2‐14 たとえ、この気持ちがエゴだとしても

 なゆちゃんの言葉が、私を凍り付かせる。


「関わらないでって……」


「……私は、凜々花の邪魔になりたくないんだ」


 なゆちゃんは、私の頭を撫でながら続ける。

 頭に伝わるなゆちゃんの手が、酷く冷たいような気がした。


「あたし、分かってたんだよ。あたしがいるせいで、凜々花の邪魔になってるってさ」


「そ、そんなことは……」


「そもそも、あたしは求められてないんだ。Vtuberとして、このまま続けていても仕方ねぇよ。だから……」


「ま、待ってよ……そんなこと、言わないでよ……ッ」


 だって、なゆちゃんが自分に自信がないって言いだしたら、矛盾しているじゃないか。


「――オフ会の時、なゆちゃんは私にもっとリスナーの声を聞けって言ってくれたじゃん。なゆちゃんが誰にも求められてないって言うのは、前までの私と同じだよ……! なゆちゃんが言ってくれた言葉は、嘘だったの?」


「嘘じゃねぇよ。ただ、状況が違うだけ」


 状況って……私となゆちゃんのどんなところが違うって言うの?

 二人で一緒の日にデビューして、Vtuberとして活動をし続けてきた。

 チャンネル登録者数の違いは確かにあるかもしれない。


 チャンネル登録者数が少ないから、求められてないってこと?


 答えを見つけられない私に、母親が子供に優しく諭すように、なゆちゃんは私の頭をゆっくりと撫でながら答えてくれた。


「……凜々花は頑張り屋だ。一生懸命努力してて、ヤエらーのみんなもそのことを知ってる。けど、あたしはそうじゃねえんだ。配信はしねぇし、頑張ってない。いや、頑張れない……飽きっぽくて、やる気もないあたしには……」


 飽きっぽい、っていうのは吟君に聞いた。

 なゆちゃんは、昔からやり始めたことをすぐに辞めちゃうんだって。


「でも、飽きっぽくても今日までVtuberを続けてこられたのは好きだったからじゃないの? きっと、好きなら続けていけばいつかは……」


「好きなことと、成長できることは違ぇんだよ……」


 悔し気に溢したその言葉と共に、なゆちゃんの手のひらの体温が頭の上から消えていく。

 私の頭から離れた手は、なゆちゃんの小さな顔を覆ってしまった。

 さながら、私となゆちゃんの心を隔てる防御壁のようだ。

 心の向こう側に私を入れまいと、必死に守ろうとしている。


「いくら好きでも、理想にはなれねぇんだよ。努力すれば夢は叶う、なんて言葉は嘘だ。叶うわけがねぇ。むしろ、叶えようと思えば思うほどに、どんどん悔しい気持ちが湧き上がってくるんだ……!」


 夢を強く叶えたいと願えば、その分、自分の未熟さや努力不足に気づいてしまう。


 経験を積めば、いろんなことが他人よりも鮮明に見えて来てしまう。


 学校で勉強したって、自分にとっての良い点数と学年全体の良い点数は違う。

 さらに、学年主席の子がいたとしても、地域全体を含めればもっと上がいるかもしれない。

 さらに、その地域で一番になれても、全国一位になれない。

 全国一位でも、世界一位にはなれない……。


 そんな風に、上達してくるほどに見える景色もまた、次々とアップデートされていく。


 私だって、ヤエらーのみんなに「歌が上手い」って言われる。

 けれど、もっと上手い人は世の中にたくさんいる。


 ある分野でどんどんうまくなっていくほどに、自分よりも高い壁があることに気づいていってしまう。


 自分の弱さに気づくほどに、自分のことが嫌いになって、頑張ることすら億劫になって……そうして、やがて夢をも諦めてしまうのだろう。


 なゆちゃんの気持ちは分かる。

 いや、分かったつもりになっているだけなのかもしれない。


 努力する苦しさっていうのは、きっと、その本人にしか分かりえないことなのだから。

 他人が、分かった気になって語るようなことじゃない。


 視線を机に落とし、私はなゆちゃんへ反論する言葉を失ってしまう。


「……凜々花。あたしのことを心配してくれるのは、嬉しいよ。こんなあたしでも、ちゃんと見ていてくれる人がいるんだなって思えるからさ」


「……ううん。だって、私たちは友達でしょ。友達で、大事な相方。だから、なゆちゃんに元気になってほしかったの」


「友達、か……」


 小さく、なゆちゃんは息を溢した。


「……凜々花。あたしらが友達なら、やっぱり決めないといけないことがある」


 嫌な予感がした。

 休日に友達に呼び出されて、遊び終わった後で引っ越しを告げられるような。

 そんな、嫌な気配が。


 なゆちゃんが顔を上げた。

 手の防御壁は、もう必要ない。

 視線を真っすぐに私へと向けてきながら、口許に笑みを作る。

 有無を言わせないような、そんな真剣な目で、なゆちゃんは言うのだ。



「あたし、やっぱり辞めようかなって思う」



「ッ……!」


「ほら、あたしが居ても邪魔になるだけだろ。凜々花はあたしなんかが居なくても、きっと成長できる。夢を叶えられるはずなんだ。だから……」


「ち、違うよ! 私は、なゆちゃんがいてくれるから、今日までずっと頑張ってこれて……」


「あたしは、何もしてねぇよ。……正直、Twitterで『お前はいらねぇ』って言われてさ、そんなの自分でも分かってるよって思ったんだ。だから、踏ん切りがついた。チャンネル登録者数は少ねぇのは事実だし、あたしは必要とされてなかったんだよ」


 なゆちゃんは、ずっと気にしていたんだ。

 チャンネル登録者数が少ないこと。


 ずっと気にしていたことを、杞憂民に刺された。

 言葉で刺されて、『夜桜ナル』は死のうとしている。


「だから、あたしは辞めようかなって思ってる。それに、チャンネル登録者数の少ないあたしに、凜々花の隣に立っている資格はねぇしな。あたしを惜しむ声もねぇだろ」


 なゆちゃんは自虐するように笑った。


 無理して笑っているようには見えない。

 ただ、その目に映るのは空虚だ。

 何もない。なにも感じようとしない。

 心を壊して、感情をすりつぶして。

 悲しさや苦しみから、心を守ろうとしている。


 辞めないでほしい、なんていうのはエゴだろうか。

 なゆちゃんは友達だ。

 友達が苦しいっていうなら、その手助けをするべきなのだろうか。

 死に行こうとする『夜桜ナル』の介錯をして、楽にしてあげた方が……いいのかな。


「……話はこれで終わりだ。そろそろ帰ろう」


 なゆちゃんはおもむろに立ち上がった。

 机の横に掛けていたバッグを手に取ると、短めのスカートを翻して教室から出ようとする。

 その背中に向けて。


「――違う」


 言葉が、溢れ出した。


 なゆちゃんが私へ振り返り、首を傾げる。

 表情は、見えない。

 夕日が強い光を教室に浴びせているにも関わらず、なゆちゃんの立っている場所はちょうど影になっていた。


「……違うって、何が?」


 影の中で訊ねるなゆちゃんに、私も立ち上がった。

 窓から差し込んだ夕日が眩しい。

 そのせいで涙が出てくる。

 いや、違う理由かもしれないけれど、いまは夕日の眩しさのせいにして……。


「わ、私は……やっぱり、なゆちゃんがいないとダメなんだよ」


 心に詰め込んだ気持ちが溢れ出しそうになる。

 部屋中に散らばった玩具を一つひとつ拾って片づけるように、言葉を慎重に選んで、伝えたい気持ちの部分だけ切り取っていく。

 胸に広がった言葉の波が言葉となり、声として震えた。


「――私は、チャンネル登録者数なんてどうでもいい」


 その結果、Vtuberとして言ってはいけないことを言ってしまうのだとしても。

 溢れ出した言葉は止まらない。


「有名にだって、ならなくたっていい! ただ……私は、これからもなゆちゃんと二人で夢を叶えたいんだよ!!」


 応援してくれる人の数は大事だ。

 応援されないと、知名度が上がらない。

 誰にも知られない。

 誰にも気づかれない。


 そうして、人知れず消えていく。

 消えても、誰も気づかれない――。


 だから、チャンネル登録者数は大事だ。

 分かっている。

 分かり切っている。


 ただ、それでも。


「私は、夢を叶えたい! Vtuberとして有名になりたいし、声優にだってなりたい!  やりたいこと、たくさんある。だけど、その夢を叶えるために、友達が夢を諦めるなんて、絶対に嫌だよ!」


 涙が、不思議と流れ落ちていく。

 ああ、くそ。太陽の光が眩しい。

 目を擦って、眩しさを振り払った。


「なゆちゃんだって、夢を完全に諦めたわけじゃないんでしょ? だったら、一緒に叶えようよ……! 二人で頑張れば、きっと……」


「……あたしだって、叶えられるものなら叶えたいよ。ヤエの隣に、堂々と立てるようなVtuberになりたい。お前みたいに、色んな声を出せる声優にだってなりたい。でも、無理なんだ」


 校舎の影に顔色を遮られながら、なゆちゃんの言葉は闇の中に沈んでいった。

 震える声には悔しさが滲んでいた。

 いつものなゆちゃんなら、ここまで感情を露わにすることなんてないはずなのに……。


「あたしには、夢を叶えられるはずがない。こんなあたしと一緒にいたら、凜々花の足を引っ張っちまうだろ。だから……」


 やっぱり、なゆちゃんは優しいんだ。

 どれだけ自分が追い込まれても、他人のことばかり考えている。

 それを、優しさと言わないでなんというのか。


 こんなに優しいのに。

 こんなに頑張り屋で、人並み以上に夢に対して思いを持っているのに。

 どうして報われないんだろう。


 誰も見てくれないんだろう。

 不思議でならない。


 私はなゆちゃんの魅力を誰よりも知っている。

 みんなよりも、たくさん。

 ずっと一緒にいるから、それも当然のことで。


 でも、だから腹が立つ。


 私のなゆちゃんを、どうして他人が勝手に推測して語るのだろうか。

 それで、どうしてなゆちゃんが傷ついて夢を諦めなきゃいけないの?


 私のことをたくさん支えて来てくれたのはナユちゃんなのに。

 ここまで成功してこられたのは、彼女のおかげなのに。


 ふざけるな、と言いたい。

 でも、そんなことを言えるはずがない。


 だから、と、私は顔を上げた。

 なゆちゃんへと、一歩、近づく。


「……なゆちゃんが辞めるっていうなら私だって覚悟するよ」


「覚悟……?」


 首を傾げるなゆちゃん。

 彼女に向かって、私は歩き出す。

 一歩、一歩。


 窓から差し込んでいた夕日は私を取り逃がしてしまう。

 眩しさから逃れた私は、なゆちゃんと同じ校舎の影に入った。

 なゆちゃんの正面に立って、少しだけ身長の高い彼女を見上げる。


「なゆちゃんが辞めるなら、私も辞める」


 ようやく、なゆちゃんの表情が見えた。

 悲痛に歪んだ、そんな表情かおが。

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