第1期
その涙さえ命の色――Jan.
アネモネの涙は北風に散る
唇に熱い吐息が触れた瞬間、身体も思考も凍りついた。見開いた視界には、目蓋を閉ざした男の夜闇のように黒い前髪が映る。
確か、と停止しかけた頭でエリンは必死に考えた。死地に向かう理由を問われ、それに答えたのだ。その上で告白した。自分が人間でないこと――人間に良く似た作り物でしかないことを。
そんな自分に心を砕く必要などないのだ、と伝えた。そのはずなのに。
どうしてこのようなことになっているのだろうか。
口内を貪られる感覚に、頭の中が麻痺していく。
すがるように掻き抱かれる熱に、胸が締め付けられていく。
もうこのまま全てが停まってしまうのではないか、と錯覚する十数秒。
「――ああ」
唇を離し、深海のような碧い瞳の青年は、その硬く大きな掌でエリンの左頬を包み込むと、す、と親指でエリンの目の下を拭った。
いつの間にか、エリンの頬を涙が流れていた。
「やっぱり、君は人間だよ」
吐息のような声を一つ漏らして。
もう一度、エリンの顔に青年の薄い唇が寄せられた。思わず閉じた目蓋に、接吻が落とされる。
先程のような情熱的なものとは違う、宥めるような優しいキス。
エリンの涙を味わうように自らの唇を一舐めして、だって、と彼は碧い眼を細めて微笑った。
「こんなに綺麗な涙を流せるのだから」
* * *
エリンは、花の種子から生まれた。そう〝父〟から聴かされている。自我を持ったときにはもう、人間の娘と同じような姿であったから、エリンにその自覚はない。ただ、日の光さえ浴びていれば食事を必要としないことや、人間の自然な髪には見られない新緑色の毛髪や、よく見れば緑がかった白い肌から、純粋な人間ではないだろうことは理解できた。
人間と植物の
エリンは、科学者である父アドニスの一つの成果だった。
「動物と植物のDNAは、約七割は同じものなんだ」
エリンが自分の生まれに疑問を持ったとき、アドニスは悪戯めいた笑みを浮かべてそう語った。
「なら、あと三割をどうにかすれば充分だ、と思わないかい?」
それはなかなか暴論であるらしいのだが、詳しいことはエリンには解らない。昔は学会で非難轟々だったという。それでもこうしてエリンは存在するわけだから、本当にどうにかなったのだろう。世間に関心を持ったとき、すでに父は稀代の天才学者として国中で話題となっていた。
そして、その天才ぶりが仇となった。
隣国が、その知識と技術を欲したのだ。
父が活躍する前から生化学の発展と農学への応用に取り組んでいたこの国は、今では〝豊穣の地〟とまで呼ばれている。
一方、隣国は鉄と岩と砂の国だった。自ら食糧を供給する力が弱く、他国を頼ってばかりの国。
隣国は、父に協力を求めてきた。エリンのような存在を造れるのなら、不毛の土地でも育つ農作物だって作れるはずだ、作ってほしい、と。
しかし、アドニスは断った。父の研究は、エリンのようなものを産み出す技術も含めて、父の愛する祖国のために捧げたものだった。
国も、父を手離さそうとしなかった。父の研究が産み出すものの大きさに、素晴らしさと同時に脅威も感じていたからだ。人造人間を造り出すほどの知恵、知識、技術。悪用する手段はいくらでもある。その技術が自分たちに牙を剥くのが怖かったのだろう。
要求を撥ね退けられた隣国は、自らの恩恵を分け与えない非情な国と科学者だ、と国と父を責め立てた。
はじめはただ、食糧難を救ってくれないことへの非難でしかなかった。けれどあまりの手応えのなさに、次第に矛先をエリンへと変えていった。科学者をくれないのなら、せめてサンプルを。しかし、誰も頷かなかった。父に至っては娘を渡すなんてもっての他だと怒りを隠しもしなかった。
そして、最後に隣国が行ったのが、人造人間を作りだしたことへの追及だった。神の領域に手を出し、世界を混乱に貶める悪魔の国――そんなレッテルを貼り付けて、ついには武力行使に乗り出す動機にまでしてしまった。
戦争がはじまったのだ。
戦況は未だ、国境での小競り合い程度のもの。しかし、一度振り上げた拳を下ろせなくなってしまったのか、隣国の攻撃はエスカレートしてきている。国中が戦乱に巻き込まれていくのも、時間の問題だろう。
「……私の所為でしょうか」
不穏なニュースを聴く度に、エリンは何度赤い瞳を揺らしただろう。事の発端は、エリンの存在が隣国に知られたことにある。エリンは、自分が元凶のような気がしてならなかった。
「そんなことはないよ」
不安がる娘の葉緑体の集まった髪を撫で、アドニスは優しく慰めた。
「嫉妬まみれで、器の小さいあの国が悪いのさ」
しかし、民衆はそう思っていなかった。自国にも責任があることを忘れ、全てアドニスとエリンに押し付けた。――そして、ついには、アドニスを殺してしまった。
犯人は、年若い少年だった。事の経緯を理解できるようになったばかりの年頃。若い正義感で短絡的に見出だした解決策が、父を戦犯して排除することだった。
「そもそも、お前なんかがいなければ……!」
事はそう簡単ではない、と後に悟った彼は、父を弔うエリンを憎しみを籠めて睨んだ。お前が隣国に行ってさえいればこんなことにはならなかったのだ、と己の罪を棚に上げて。
だが、その通りだ、とエリンは思った。少年の言う通り、自分の所為で戦争がはじまった。ずっとそう思っていた。
だから、旅に出た。戦火の激しい国境のその先を目指して、木枯らしの吹く日に北へ向かう汽車に乗って。
この身と引き替えに矛を収めてもらうよう、隣国に乞うために。
その道行きで、出逢ってしまった。
「君は、どんな花が好き?」
雪の日だった。一つの田舎町に降り立ったエリンは、トタン屋根だけが掛かる小さな駅のホームで次の汽車を待っていた。行き場もなく、することもなく、隅にひっそりと置かれたプランターを眺めていた彼女に、その人は突然そう話しかけてきた。
「マリーゴールドという感じじゃないな。素敵な花だけど、もっと違う……情熱的な花のほうが、きっと似合う気がするよ。例えば、カーネーション、ダリア――」
「――アネモネ」
黒髪碧眼の爽やかな青年の口から次々に飛び出す花の名前に反応して、エリンは思わず一つの花の名を挙げた。
好きかどうかは知らないが、あまり多くのものを知らないエリンが唯一よく知っている花。
それは、エリンが生まれたという花の名前だった。
その花の名前を聴いた瞬間、なぜか悲しそうに、寂しそうに、深海のような色の瞳を揺らした。エリンが初めて彼を真正面から見た瞬間だった。
「特に用事があったというわけではないんだ。ただ、あまりに悲しそうにその花を見ているから」
用向きを尋ねたエリンに今さら羞恥を覚えたのか、頬を紅潮させた青年は、そう言ってエリンの目の前のプランターを指差した。
冬に咲く花はいくつかあれど、プランターに植えられたそれは、そのいずれにも該当しない。寒さに枯れてしまい、放置された小さな黄色の花の群れ。
エリンは、その寂しい花に、自分自身を未来を重ねて見ていたのだ。
……それを、彼は悲しいと言った。
エリンの全てを知っているわけではないとはいえ、そんな風に言ってくれる人がいるとは、思いもしなかった。
今日は、列車は来ないらしいんだ、と躊躇いがちにその人は口を開く。雪で線路が埋まってしまって、列車は隣町で立ち往生しているらしい。
「だから、良ければ俺と食事でもどう?」
お互い一人飯は寂しいし、と遠慮がちに差し伸べられたその手を、気紛れに取ってしまったのが、彼――シェーマスとの出逢いだった。
その日はそれきりだったけれど、旅の途中で何度も何度も彼とすれ違った。軍人だというその人と、エリンの目的地は同じ場所だった。エリンは自分を隣国に売り渡しに行くが、彼は戦うために国境に行かなければいけないのだという。
常に一人で旅しているようでだったし、急いでいる様子も感じられなくて、エリンは少し疑問を覚えたが、軍人であったことは間違いないようで、彼が何度か軍服を着た男たちと一緒にいるのを見かけたことがあった。
そんな彼とすれ違い、
それなのに、いつの間にか切ない想いを抱いてしまった。
彼は、唯一エリンに優しく接してくれた人だから。
「これ以上、北に行っては駄目だ」
北の終着駅に辿り着いたときもそうだった。どうにか北へ行こうと手段を探すエリンに、シェーマスは黒い髪の隙間から紺碧の瞳を厳しく光らせてそう言った。
「戦争が激しくなっている。この先に行けば、君も無事では済まない」
あまりに真剣に引き留めてくれるものだから、なんだか申し訳なくなって、エリンは自分が人間でないことを告白した。父の造った成果の一つで、この戦乱の火種である、と全てを打ち明けた。
もうこれ以上、優しい彼を煩わせない、そのために。
……もうこれ以上、彼の優しさに惑わされ、決意が鈍ることがないように。
だから、これ以上自分に心を砕く必要はないのだ、とそう伝えた。
それなのに――
* * *
夜明け前に目が醒めたエリンは、青年の温もりを伝えるベッドの中からそっと抜け出した。音を立てずに身支度をし、自分の荷物だけを持って、彼に流されるままに入った宿を出る。
夜明け前の深い闇に踏み出しかけた足を止め、エリンはふと宿を見上げた。その中ではまだ、温もりを分けあった青年が眠っているはずだった。
――まさか自分が〝人並みに〟誰かと想いを交わすことになるとは思わなかった。
目を伏せ、一つ深呼吸。冷たい冬の空気が、エリンの熱を内側から冷やしていく。
「……これでいいの」
念じるように呟いた。これでいい。自分には使命がある。これを果たさなければ、きっと多くの人が死ぬことになってしまうのだ。父が愛したこの国の人たちも。エリンを受け入れてくれたあの人も。
それだけは、絶対に避けたいから。
「私は、行きます」
窓の向こうのその人へ、言い残す。
一つ。二つ。温かいものが頬を滑り落ちた。
「さようなら」
どうか、お元気で。
そして、幸せに過ごされますよう。
――私が居なくなった、この国で。
そう心の中で祈って、エリンは夜明け前の闇の中へと消えていった。
「やはり君は行ってしまうのか」
カーテンの陰からエリンの姿を見つめていたシェーマスは、届かないだろうと知っていてなお呟いた。
エリンがベッドを出たときから、シェーマスは彼女の動きに気づいていた。いや、きっとそれよりも以前から。彼女を抱きしめる前、告白を受けたその時。自分を必死に遠ざけようとする悲しい意志が、とても固いものだと気付いていたから。
だから、きっと自分を置いていくだろう、と思っていた。
「ならば、もう止めはしないよ」
窓から離れたシェーマスは、適当に羽織ったシャツを整え、その上に軍服を着用する。軍靴を履き、ライフルを背負い、軍帽だけは被らず鞄にしまって部屋を出た。
彼女の道行きを止める気はもうなかった。
だが、彼女が敵の手に落ちるのを、まんまと見過ごす気もなかった。
人間ではないと告白されても、シェーマスの彼女への気持ちは変わらなかった。正直に言えば、信じられない。彼女は人間と変わりなかった。人間離れしたところなんて、何一つ見当たらなかった。シェーマスが守りたいと思った命そのものだった。
淡く消えてしまいそうな微笑も。
柔らかい肌から伝わる熱も。
控えめにすがりついてきた手も。
風に溶けてしまいそうなか細い声も。
悲しい運命に揺れる瞳も。
――そして、言葉より雄弁に想いを語った涙も。
狙撃を得意とするシェーマスの目は、宿の外にいるエリンの涙を確かに捉えていた。頬を滑り落ちる二つの雫。純粋な想いに反応した液体は、遠目にもとても美しく、悲しかった。すぐにでも駆けつけて、抱きしめてあげたい衝動に駆られた。――いや、そうするべきだったのだ、と少し後悔していた。寒空の下で、彼女はきっと心細かったことに違いないから。
あのときエリンの頬から舐めとった雫は、薄い塩分の味がした。人間の、血を濾して作られたという生体液と何一つ変わらない、命の味だった。
涙でさえ、彼女は人間だ、と主張する。
そんな彼女を、どうして犠牲にできるだろうか。
シェーマスは、彼女のような弱い人を守るためにここにいるのに。
だけど、彼女はとても頑固だった。きっともう、どれほど言って聞かせても耳を貸さないだろう。こちらが無理にでも引き留めて、もっと飛んでもない無茶をされてしまっては困る、とシェーマスは判断した。
なら、せめて陰から。もしくは遠くからでも。
「俺が君を必ず守ってみせるから」
シェーマスはライフルのベルトを掴んで、朝霞に白む冬の街を走り抜けた。
――目指すは最北。アネモネが花を散らすその場所へ。
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