桜花は一片の約束――Mar.
一、薄紅絢爛
湖岸に沿った桜並木で、薄紅の花が最後の舞を見せていた。はらはらと落ちていく花弁は、打ち寄せる波の上に落ち、
波打ち際に棒立ちになり、花筏の出航を見送っていた少年は、近づいてくる足音に顔を上げた。十代半ばのわりに華奢な身体。纏うのは、黒い詰襟。頼りなくも見える顔立ちの彼が目を向けた先にいるのは、浅葱色の着流しに打倒を携えた若く精悍な男だ。つり目がちな顔に不敵さを醸して、少年に近づいていく。
「散ってしまったな」
ええ、と少年は短く応えた。親しげな男に対して、よそよそしさがまだ少しばかり残っている。
少年はもう一度、視線を湖に落とした。小さな波音。薄曇りの空の光を反射した灰色の水面。落ち着いた景色は、浮かれた花盛りの時季が過ぎ去ったのを象徴しているかのようだった。
「まだ、逢って七日か。存外短いものだ」
少年に並び立った男は、腕を組み、空を見上げた。その視線が追うのは、やはり薄紅の桜の花だ。
「こうしてみるとやはり、名残惜しいものだな……」
感慨深い呟きに、しかし、詰襟の少年はこれに同意しなかった。
「薄紅の桜は嫌いです。桜は白のほうが良い」
そう言いながら、顔をあげ、宙に向かって手を伸ばす。背後の木からひらひらと落ちてきた花弁を追って、掌を握り締めた。
その手を胸の前に持ってくる。
「でも、この色だからこそ、僕は約束を忘れません」
そうして開いた掌に、綺麗に形を残した桜の花弁が一つだけ。
その一片を前に、男はこの七日の出来事を振り返った。
* * *
「あの、すみません。相席良いですか?」
夜も賑やかな茶店〝
「他に、空いている場所がなくて……」
所在なげに突っ立ったままこちらを見下ろす少年。学生のような黒い詰襟を着た身体は華奢ながら充分育っているものの、まだ顔立ちに幼さの残る彼の困り顔を見て、男は周囲を見回し、納得した。二十はあったはずの四人掛けの卓は全て埋められており、隅でも何処でも人が入り込む余地がないほどの盛況ぶりだった。
だからこの、床に座布団だけが置かれた高欄の席を覗いてみたというわけか。
「ああ、いいぜ。座れよ」
快く返事をしながら、着流しの男は自らの身体を右に寄せた。一人分の身体が入るほどの隙間ができる。
「ありがとうございます。それでは、失礼し、て……」
遠慮しいしい座ろうとした少年は、欄干に降りたところでふと足を止めた。夜の肌寒さも忘れ、そのまますぅと眼下の景色に視線を奪われる。
地上十階ある楼閣の、その七階に設けられた天覧堂からは、道々に提灯が掛けられた祭り気分の通りと、その向こうにある大きな湖を望むことができる。ぼうと光る暖色の灯りの連なりはそれだけで幻想的。だが、この時期はさらに湖岸に沿って植えられた桜が満開で、薄紅の花を広げているものだから、なお見事になっていた。灯りは花よりも下にあるものだから、花笠が浮かび上がってくるようにも見える。夢のよう、と誰かが言っていた。
しかし、今宵はそれだけではない。桜の木々の向こう、穏やかな水鏡には、向こうの山より昇った満月が映し出されていた。冴え冴えとした青い月の光は湖岸の提灯の光に遠く、自らの色を湖に弾いている。
「見事だろう。天覧堂の花見は常に格別だが、今宵は普段をさらに上回る。奥には望月、手前には夜桜。これほどまでに美しく月見と花見の両方を楽しめる場所はそうないぞ」
そうして男は美味そうに酒を飲み、未だ放心している少年に声を掛けた。
「座れよ、坊主。
「あ……はい」
男の言葉で我に返った少年は、ようやく床の座布団に正座して、か細い声で女給を呼んで茶を一杯乞うた。
注文を繰り返し立ち去りかけた
「それから姐ちゃん。こいつに茶菓子もつけてやってくれ。干菓子じゃないぞ、主菓子だ」
「え……あ、でも僕そんなお金――」
長い前髪の奥の目を見開いて振り返った少年に、男は朗らかに笑った。
「気にするな、俺の奢りだ。代わりにしばし、俺の酒に付き合え」
はあ、と少年は頷いた。
女給が立ち去ったあと居心地悪そうに畏まって、眼下の景色に対面する。身を縮ませる少年に男は苦笑。傍らに盃を置き、徳利から新しい酒を注ぎながら親しげに話し掛けた。
「それにしても坊主、何処の坊っちゃんだ? その歳でここに来るなんて、それなりの身分なんだろう?」
天覧堂は、この高さと景色と落ち着いた雰囲気の店の内装からも分かるように、上流階級向けの高級茶店である。先程の〝賑やか〟も実は談笑程度に留まっており、常に上品な雰囲気が漂っていた。
そんな店を利用できる者など、ほんの一握り。軽装ではあるものの、この男もまた然り、だ。
少年はまたもぎょっとしてこちらを振り返り、両手の平を前にかざして否定した。
「いえ、そんな滅相もない! 僕は、ただの使用人です。ご主人様がこの辺りでご用事があって――」
それからふと、瞳が陰る。前に出した手が力をなくして膝に落ちていく。
「でも僕は連れていけないから、ここでお茶を飲んで待っているようにと、そう言われたんです」
憂いの瞳が景色に向いた。どうやら少年はそのご主人を慕っていて、だから置いていかれたことが寂しいらしい。
可愛らしいことだ。男は口元をにやつかせた。主人もさぞかし可愛がっているのだろう。だからこのような高い店で、使用人を待たせているのだ。
「ふむ、なるほど。そいつはついていたな。滅多にない僥倖だ。とくと味わえ」
男が朗々と話している間に、女給が盆にのせた茶を運んできた。丸盆の手前には懐紙に乗った主菓子。奥には薄い陶器の、淡くぼかした薄紅色の茶碗。中は、良く点てられて泡立った薄茶である。
少年が目の前に置かれたそれに、ぼうっとして見入っている横で、男もまた丸盆の中を覗き込んだ。
「なるほど、これは気が効いてるな。桜色の萩茶碗に、懐紙は桜の透かし入り」
それから男は、茶碗の右側に並べられた小さな布にも目をつけた。
「
古帛紗は通常濃茶を入れた唐物か楽焼の茶碗に使われるもので、外での手前でない限りは薄茶を入れた茶碗に使われることはあまりないのだが、店は細かな作法に拘らず、演出として添えたらしい。小さな六角が連なる中に、丸に固まる桜の花を置いた、亀甲に桜の丸紋。
そして、今一度菓子に目を向ける。男が女給に持って来させたそれは、転がした餡を水色の帯状の生地で包み、線が入った表面に薄紅の花弁が散らしてあった。
「練りきりは花筏、か。とことん桜推しだな」
「凄い。綺麗です」
頬を紅潮させて、少年は頷く。主様に持って帰りたい、と前髪の合間から黒曜石の目を輝かせていた。興奮している様がよく判る。
「さすが天下の天覧堂、ってな」
ふふん、と笑い、男は満月に盃を掲げた。たいそう気を良くしているのは、酒精ばかりが理由ではないらしい。
男が盃を空にしている間に、少年もお茶に手を伸ばした。左手に古帛紗を広げ、その上に茶碗を乗せる。茶碗を回し、正面を避けて口付けている様子からして、心得はあるらしい。主人が教育しているのだろう。
一口
そんな少年に気を悪くすることもなく、男は静かに酒を飲んだ。その歳で謙虚な様が、男にとっては愉快だった。少し気後れするきらいはあるようだが、礼儀正しいのは見ていて気分が良い。
そうこうしている間に、追加の熱燗が男のもとに届けられた。
「良い夜だ。これほど明るい夜ならば、妖どもも鳴りを潜めるに違いない」
歌でも唄いかねない抑揚の上機嫌な男の言葉に、少年は目を丸くした。先ほどから彼は、男に驚かされてばかりいる。もともと素直なたちなのだろう。
「妖……ですか?」
戸惑ったように眉を顰めて男の言葉を繰り返した。
「なんだ知らないのか、坊主。最近の噂を。この
ここ数日の話である。ちょうど下の桜が盛ってきた頃からだろうか。明都の街から子供が次々に消えた。行方知れずになったのは、男も女も関係なく、齢十から十五の子ばかり。物心も付き責任の言葉も知る頃なので、ただの迷子とは考えにくく、神隠しでは、と周囲が騒ぎはじめたのを機に拡がった。
もちろん、その時期は多感な時期でもある。ただ家を飛び出しただけの可能性も多分にあるのだが、親の言に寄れば、その予兆はなかったとのこと。これは単に親の自認に留まらぬのだという。周囲もまた、意外、と口を揃えた。
だから、妖の仕業だろう、と明都の人間は騒いでいる。実際、都の外では妖ものが度々見つかっており、噂は信憑性を増した。今では、その線での捜索がされている。
行方知れずは、数にしておよそ十。そのうち変わり果てた姿で見つかったのは三。残りの六は、未だ見つかっていない。
妖の仕業だとして、と少年は首を傾げた。
「何故その妖は、子どもを攫うんですか?」
さあ、どうしてかな、と男は素っ気なく返し、
「花のためだ、という奴もいるが」
盃を寄せた口元を皮肉げに歪めた。桜を見下ろすその眼が、つい今までと違って冷えている。
「花のため……?」
「椿や梅の紅や桜の薄紅が、血によって染められているという話を聴いたことはないか? あれを妖どもが集めてやっているという話だよ」
人間の子を拐かし、血を搾り取って、水の代わりに与えたり、花弁に塗りこめているのだ、と誰かが騒ぎ立てたのだ。
「もしかしたら、あの桜もそうだったりして」
元に戻り、冗談めかして言えば、少年は顔を青くした。
「……迷信ですよ」
目を伏せそう一蹴する少年は、顔色に反して落ち着いている。
「妖怪が花のために人を集めているなんて」
「だろう。俺もこればかりは疑っている」
盃を置いた男は腕を組んでうんうんと頷いて、片手でまた新しい酒を注ぐ。少年が来る前からかなりの量を飲んでいるようだが、ひんやりとした外の風に当たっている所為か、男の顔は一向に赤くなる様子を見せない。気分は興じているようだが、言葉も意識もはっきりしていることであるし、めっぽう酒に強いのかもしれない。
「だがどのみち、坊主はなんだか妖に好かれそうな気がするからなぁ。夜道には気を付けるんだな」
なにとなしに忠告した男に、少年はただただ訝った。
「何故、僕が妖に好かれると?」
「ただの勘だ」
少年の方に目もくれないままさらりと返し、再び酒を口内に流し込んだ。その様子を何とも言えない表情で眺める少年。今更ながら、男の素性が気になってきたようだ。
「貴方、いったい何者――」
少年が問い質しかけたそのとき。
「
凛とした声が、二人の間に割って入った。少年も男も、その声に反応して振り返る。
男の手から空の盃がことり、と落ちた。
屋内と
これほどまでに華やかな容姿をしておりながら、麗人は何処か朧気だった。まるで桜吹雪が人の形を為したような、そんな印象を抱かせる人物だった。
周囲は、麗人の存在に静まり返っている。
「
そんな麗人に親しみと敬意をもって名を呼んだのは、隣の少年だった。なるほど、これがその主であるらしい。
横目で主従を見ながら、男は床に転がった盃を拾った。
「ご用事はお済みですか?」
犬であれば尾を振っていたことだろう、それほどまでに分かりやすい少年の喜び顔に、麗人は冷悧そうな顔立ちを綻ばせる。それもまた、散る花のように華やかであるのだった。
「ああ、終わった。待たせたな。茶が済んでいるなら、行きたいのだが」
「飲み終えています。只今」
と足下の盆を整えて立ち上がりかけたところで、自分を見守る隣の男のことに気がついた。
「あの、お菓子のお代、やはりお支払いします」
ここに来て申し訳なくなったのか、少年はおずおずと申し出る。
そんな彼に、既に気を取り戻していた男は、必要ない、と手を振った。
「構わんよ。短い間だったが、愉快に過ごせた。あれは、その礼だ」
少年は不思議そうに首を傾げたが、男が引き下がらないことは理解したのだろう。
「では、お言葉に甘えます」
申し訳なさそうに感謝の言葉を残し、少年は主と連れ立って店の外へと出ていった。
その背を見送り、男は正面に向き直って、徳利が空になるまで酒を注いだ。
「これはまた、妙なものを見た」
独りごちて、杯を仰ぐ。
再び桜を見下ろした瞳は、先ほどまでの酔いに浮かれた様が嘘のように凪いでいた。
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