身を乗せて構えた。


「安心なさって、惟織。ここはわたくしが守りますし、颯季も大事にしますから」

「弄んだ末に喰らうだけだろうが……っ!」

「できるだけ長ーく遊びます」


 くすくす、と笑う魔性の女。それから、正眼に刀を構える燈架へと流し目を寄越した。


「人間は、請うなら僕にして差し上げますよ。今謝れば、あの子と一緒に遊んであげますし」

「やめろ。反吐が出る」


 どれほど蠱惑的でも、燈架は蔭把に対して嫌悪感しか抱けない。それに、〝遊び〟がどのようなものであるか、惟織の反応と桜に吊るされた被害者を思えば、愉快なものでないことは明白だ。

 燈架の反発心が不愉快だったのか、蔭把は顔を顰めた。


「……そうね、やっぱりお邪魔虫なんて不快だわ。……でも、ただ殺すのは霊力が勿体ないですし、犬たちの餌にしましょうか」


 蔭把は掌を合わせて、ぱんぱん、と叩く。その足元に黒い靄が三つ現れた。やがて形を為して現れたのは、いつかお茶屋の前に出たあの狗猿の妖だった。


「さあ皆、ご飯の時間よ。お庭を汚してはいけないから、血の一滴も残してはなりません」


 三頭の狗猿たちが身を屈め、こちらに向けて唸る。燈架は足を滑らせて後退した。三頭との間合いが近く、下がらねば刀を振るえない。

 燈架が距離を取るのを待たなかった狗猿は、一頭ずつ牙を剥いて飛び掛かった。燈架は玉砂利の上を転がって避ける。体勢を整える暇もないまま、次から次に、爪と牙。立ち上がることもできぬまま、立ち膝でなんとか刀を振るった。


「惟織も。もう、わたくしのお庭を汚さないでくださいませ」

「私の〈庭〉だ!」


 叫びとともに飛ばされる狐火を、蔭把は跳ねて躱した。歩きにくいぽっくり。砂利ばかりの不安定な足場の上なのに、まるで素足で野山を駆けるかのようにその動作は軽やかだった。


「人間の子に鍵を渡して、おめおめとわたくしをここまで通して。それで清らかなる〈庭〉を守護する〈花守〉だなんて、笑わせますわ」


 だから、と玉砂利にふわりと降り立った彼女は、にんまりと笑って、太刀を両手で握った。


「わたくしが代わって差し上げます」


 蔭把は一跳びで惟織に肉薄すると、負傷の所為で力の入っていない相手の身体を押し倒し、刀で掌を地面に縫い付けた。


「惟織様!」


 高笑いが庭に響く中、颯季の悲鳴が聴こえた。惟織の身体を跨いだ蔭把は、掌に突き刺した太刀をさらに地面に押し込み、惟織を覗き込むように上半身を倒す。


「ねぇ、惟織。どうして元の姿に戻らないのですか? ああ、もしかして戻れない! わたくしが妖祓いに渡した毒の所為ですね? 刀に塗らせたの。だからあなたほどの大妖怪が、人間ごときに遅れを取るのですわ!」


 惟織の身体の上でころころと愉しそうに笑う蔭把に、惟織は呻き声しか返せない。


「ああ、良い気味。ずっとこうしたかったのです。あなた、ずっとわたくしのことを嫌うから、わたくしもう、なんだか腹立たしくって」


 そして蔭把は身を起こし、突き刺した太刀から手を離した。すっと背を伸ばした彼女の表情は、さっきまでくるくると転じていたのが嘘のように、消え去った。


「死んで」


 色のない声の後、惟織の胸に蔭把の手刀が突き刺さる。白妙の衣を破り、胸に埋まった纎手が、溢れる血に赤く染まった。


「惟織様っ!!」


 一際大きい颯季の悲鳴。燈架もまた一瞬、狗たちの相手を忘れ、そちらの方へ顔を向けてしまう。

 白妙の麗人姿のままの妖は、琥珀色の眼をこれでもかとばかりに大きく見開き、喀血しながら背を大きくのけぞらせていた。太い尾が、毛をまっすぐに逆立てて、一層太く見えている。


「ああ、汚れてしまったわ」


 喀血する惟織の上で、蔭把は抜いた己の手を眺めて悲しそうに言った。赤く濡れたその手に、桜の花弁が貼り付く。

 蔭把の目が不思議そうに大きく見開かれた。背後を振り向いて、庭の中心に鎮座する桜を眺める。


「そうだわ。白だけなんて寂しいですし」


 蔭把の顔が綻ぶ。太刀を抜いて身を屈め、惟織の服の胸ぐらを掴んで持ち上げた。細腕からは想像できないほどの力。身体が持ち上げられ、惟織の手足がだらりと下がる。


「染めてしまいましょうか」


 一度振り子のように揺らした後、下手で惟織の身体を放り投げた。低く弧を描いて飛んでいった惟織の身体は、桜の大樹の根元に転がった。

 玉砂利の下に、血が流れていく。

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