第3話 ピッチャーフライ 4
太一のピッチングは、右バッターには打ちにくい。多くのバッターが右打席に入る高校野球においては、それは十分な利点になる。初回、2回を3番の左バッターに安打を許した以外は打ち取って終えた。
太一は今日先発ということもあり、5番に入った。2回の攻撃は4番から始まる打順。4番でキャッチャーの一ノ瀬が打席に入った。
彼の打席の様子を見て、素振り。ベンチの様子をうかがってもうひとスイング。空振りの音が聞こえた直後にリキエルの声が聞こえた。
「ホームラン、狙うの?」
「いや、どうだろう。一応ベンチの指示を見てから、かな。一ノ瀬が塁に出れば、いろいろな作戦があるわけだし」
「練習試合といえ真剣に、ということね」
「ん、そうだね」
なるほどね、と適当な相槌をうってリキエルはまた姿を消した。
一ノ瀬は空振り、ボール、ボール、見逃しでカウント2ストライク2ボールで追い込まれていた。先ほどの見逃しは、狙い球を絞っていたのだろうが、やられた、といった表情をしていた。読みとコースが違ったのだろうか。相手ピッチャーが投球動作に入って、投げる。一ノ瀬はその球をスイングするが、今日初のシュートボールに詰まり、ピッチャーゴロとなった。
不審な点はないが、こういう打者の不意を突くのは六花が得意なことだったなと、頭をよぎった。
ランナーなしで打席が回ってきた。明確な指示はない。強い打球を心掛け、打席に入る。
1球目は得意のインコースまっすぐ。気持ちが焦ってしまい降るタイミングが早く芯でとらえるがファール。2、3球目は外角のボール球。4球目は外角低めいっぱいに来たストレートを見送ってしまい2ストライク2ボール。
太一は5球目、思ったより切れの良かった、外側に逃げていくカーブボールを泳ぎながら芯でとらえ、はじき返した。しかし、打球は浮かず、セカンド正面の速いゴロに倒れた。
「太一、残念ね」
そのセリフは、太一が彼女の球を上手く打ち返せなかったときに言われた言葉だった。
「何か、アドバイスとかはあるか」
「それくらい、自分で考えたら」
リキエルは冷たくそう言った。太一は、ベンチに帰り、キャッチボールの準備をする。
「そうね、泳ぐほどのカーブボールっていうのはそもそもボール球なのだから、それを振ろうとした時点で負けよ。その前に決着をつけなきゃ」
できれば苦労しない。
「4球目のまぐれのストライクに動揺したのがいけなかったわ。どちらかというと1球目の打球にビビって気持ちで負けていたのはあのピッチャーの方で、ボール球しか投げる気がなかったことに気が付ければ、5球目はボール球だと察せたはずだわ。もう少し、ピッチャーの表情とかをしっかり見ると、何かきっかけをつかめる、かも」
「六花みたいなことを言うね」
「六花ってどちら様?」
リキエルはそう言って太一の前からまた姿を消した。
――――
「人はそう簡単には死なないさ」
六花はそう言って、二度目の検査入院から退院した。
「でも、ごめん、しばらくは勝負を待ってほしい、受験とかあるからさ」
その六花の言葉によって、ウイニングボールを取り返すための勝負は、そこで一時中止となった。
太一は、この中断期間は本当のところ六花が入院で失った体力を戻すまでの間で終わると思っていた。しかし六花は冬になっても勝負の再開を持ちかけなかった。むしろ受験、という言い訳が事実となることになった。そして、太一はどこに行くか決めあぐねていた。
学校を休みがちになっていた六花に、どこの学校に行くかを尋ねると
「光蘭高校ってとこにしようと思っている」
と答えをもらった。それを聞き、太一は迷わずにそこにすることを決めた。この高校はこの街の中心から近くにある、地方の進学校だった。野球部の実力は、太一に声をかけることのない、普通の野球部がある高校だった。
成績とにらめっこして、ギリギリ届くか怪しい、と言ったところだった。野球での課外活動の成績を鑑みてもらって、もしかしたら、というところだった。
なんで六花と同じところに行きたいのだろうと、太一は自問自答した。理由はほかの人から見れば明らかだっただろう。太一は六花にホームランを見せてやりたい、そう答えを出した。
受験の結果は合格だった。地方で一番良いと言われている大学に通う親戚に家庭教師を頼みこみ、必死になって冬休みを過ごした甲斐があった。
六花の結果を尋ねに行くと、
「なんで太一までこんなところ受けてるのさ、野球はどうしたの」
と驚かれてしまった。
「六花こそ、野球はどうしたんだ。もう勝負しないのか」
「そんなことは……、いや、いいよ。勝負しよう。でも、もう少しだけ、待ってくれるかな」
「わかった。待ってる」
太一は光蘭高校の野球部に所属し、六花は、帰宅部の生活を送っていた。ただ、体調の良い日は野球部の練習をベンチで見ていてくれた。それが少し嬉しかった。それほど、六花は病に身体を侵されていた。
高校一年の夏の大会のころにはすでに太一はレギュラーを勝ち取った。何よりもストライクゾーン内に苦手のなエリアを持たないバッティングは、入部時点で部内の誰よりもうまかった。どうしてお前はこの高校に来たのか、とまで言われてしまうほどだった。太一はそのたびに、
「まあ、野球だけのやつ、と言われたくなかったので」
と誤魔化して答えた。本当のことは言えなかった。
夏の予選会でホームランを打った。その打球を、六花は見てくれていただろうか。
夏休みに入ると六花は隣に引っ越してきた、というよりは戻ってきたという方が正しいか。彼女の祖父母の家に戻ってきた。しかし、彼女の祖父母ももう鬼籍に入っていたため、彼女はそこで一人暮らし、ということになった。それでもなぜ戻ってきたのかというと、太一の家族に面倒を見てもらえるから、ということだった。太一の両親はそれに快諾したため、またお隣同士になった。
あの日、六花の入院を心の底から心配していた彼女の祖母すら、彼女のそばにいない彼女の気持ちを、太一には抱えきることはできなかった。だから、彼女のことを気にかけるのに、れっかく隣にいたというのに、はれ物に触るような態度でしか過ごせなかった。練習という免罪符をもって、逃げてしまったのだ。
実際、太一が練習に行き、その日の話をすると彼女は喜んでいた。ただ、その喜んでくれていた態度に甘えていたし、本当に言いたいことからは逃げていた。
でも、彼女も逃げていた。それも太一は感じていた。
彼女が健康を取り戻せば、このわだかまりはなくなるはずだと、だから治ってほしい、そう思わずにはいられなかった。この世の中は、すべてなるようになる、そう思っていた。それは事実で、太一は、目の前の現実をただ、ゆっくりと受け入れなければならなかった。正解は、あるようにしか、存在しない。
新人戦の季節、その直前の練習試合が六花の誕生日と重なった。120キロ後半以上の球速のストレートをコントロールよく投げることができた太一は、エースとして登板した。どんなにぎこちなかろうと、彼女に誕生日プレゼント代わりにあげていたホームランを打つ、出なければウイニングボールを渡すんだ、そういう気概で挑んだ試合だった。彼女の誕生日プレゼントに、試合の勝利を送ってあげられなかったことなんて、今までなかったから。
しかし、その日、太一は、ホームランを打つことができず、そして4点取られ、負けた。
そんな試合後の夕方、家に帰った太一のもとに、六花が訪れた。
「一打席勝負。負けたら、あのボールは返してあげる。私が勝ったら、今年の誕生日のウイニングボールを頂戴」
太一が六花のマウンドに立つ姿を見るのは1年ぶりだった。ウォーミングアップの代わりに少し、キャッチボールをした。
「ちょっとだけ、本気で投げるね」
とマウンドから投げるボールを受ける。直球は、前より速くなっている気がした。ただ、太一が今日相手したピッチャーの球よりは遅かった。それは男女の違いだとか、健康化不健康化の違いだ、とかそういったもので片付けられてしまうものだろう。ただ、普通の人にはこんな球を投げることはできない。
「曲げるよ」
と言って投げたボールは、太一が思った通りの分曲がってグローブに入った。今日の相手のピッチャーより大きく曲がってはいなかったように思えた。でも、フォームの違いやリリースの場所などは直球との違いが分からなかった。練習をしないとこういったことにはならないはずだった。
体の調子は悪そうだったのに、いつの間に練習をしたのだろうか。それが少し嬉しかった。
「じゃあ、一打席、勝負」
太一はホームベースの横に立ち、構える。真剣勝負で挑まなければならない。
「次の勝負は、また一年後になる、そう思って挑みなさい」
六花は投球モーションに入る。たぶん、一球目は内角にシンカー。リリースとともに内角を意識し、腕をたたむ。予想通りのコースに、予想通りの球種が来た。芯で当てる。間違いなく、会心の当たりだった。
だけど、タイミングが早かった。ファール。
「太一、そんなに私が速い球を投げられると思ってくれたのかな」
と、六花は苦笑いしていった。
「二球目、いくよ」
六花はモーションに入って、投げる。太一はストレートを待った。六花の放ったボールはカーブ。外に外れて、ボールだ。
「あれ、入ってない?」
「ボール」
真剣勝負だからこそ、譲れない。予想外の球だったが、外れていたように見えたし、第一、彼女も少しバツの悪そうな顔をしていた。
そもそも、策士過ぎる。キャッチボールのときには一球も見せなかったボールを投げてきた。六花は本気で勝ちに来ていた。
「んんっ。分かった」
六花はまた構えて、ボールを放る。外角いっぱいのストレート。太一はこれを見送る。
「これは入った。追い込んだよ」
六花はもう一度構える。息を切らしていた。去年の彼女は、この程度で息を切らすことはなかった。そのことが太一は気になった。投球モーションに入る。横に目いっぱい腕を伸ばして、ボールを放った。
彼女の様子に気を取られ集中を切らしてしまっていた。うちに切り込んできたシンカーを、かろうじてこすった。
六花は少し悔しそうに、でも笑って言う。
「ファールかな」
「ファールだ」
「そっか」
息を切らしていた六花は、もう一度、ボールを投げ込む。内角にシンカー。これは体に近すぎる。太一はそれをかわした。
「ごめん、太一」
「いや、大丈夫。2―2だ」
六花は頷いた。次で6球目。しかし、それに似合わぬほど、息を切らしていた。太一はそんな彼女に声をかけることはできなかった。六花のその表情が、これは真剣勝負だから、口出しは無用だと告げていた。
追い込まれているから、ヤマを張りにくい。来た球を打つ。ボールとストライクがはっきりしてきたのだから、反応できるはずだ。そう決めて、太一はバットを構えた。
六花は右腕を肩の横にしならせて、6球目を放った。ストレート。内角、少し甘め。腕をたたんで、引っ張る。
そのボールは、また遠くに飛んで行った。六花の目はそのボールを追うことなく、太一に向けられた。
「おめでとう、太一」
六花は、太一に近づいて、握手を求めた。太一はそれに応える。
「おととしのウイニングボールは、返してあげる。その代わり、今日のさっきのホームランボールはもらうわ。次、私の誕生日の後に勝った試合のボールの引き換え券代わりに持っているから。
ボール。バックの中から出して待ってるからさ、取ってきてくれなかな」
太一はその言葉にしかがって、ボールを拾いに行った。
ボールを交換するとき、六花は言った。
「私、またね、入院することになった。今度は、ちょっと、長いかもしれない」
太一は、そうなのだろうと思っていた。あれだけ身体を動かすことが好きだった六花が、体育の授業で見学するようになったこと。勝気な性格だった彼女が頼れる人のそばで暮らすようにしたこと。そして、今だって6球放っただけで、肩で息をしていたのだから。それだけ全力で投げたのに、今までで一番遠くに飛ばされたのだから。
「じゃあさ……」
そんな六花が、自分のために作り上げた投球を引き継げるのは自分しかいないから。
「じゃあさ、俺が。俺が六花の代わりに投げるからさ。サイドスロー。教えてくれないかな」
それから、3日間、サイドスローの練習をした。普段の練習の合間を縫って。そして休養日は丸一日をそれに費やした。
六花が入院しても、お見舞い代わりに投球モーションを撮ったビデオを見て、打たれにくいモーションを、壊れにくいモーションを探っていった。そんな秋を、太一と六花は過ごした。
そして六花は、やはり運動するだけの体力を取り戻すためにあてられる時間を得ることはできなかった。それほどまでに六花は治すことを前提に治療を受けたし、そのために体力を使っていたのだった。
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