三、妖魔襲撃

 それは、一見いぬに似ていた。仔馬ほどの大きな黒い狗。しかしよく見れば、顔は猿のように平たく、後ろ足は前足に比べて随分と長かった。まるで人間が四つん這いになったような姿。だが、手は狗のものだし、太い尾もある。耳も顔の横でなく頭の上で、三角形。

 狗と猿を組み合わせたような奇抜な生き物。


「――妖かっ!」


 燈架とうかは前に飛び出し、今度こそ腰に差した刀を抜いた。眼前に構え、背後に麗人と少年を庇う。

 妖は、黒目ばかりの眼を、刃を向ける燈架ではなくその背後に向けていた。そこにいるのは少年。なんとなくそうだろうとは思っていた。最近の神隠しを思えば、標的を推測するのは難くない。

 それに、この少年は、妖を惹き付ける何かを持っている。存在感、といえば良いのだろうか。彼には独特の気配がある。妖に近しいところにいるからこそ分かる感覚。

 それは霊力と呼ばれるもの。妖祓いも身につけるそれだが、彼のものは一層特別だと燈架は気づいていた。その霊力を求めて、妖が迫っているのだろう。


「下がっていろ、颯季さつき


 麗人が燈架と同じく進み出た。懐を探り、扇を取り出す。ただの扇ではない。骨が鉄でできた鉄扇だ。


「……蔭把かげはの遣いか」


 妖を睨み付けながら、忌々しそうに呻いた。


「あいつめ。こちらから頭を下げたというのに、結局こうか――っ!」


 どうやら心当たりがあるらしい。意識は妖に向かいながらも、燈架は麗人と少年――颯季の様子を窺った。麗人は冷ややかな怒りを露にし、固唾を飲んでいる少年には怯えの表情。

 彼らは何者か。改めて疑問が顔を出す。主が従者を守っている、その光景の奇妙なこと。従者は主に命を賭して守るべき、とは言わないが、心配はすれど積極的に主人が従者を庇う様子はそう見られない。主従というより親子のようだと、燈架は思った。


「去れ! 今ならまだ許す」


 居丈高に言い放つ様に呆れること数瞬。知恵あるものも居るが、あれはどちらかといえば獣に近い類いで、まず話は通じまい。

 現に、目の前の妖はぐるぐると唸って身構えている。

 聴かないか、と麗人は頭を一つ振り、鉄扇を構えた。足を前後に開き、腰をわずかに落とす。閉じた扇は短刀のように前へ。琥珀の眼差しは鋭さを増す。

 その構えは堂に入っていた。心得程度のものでなく、修羅場の経験ある者の所作である。今更ながら避難を促したほうが良いかと思ったが、麗人についてはその必要はなさそうだった。

 必要なのは、少年の方。


「坊主、店に入っていろ」


 背後を振り向かずに促せば、控えめな返事と小さな足音。その後に、奥からガタガタ、と派手な音が聴こえた。妖の騒ぎに動転した店主がなにかをひっくり返したのだろうか。

 周囲もまた、妖の出現に騒然としている。あちこちで悲鳴が上がり、ここから離れんと靴や草履の音がする。知らぬこととはいえ、本来妖を前に不用意に音を立てることは得策ではないのだが……目の前の狗猿の妖は、騒ぎ立てる大人を意に介すことなく、ひたすら少年が消えた店の奥へと意識を向けていた。


「お前」


 緊迫した空気が漂うなかで、麗人の凛とした声がする。


「妖祓いか」


 瞳だけこちらに向けた麗人が、是、と応えると、に頷いた。ずいぶんと肝が座っている。刀を抜いているとはいえ、こちらをただの武人でなく妖祓いと見抜いたことからしても、尋常ならざる人物であるようだった。


「手伝え。ともかく彼奴を追い払う」

「無論だ」


 麗人の正体も気になるが、ともかく今は、目の前の妖だ。燈架の仕事の手懸かりにも成り得る相手である。なにとしてでも、この場をおさめなければならない。


 燈架は一つ前に踏み出した。鉄扇術は護身を基本とする。つまり受け身の技である。ならば、刀を振り回す燈架が積極的に攻めるべきだろう。

 此方の意を汲んだのか、麗人は店の前へと移動した。

 すると、目標に立ちはだかる麗人を邪魔に思ったのか、狗猿の妖が大きく地を蹴った。強く踏みしめたのは後ろ足。まるで人のように飛び上がり、麗人へと迫まる。そこに燈架は割り込んで、袈裟懸けに刀を振り下ろした。

 黒い右腕が落ちる。ガァ、と妖が哭いた。

 二の腕から血を流しながらよろめいて、妖は燈架の方を向いた。標的を忘れ、腕を切り落とした男に敵意が向く。長くない口吻から、狗の牙を剥き出しにして、ぐるぐると唸った。それからもう一度飛び上がり、狗の爪で燈架を引っ掻かんとする。

 燈架はそれを足を引くことで躱し、腰辺りに来た妖の首筋に柄頭を叩き込んだ。


 地に倒れ込む妖を見て、燈架は眉を顰めた。この場所に現れたこと、十五近くの少年を狙ったことからして、件の妖かと思われたのだが、それにしてはあまりに知能が低すぎる。思考があまりに単調だ。これでは、獲物を弄ぶ発想に至ることはなさそうで、桜に吊るすなど以ての外。別件と思うべきだろうか。


 ――否、しかし。


 先ほど、麗人は誰かの〝遣い〟と言ってはいなかったか。


 地を掻いていた妖はようやく起き上がると、片手の喪失で平衡感覚を失った動作で、再び麗人のほうへと向かった。燈架には既に二撃加えられた。ならば弱いほう、として、先程から動かぬ麗人に目をつけたのだろう。

 どうするか、と目を向ければ、麗人はこちらに目配せをした。任せろということなのだろう。

 代わりに燈架は体勢を調えて、次の一手の仕度を始める。刀を正眼に構えて、瞑目。

 襲いかかった妖を、麗人は扇で往なし、側頭部を打った。再び大地に溺れる妖の背に、仕度を終えた燈架が刀を突き刺した。大地に縫い付けられた妖。刀身にともる。

 たちまち焔に呑まれた妖は、ばたばたと手足を動かすが、逃れることも叶わずに、そのまま墨と化し、灰へと化した。

 燈架が灰の山から刀を引き抜けば、風に散らされて何処かへと散っていく。


ほのお使いか」


 ふぅ、と息を吐き、刀を拭う懐紙を探し始めれば、鉄扇をしまった麗人がこちらへと歩み寄ってきた。


「助かった。礼を言う」

「こちらこそ。助太刀を感謝する」


 燈架は刀を鞘にしまい、汚れた懐紙を折り畳んで袖の内に隠した。


「あんたのところの従者に、大事なくて良かったよ」

「……本当に」


 安堵の表情で店のほうを見つめる横顔に、燈架は話し掛けた。


「最近、明都で子どもが攫われる。歳は十から十五の子だ。一部は変わり果てた姿で見つかった。あの子もきっと、それに巻き込まれかけたのだろう」

「ふん……」


 腕を組んだ麗人は忌々しそうに鼻を鳴らした。据わった目は、誰かを罵っているようである。やはりなにか知っているな、と燈架は確信した。これは問い質すべきか。

 悩んでいるところで相手の方が先に口を開いた。


「お前、護衛を頼めるか」


 突然の頼みに、燈架がしばし固まった。内容を咀嚼。それでもなお訝しむ。

 どんな燈架の反応に焦れたのか、麗人はもう一度言い含めるように言った。


「颯季が妖に狙われている。守って貰いたい」

「何故、俺が」

「妖には妖祓いだ。実力もあるようではある。牽制になるし、私も出掛けるに安心だ」


 燈架は頭を掻いた。暇であれば、考えなくもない。しかし今は一応任務の有る身だ。それも御上からの。気安く是とは応えられない。

 そう伝えるが。


「おそらくもう、子供が狙われることはないだろう」


 麗人は妙な確信を持ってそう言った。


「何故そう言える」

「奴の狙いが颯季だからだ」


 気付いているだろう、と問われ、燈架は黙した。霊力のことを言っているのだ、と分かったからだ。燈架が少年を気に掛けているのも、偏にそれが理由である。


「これまではおそらく憂さ晴らし。標的が定まれば、そちらに集中するはずだ」

「心当たりがあるんだな?」

「……まあな」


 顔を顰めつつ、頷く。


「そういう訳で、一人にはしておけない。だが、私の行く先に連れてもいけない。祓い人の傍に置いてもらえれば、これほど心強いことはない。私がこの街で用事を終えるまでの、しばしの間だ。どうか頼む」




「……と、言われて引き受けたわけか」


 颯季を連れて詰所に戻った燈架に、やれやれ、と煌利こうりは肩を竦めた。苦笑じみた表情の奥には、揶揄する光が見える。


「存外押しに弱いのだな」

「すみません……」


 そう雛壇の下で恐縮するのは、何故か颯季の方だ。畳の上に正座して、縮こまっている。自分の所為で面倒を掛けていると、思っているらしい。お前が気にするな、と燈架は颯季の肩を叩いた。確かにあの麗人――惟織いおりと名乗った――に半ば押しきられてここへ連れてきたりはしたが、彼を守ることそのものに燈架は異存はない。妖祓いとは、もともとそのための人材である。

 ただ、今は上から下された任がある故に、どうしてもそちらに気が取られてしまうのだ。


「しかしまあ、困ったものだな」


 煌利は燈架を見て腕を組む。


「仕事に差し障りがあるのは、否定しようがない」


 せめてそれは颯季のいないところでして欲しかった、と燈架は思う。気にしいな颯季がますます縮こまる。

 見た目のわりに親しみやすい煌利。意外に素直であるゆえ、たまに場の空気を読まずに思うことをそのまま述べてしまうようなところがある。それで揉め事になったことは、数知れず。荒事を忌避しない性質でもあるため、学習もしない。全く困った再従兄である。

 燈架も他人の事を言えないことは、脇に置き。


「仕方ない。代わりに俺が動こう」

「……それが狙いですか、貴方は」


 燈架は半眼を向けた。元来活動的なこの頭首は、屋内での仕事を嫌がる。それを燈架に押し付けようという思惑だろう。差し障り云々も、燈架が断りにくいように敢えて口にしたのか。

 とはいえ、寛容さを見せて認めてくれるのであれば、有難い。書類仕事を甘んじて受け入れた。

 差し出された書類の一枚目に目を通した燈架は、頭首を見やる。


「……ずいぶんと〈花守〉に執着されておいでのようだ」


 書かれていたのは、〈花守〉に関する情報だった。鵺、九尾の狐、酒呑童子……言い伝えられている妖の姿や、これまでの伝承が記載されている。


「先程も、お前が妖を屠ったことを非難されたよ。せっかくの〈花守〉の手懸かりが失せたとご立腹だ」


 颯季を連れて戻ってすぐ、燈架はなによりも先に妖の出現と討伐の報告をした。おそらく神隠し関連であることも含めて、だ。煌利は颯季のことを気にしつつも、先にそちらを報告する、と言って出掛けてきた。小一時間で追い出され、戻ってきてようやくこうして話ができるようになったというわけだ。


「未だ行方知れずの子が見つからないのを差し置いて、ですか」


 なんでも報告に行ったらすぐに追い返された、というので、燈架は呆れ果ててしまう。国を司る者がその様とは、なんとも涙の出る話だ。

 ふと、煌利は深刻な面持ちで言葉を漏らした。


「〈庭〉に関心があることを、最近は包み隠そうともしない。どうも下らない思惑を抱いているようだ」


 難しい表情でしばらく考え込み、それから考えを振り払うように頭を振った。


「要らぬ話だったな。とにかく、颯季君は燈架に任せる」


 そうしてこの場は解散となり、燈架は颯季と二人、頭首の部屋から下がった。

 とりあえず燈架たち実動隊の妖祓いが集まる居室へ、と廊下を歩いていると、遠慮しがちに颯季が尋ねる。


「……どうして〈花守〉を捜しているんですか?」


 しまった、と燈架はほぞを噛んだ。部外者のいる前で、ずいぶんな話をしたものだ。

 しばし悩んだ燈架は首を掻き、仕方なく言える限りのことを白状した。


「神隠しの犯人だと考えているからな」

「昨日の花の話なら、迷信ですよ。〈花守〉が花を穢す行いをするはずがない」


 ずいぶんと確信を持って言う。奇妙に思いながらも疑問は口にすることなく、燈架は続けた。


「そうと御上が思っていないから、困ったものだ。動きが縛り付けられて敵わん」


 先程、燈架が妖を退治したことを叱られた、と煌利が言っていたことからして、今後妖祓いは元凶となる妖を捕らえることを第一に動くことになるだろう。御上の命令である以上、たとえ自分の命が危ぶまれても、殺すことなどできはしない。十分な動きができないとなると、妖との戦いはやりにくいものとなる。それは非常に煩わしいし、損害が出ることを思うと気が重くなる。


「すみません。そんな大変なときに足を引っ張るようなことを……」

「別に、気にするな。もともと妖祓いはそういうもんだ」


 むしろ余計なのは、御上の命による〈常世の庭〉がらみの件である。足を引っ張っているのは、間違いなくあちらの方だ。


「お前が気にするべきは、立ち入りを禁じた場所に足を踏み入れぬこと、そしてなにより、お前自身の身の安全だ。主人が迎えに来るまでは気楽に過ごせ」

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