第6話 天使の卒業式 2

 五十嵐そよぎにとって、橘六花という存在は、越えることのできない壁だった。

 野球の上手い少女がいる。

 そういう話を聞いて、その噂は自分のことじゃないかと耳を傾けていたそよぎは、噂の人物の名前を聞いて自分ではないことに少しショックを受けた。名前を、橘六花というらしい。

 男子の中に混じって練習していて、野球をやっている女は自分だけだろうと思っていたからだ。そんな人がほかにもいると聞いて、興味がわいた。

 一度、会って対戦してみたい。そう思っていた。

 それは小学生のときに一度だけ訪れた。彼女はピッチャーで、そよぎは打席に立った。

 結果は惨敗もいいところだった。彼女のボールに対してまともにスイングすることすら許されなかった。特に内側に食い込んでくる変化球が見たことのないものでそのボールを見せられた時点でそよぎの負けだった。

 その後、中学校に進級したときに、体格差から男子に混じって練習すること、勝負することが難しいと感じ始めた。女性の中でも小柄な方な自分では、それがとてつもなく大きなハンディキャップとなっていた。中学校の野球部では私のような存在を許容してくれていたから、それがすごく恵まれていたと、そよぎは感じていた。悪く言えば、日本一を目指すような目標のある野球部ではなかったともいえるが、そよぎにとって野球を続けられた、そして嫌いにならなくてすんだのだから、ありがたかった。

 そんな中でも風の噂で聞いた野球少女は、練習試合で登板しては男相手に失点をほぼ許さないピッチングをしていたと聞いた。そよぎにとって、彼女は女性だけれどヒーローのような存在だった。

 高校選びに際して、そよぎは考えた。野球が好きだからと言って甲子園を目指すようなところに行っても、きっと自分にとって何かプラスになるわけではないだろう。成績も悪くはなかったから、近場で一番学力的に難しいところを選んだ。将来、どうするかを考えるのにはちょうどいいと思っていた。だから、こんな学校に野球部時代で噂になっていた二人がいるとは思わなくて、そよぎはそれに運命を感じていた。ただ、その運命は彼らにとっては、人から見れば過酷なものだったと知ったのは、そのすぐ後だった。

 その高校生活で五十嵐そよぎは橘六花にあこがれて、宮本太一に惹かれていた。そよぎから見て、橘六花は太一のことを非常に好意的な態度をとっていたし、宮本太一は明らかに六花のことが好きだった。両想いの彼らが同じ時を刻むことができなかったのは、彼女の病が原因だった。

 橘六花は、そのぼろぼろの身体を、それに屈することなく生き抜いていた。それは、彼女が学校を簡単にやめようとしなかったこと、お見舞いは断らなかったこと、私の前では決して泣かなかったことから、そよぎはそう理解していた。

 そよぎは、そんな彼らが一緒にいることが、本当に素晴らしいことだと、思っていた。

 だから、最後に六花にあった日に言われた言葉と約束が離れない。言うつもりではなかった言葉が、自分を縛る。

「わたしは、六花とは違う」

 そう言ったけれど、そよぎは六花にあこがれていて、彼女になりたかった。だから、太一のそばにいたかったのかもしれない。けれど、自分は六花ではない。それを実感していたのは、彼女がいなくなってからの1か月間だった。

 そのときに太一が放った、大きなホームランを忘れられない。彼はきっと、あの打球を六花のもとへ届けたのだろうと思った。自分も、その一発で目が覚めたような気分になった。

 それから、私は、野球部から離れてみることにした。生徒会長に立候補してみた。幸い、成績がいいこと、最近調子のいい野球部のマネージャーをしていたこと、友達も少なくはないことから、それはあっさりと達成された。何かを変えたい、その動機はそれだけだった。

 ただ、人の本質はそう簡単に変わることはなく、約束は、期限が迫ってもなお、達成される見込みは薄かった。

「卒業の日までにどっちかが太一に告白しよう」

 彼女はいないなら、私がするしかない。

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